恋人に別れを告げたら、彼がカニに変身してしまった話
カサカサカサカサ……
眠りの中、聞き慣れない音がする……。
「Gか!?」とカッ!目を開いた私の目の前を、その生き物は横切っていった。
平べったい体。
小さい黒い目。
細く長い足と、大きなハサミが2つ。
「…………………………カニ……?」
カニだ。
7〜8センチくらいのカニ。
身のところは小さくて、2〜3センチくらいかな。
……どうしてベッドの上に生きているカニが?
そう思いこの部屋の主である恋人に尋ねようとしたけれど、隣を見るとその姿がなかった。
恋人……虎太郎はどこに行ってしまったんだろう。
代わりに残されているのは、脱ぎ捨てられた服。
カサカサカサカサ……
その服に向かってカニが歩いてくる。
そしてその服の中に潜り込もうとした。
あ!服が汚れてしまう。
そのカニはパッと見たところ汚くはなかったけれど、でも何か付いているかもしれないし、なんだか磯臭いし。
どうしようと思い手を伸ばして服をどけようとすると、カニがこちらをじっと見てきた。
その、瞳……。
その黒い瞳に私は見覚えがあった。
物事の真実を見極めようとする、思慮深さを湛えた瞳。
普段は一歩退いたところから皆を眺めながら、時折愛しい人……私のことだ……愛しい人を見つめる熱い瞳。
「……虎太郎?」
カニの瞳に光が宿る。
「虎太郎なの……?」
カニが勢いよくハサミを上げた……!
気付いてくれたのか!と、まるで返事をするように。
────なんということだろう。
恋人が、カニになってしまった……。
恋人がカニになるということは、そうそう起きることではない。
その衝撃に言葉を失っている私の前で、カニの動きが鈍くなってきた。
ハッ。
よく見れば、カニの体が乾いている。
カニ……カニは水辺の生き物だ。
水がきっと足りないのだ……!
「虎太郎、待って!今濡らしてあげる!」
キッチンに駆け込むと、お皿にペットボトルの水を張り、キッチンペーパーを丸めて小さい山を作ってやる。
小山はお皿の端に作ったので、そこから縁を越えて外に出ることも可能な素敵なおうちだ。
なかなか良くできている。
そこではたと気付いた。
カニって、確か海にも川にもいなかった?
このカニはどちらのカニなんだろう。
場合によっては、ペットボトルのお水だと塩分が足りないんじゃない?
スマホで検索してみたら、川にいるサワガニというのに似ている気がする。
それだと淡水のカニなので、ペットボトルのお水でもすぐには死なないかもしれないけど……でも、もし違ったら命に関わることだ。
「虎太郎、自分が海のカニか、川のカニか分かる?今から質問するから、そっちだよって方に手を挙げてね」
語りかけるとじっと聞いている。
「海のカニですか」
……ハサミは上がらない。
「じゃあ、川のカニですか」
……こちらにもハサミは上がらない。
本人にもまだよく分からないのかもしれない。
見れば、うつむき加減でハサミを下におろし震えている。
虎太郎自身が事態を把握できずつらいはずなのに、ひどい質問をしてしまった……。
「虎太郎、ごめんね……。虎太郎だって急にカニになっちゃうなんて混乱してるよね」
カニの甲羅を指先でそっと撫でた。
スベスベしていて気持ち良い。
「じゃあさ、こうしよう。お塩を小さいお皿に入れて置いておくから」
私は小皿に塩を用意すると手作りのナイスなおうちの横においた。
「もし体が塩を欲しがってるって思ったら、ハサミに塩をつけて、お水に溶かしてね」
そう言うと、俯いていたカニが顔を上げた。
