人嫌いの聖獣
四神獣記外伝。赤の国の章2のその後の話です。
夏の夜の、熱に埋もれた微かな涼しさを想う時、甦るひとつの旋律が心を揺する。それはまるで蛍火のような、微かで淡い、遠い遠い記憶の歌だ。
風の音の中で、足元の男が何か言っている。耳の注意をそちらに向けてはみたけれど、やっぱり聞こえなかった。人の喉や腹では、風の中を通る声など出せはしないのだ。男の声よりも、遥か下を周る鳶のほうがよほど聞こえる。その鳴声は驚きであり、鳥の主への歓待に満ちていた。
付け根に力をやって、ばさりと羽を空に打つ。足下には広く広がる草原と、麦の支度の始まる畑が広がっている。そして、以前と殆ど変わりなく、それらの中央に大きな都が据わっているのだった。空から見た赤の国の王都、南都は国の名に違わず、朱に包まれていた。
遥か空の高みから、夏空を切る翼には五色の彩り。差すような上の空気の中、それの周りを微かに光輝と熱が包んでいた。陽山の主たる聖獣、火山の焔を纏える巨鳥、鸞は、一人の男を連れて南都へと向かっていた。
「ちょっと! 大人しくしてなさい、落とすわよ!」
こちらの声は聞こえただろうか、人の声音でも鳥の喉、きっと届いただろう。遠い鴫の群れの声のように何か騒いでいた男が、それでようやく静かになった。じっと下に目を凝らし、都の様子を窺う。以前――それでも、数千年は昔に見た都に比べればはるかに大きいが、その全景には今微かに違和がある。
「下りるわ。ちゃんと掴まってて」
ひとつだけ、何らかの声の応えが返ってきて、鸞は勢いを付けて下降した。空気がだんだんと温んでいく。地面に近いほど、空気は熱されていて熱い。人間はそれが煩わしくなった時も、飛んで逃げられないから憐れだと思う。だから彼らはあまり火の山に近づかないのだろう。自分もそれを快しと思って住みついた。あんなに遠い日の熱すら耐えられないのだから、陽山を越える街道も麓というには外れのほうを通っているのだ。ただ、今陽山の心臓はいつにまして躍動しているから、自分も煩いと思ってそこを出たのだったが。
「祭り? こんな時期に?」
小鳥の声に、鸞は問い返した。下りるにつれ、小鳥の群れがこちらに語りかけてくるようになった。街ならばどこにでもいるから、人などを掴まえるよりも多くの話を聞ける。大抵が断片的で、なかなかに要領を得ないものだとしても、彼らの声は美しいから好い。そして、知らぬものが無い。隠していることも大抵、鳥たちは知っている。鸞の問いに、彼らは繰り返す。壁、できた、野焼き、祭り、火の。
「なるほどね。新しい城壁が出来て、それのお祝いと麦のための野焼きで、火の祭りをするの」
寄ってきただけでも数百羽の鳥たちが一斉に、嬉しそうに然りと歌う。先ほど感じた違和はそれか。目を凝らせば、城壁の新しいのがわかる。そして、家々と新たなそれとの間に奇妙に空いた空間も。街の大きさを広げるのだ。そのために古いのを排して、新しいものを作ったのだろう。小鳥たちは、人の賑わいがいかほどかを語った。外から見えるよりも人の心が既に祭りの気色なのだという。
祭りか。そうすると、少しばかり面倒な時に下りたかもしれなかった。祭りは人が騒がしい。そして、人の声は集まっても美しくならない。鳥の声が美しいのは、その意志を皆で共有しているからだ。人は同じことを思っているふりをして、その声音が揃わぬから響きが悪いのだ。それに、人はこちらを見て、指をさすから嫌いだ。見えているし、聞こえているのに、無邪気なふりをしてこちらを貶すから嫌いだ。ああ、人など嫌いだ。
鸞が都に下りるのは、今生きる者は知らぬほど昔振りのこと。ならば、下手に都の隅に下りるよりもまっすぐ王宮へ下りてしまおうか。王宮の深部、朱雀の安らうところへと。翼を打たせて、速度を落とす。人の中でももうこちらに気付いたものがある。視線や声が向けられているのがわかる。
「もういや。どうして、ああもはばからずに見るのよ。失礼じゃないの?」