その瞳には輝きが戻っている。
『雛子、ありがとう』
言葉にしなくても虎太郎の言っていることが分かる。
「いいんだよ」
『恋人なんだからさ』って言葉を飲み込んで、私はカニの甲羅をまた撫でた。
ナイスハウスの中に入れてやると、カニは水の中を歩いて遊んでいる。
ごきげんなようだ。良かった。
そう言えば、虎太郎は小学生の頃に水泳教室に通っていたと言っていた。
もしかしたら小さい頃はカニに憧れていたのかもしれない。
それでも……。
「ねえ、虎太郎。そんなに別れようって言われたのが嫌だったの?」
静かに語りかけた。
実は、虎太郎がカニになってしまった理由には心当たりがあって……昨夜、私から虎太郎に別れを持ちかけたのだった。
* * *
私達は同じ大学の同級生だ。
学部もサークルも違うけれど、大学のそばの農家の収穫手伝いという単発アルバイトで知り合った。
虎太郎は友人数人と、私は1人で参加していたところを、気を使ってくれた虎太郎が一緒にやろうと声をかけてくれたのだ。
その後は同じ大学ということで交流が始まり、いつの間にか付き合っていたのである。
でもこの2〜3ヶ月ほどはすれ違いが続き、会えないことが増えていた。
「ちょっと忙しい」
そんな言葉を信じて、寂しさを我慢していたのに。
先日、学食で虎太郎と女の子が2人でご飯を食べているのを見てしまったのだ。
学食だし。
大学なんだから、偶然会った友達と2人で食べるなんてよくあることだし。
あいつら、うちの学食で午後の講義で教室に匂う率トップ3のキムチ丼食べてたし。
そんなんだと、キスとかはできませんでしょうし!
………キイイイイイィーーーーー!!!
私が手に持っていたラーメンの残り汁を2人にかけそうになるのを、隣にいた友が止めてくれた。
ふぅ。危なかった……ありがとう、友よ。
でもそれで私は決意したのである。
別れよ☆
なんでここのところ会えないのか〜とか、その女の子誰ですか〜とか、どうでも良い。
嫉妬でラーメンの残り汁を人にぶっかける人生を選ぶなんて、勿体ない。
私はまだ若くて未来あふれるピチピチな女の子なのだ。
だから本当は今日久しぶりに会う約束をしていたのを、昨夜強引に彼の部屋におしかけて、そして言ったのだ。
「別れよ☆」
そうしたら、虎太郎は固まったあと「なんで?」と尋ねてきた。
無言でいても、何度も何度も繰り返し尋ねてくる。
……言えるものか。
寂しかったなんて。
嫉妬したなんて。
でも理由を知りたいのはまあ分からないでもないので、やっとのことで
「ラーメン女にはなりません☆」
と言えば、
「意味がわからない」
と言う。
「そうですか、それならそれで良いですよ☆」
と言うと
「良くないだろ!」
と言われ。
色々と質問を受けているうちに、いつの間にかなぜか服を脱ぐことになり。
あれれ、あれれ?といううちに あれれ な感じになり、疲れて寝てしまったのである。
あれれ な最中、ずっと
「なんでだよ」
「こんなに好きなのに」
「明日のために……」
とか聞こえていたけど、もう何がなんだか分からないままに あれれ な嵐に飲み込まれてしまった。
……ラーメン女は流されやすいようだ。
気を引き締めなければいけない。
……ということがあって、眠りにつく前は、起きたらまた別れ話をしようと思っていたのに。
起きたら、別れようとしていた恋人はカニになっていた。
* * *
「……ねえ、虎太郎。そんなに別れ話がショックだったの?」
人間をやめてカニになろうと思うくらいに?
「……私だって、別れたくないんだよ。でも寂しくて、嫌なヤツになっちゃいそうで……」
カニは……虎太郎はキッチンペーパーの山の上に登ってじっとこちらを見ている。
「……あの子も、虎太郎のトラ柄のパンツを見たの?」
虎太郎は涼やかでお洒落な爽やかボーイなのだけれど、実は秘密がある。
パンツがトラ柄なのだ。
トラ柄のパンツしか持ってない。
黒字に黒色の筋とかの、さり気ないトラ柄ではない。
すごく虎な、鮮やかなトラ柄。
いつ破れても良いようにとトラ柄のパンツが何枚も並ぶ引き出しは圧巻だ。
大学生の男が何をすればパンツが破れるのか分からないが。
初めて あれれ な雰囲気になった時は二度見した。
もしかしてとある球団のファンなのかな?と思ったけれどそうではなくて、名前に因んだ願掛けらしい。
いつも元気でありますように!だそうだ。
へー。
まあ確かに虎太郎の虎はいつもお元気だ。
願掛けが効いてるよね。
ちなみにお兄ちゃんは竜之介さんというお名前で、お兄ちゃんもパンツは全て竜柄だそうだ。
へー。
……そんな変なところも含めて、私だけが知ってるはずなのだ。
それなのに………もしそんなことまであの女の子も知っているとしたら、私はラーメンを何杯も注文してしまいそう。
でも、虎太郎は私のせいでカニになってしまった。
あんなに虎が好きなんだから、せめて虎になるかと思ったら、カニに……。
私からの別れ話がどれほどショックだったのだろう。
私達はもっと話し合うべきだったんだ……。
「うぅ……」
あまりの辛さに呻きながら虎太郎を見ると……。
「……虎太郎!?どうしたの!?」
虎太郎が、泡を吹いてる………!!!
「虎太郎、どうしたの!?苦しいの!?」
さっきまで泡なんて吹いていなかったのに!
震える手で検索すると、カニが泡を吹くのは呼吸をする時とあった。
でも、苦しい時も泡を吹くって……。
さっきまでも呼吸はしてただろうに、泡は吹いてなかった。
虎太郎は、苦しいのかもしれない………!
そうだ、体が急激に変化したのだもの。
苦しくない訳がないのに!
どうして気づかなかったんだろう!?
「虎太郎、苦しいの!?」
病院!病院に連れて行かなきゃ!
でも動物病院と人間の病院と、どちらに連れていけば良いんだろう?
それに動物病院はカニを診てもらえるのかな!?
私がオロオロしていると、虎太郎は黒い瞳でジッと私を見てきた。
──ああ、いつもの、私がオロオロしている時に落ち着かせようとするあの優しい瞳……。
『雛子、大丈夫か?辛いのか……?』
虎太郎の心の声が聞こえる……!
「虎太郎、こんな時にまで私を心配してくれなくて良いんだよ!」
涙が出てくる。
この人はこんなにも優しい。
泡を吹きながら、虎太郎が2本の細い足で立ち上がる。
そして、足を踏ん張った。
「虎太郎、動いちゃダメ!じっとしてて!…………虎太郎?」
虎太郎は、下の足で立ちながら、両方のハサミを上に掲げた。
そして静かに揺れ始める。
「……虎太郎、踊ってるの?」
今までカニと触れ合ってこなかった私にも、カニのダンスの意味は分かる気がする……。
それでも震える手で『カニ ハサミ ダンス』で検索してみたら──
『 求 愛 』……………!!!!!
苦しみの中、それでも捧げる愛の舞…………!!!
「──虎太郎!!!私も、私も愛してるよ!!!」
爽やかで、皆に優しくて、でも私には特別にすごく優しくて。
すごくすごく好きで……愛してるの!!!
「虎太郎!!!別れるなんて嘘だよ!別れない!ずっとずっと、一緒にいる!カニと人間の壁だって、私達ならきっと越えていけるよ!!!」
泣きながら愛を叫んだ。
誰か、虎太郎を助けて……!
そしてラーメン女よ、愛の前に砕け散れ………!!!