「そりゃあ、上から五色の大きな鳥が来れば、人は見るだろうが。なに、別に悪いことは言ってないぞ。驚いているだけだろ」
足元に紐で結わえた男が言う。勢いを落としたから、言葉が出せるようになったのだ。確かにその言葉は鳥の声もそう言っているから間違いはないだろう。ただ、鳥の声は純粋だからいいが、人の声は思っていることのそのままでないから、空恐ろしい。思うことをそのまま口にしないから、よくわからない。そして、口にせずとも思うことは胸のうちから零れているのに気がつかないから性質が悪かった。
よくもずっといられたものだ、弟は。鸞は嘆息し、王宮の上で数度羽ばたいて止まり、すぐに下りた。
とたん、官たちが騒いでいるのがわかった。衛士達の走る音がする。
「ほら、都についたわよ、イェンジー」
「お前なぁ、フー。ここぁ都っつっても王宮のど真ん中だろう」
自らを鳥の足に括る紐を解きながら、男――イェンジーは言った。
「何よ、文句があるの? あんたが都が見たいって言ったんじゃない。私はまっすぐ陽山に帰ろうって言ってるのに」
そうだ、イェンジーが言いださなければ、自分はこんな人の固まった場所になど来なかった。でも、何度も都の華々しさを口説くから、寄らざるを得なかったのだ。否、自分はそれを聞く義理などなかった。ならば、何故この男のそんな我がままを聞いたのか。
「まぁ、それもそうだな。いや、王宮なんて入れたもんじゃねぇ。こいつぁ都合がいい。王でも描けるか、赤の王は美形と聞くしな」
嬉しそうに、不精髭の上から頬を撫で、イェンジーは笑った。しぐさもつくろいもまるで違うのに、ああそうだ。やはり似ている。それもあるから来たくなかった。ここにはあの人の影がいる。
「その者動くな! そのような巨鳥を連れて、王宮に何用か! 術士妖魔の類ならただで置かぬぞ」
槍を構えた衛士が、こちらに刃先を向け、そう言った。鸞はじっとその衛士を見た。その瞳にも槍の先にも微かな振れがある。こちらが怖いのか。国の主に朱雀を抱いておきながら、鳥が怖いとはおかしな話だ。さてどうしようかと思っていると、傍らでイェンジーが声を上げた。
「二つもちゃんと目が開いてながら、妖魔の類だぁ? とんだ節穴だ。てめぇ、この絢爛華麗なこいつが魔物に見えんのか? ちゃんと見りゃあ魔なんて思えんほど、綺麗なもんだろう。どうみてもお前らんとこの親玉の知り合いじゃねぇか。てめぇじゃあ話が進まん、もっと上の奴連れてこい!」
集まっていた衛士が戸惑うように、顔を見合わせる。そして、誰彼かを呼びにやっているようだった。もう来た、と衛士たちの向こうから声がした。人の群れを分けて出てきたのは、黒衣に赤い巻き布をした、帯剣の男だ。武官なのか。その眼は衛士達とは比べ物にならないほど、確としていた。
「魔獣でないのはわかったが、名乗りもされねばこちらからはどうもできないとは思わんか、御仁。私は王の近衛を務める、ルーユウという者」
お偉いか、とイェンジーが呟き、次いで、人になっとけ、とこちらに言った。
「人の姿みりゃあ納得すんだろ、名乗ってくれ。おれぁ、ただの絵描きだ、偉くはねぇからな」
フーはため息をついた。そして、鳥の姿から、この間得たばかりの自らの人型に変ずる。花の舞うような風と、こちらの姿を見て人垣から嘆声が聞こえた。
「陽山が主、鸞である。弟たる朱雀に会いに参った、すぐさま王を呼びやれ」
こちらを見て納得したようにルーユウと名乗った男が膝をつき、礼をした。いや、この男はこちらの正体に気付いていた。後ろの衛士達に知らせるためにわざと問うたのだ。
「御意に。しばしお待ち戴きたい、鸞様。そちらの御仁は」
「伴の絵描きだ、目につこうが放っておいておくれ」
そう応えると、は、と短い返事がした。
「目につくって何だ」
不満げなイェンジーに、違わないでしょ、と応えて、フーは呼びやられた王の現れるのを待った。