チュるーーーン☆
2人の愛の前にラーメン女がどこかに吹っ飛んで行ったその時。
「何してんの?」
ドアが開く音と共に、虎太郎の声がした。
* * *
「──虎太郎。2つに分かれたの?」
「何言ってんの?」
ドアを開けて入ってきたのは、目の前で泡を吹いているはずの虎太郎だった。
「虎太郎なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、これは?」
愛のダンスを踊る虎太郎を指して、人間の虎太郎に問いかける。
「あ、うちに入り込んでたのか」
「え?」
人間の虎太郎によると、アパートのポストのところに張り紙があったらしい。
虎太郎の上の階の部屋から、飼っていたカニが逃げたと。
家族同然なので見つけたら教えてほしいと書いてあったらしい。
「じゃあこれは、カニなの?」
「カニだろう」
何を言ってるんだ?という顔で、人間の虎太郎はカニの虎太郎を突っついている。
「元気そうだけど、もしうちにいる間に死なれたらいけないからすぐに返そう」
「虎太郎を!?」
「いや、カニを」
「いやだ!虎太郎を連れて行かないで!」
泣いてしがみつく私の頭を、何を言ってるんだ?という顔で人間の虎太郎が撫でる。
……あ。これは、私の虎太郎だ……。
「カニ、返すぞ?」
……はい。
涙ぐみスンスンしている私を腰回りに引きずりながら、人間の虎太郎はカニの虎太郎を返しに行った。
カニの虎太郎の飼い主さんは涙を流して喜んだ。
カニの虎太郎も嬉しそうだ。
イェイイェイと愛のダンスを踊っている。
……バイバイ、カニの虎太郎……。
号泣する私をまた引きずって帰ると、人間の虎太郎は…………虎太郎は、私が泣き止むまで抱きしめてくれた。
* * *
「さて」
泣き止んだ私は、笑顔の虎太郎にがっしりと抱え込まれていた。
「昨夜の『別れよ☆』って何?」
「うっ」
「先に言っておくけど、別れないからね?」
笑顔が怖い。
「あのー、あのー」
「うん」
「……昨夜のあれは、気の迷いでした……すみません、なかったことにしてください……」
……だってカニの虎太郎と過ごして、人間の虎太郎への愛を再認識してしまったんだもの……。
「そう?じゃあ、別れないってことで」
笑顔の虎太郎。怖い。
「……この頃、会えなくて悪かったよ」
ため息をつきながら謝ってきた。
あら。自覚はあったのか。
「でもな。これのためで」
そう言うと、虎太郎は小さい紙袋を差し出した。
白いツヤツヤしたしっかりした紙袋。
きれいな模様が入って、銀色のリボンが結ばれて……あら、これは???
「誕生日、おめでとう」
………あっ!!!!
「忘れてたのか………」
呆れたように虎太郎が見てくる。
「まあとにかく、開けて」
きれいな包みを開けると、中には小さいしっかりとした箱。
更にそれを開けると……
「ふあぁ……」
細いキラッキラのチェーンに、小さいけどキラッキラのダイヤモンドが付いた、すごくすごく繊細なネックレス。
「あの、あの……」
あまりにも綺麗すぎて、なんて言ったら良いか分からない。
「あの」
「うん」
きっとこれ、すごく高い!!!
「ありがとう……」
ネックレスを抱きしめて、お礼を言う。
「これ、似合うと思って。バイトを増やしてたんだ。そのせいで会えなくなってた。寂しい思いをさせてごめんな」
ブンブンと首を振る。
私もちゃんと、理由を尋ねれば良かった。
思い込みで最悪の選択をするところだった。
「ほら、つけてやる」
虎太郎は向かい合うと、私の首にネックレスを留めて「誕生日おめでとう」と囁きながら私にキスをする。
幸せな気持ちで目をつぶるその時、カニの虎太郎がイェイイェイと祝福のダンスを踊ってくれるのが見えた気がした。
お読みいただきありがとうございました!
魚屋さんで可愛いカニが水槽に入っていたのを見て、思いついたまま書いた作品です。
作者は全くカニと触れ合った経験がないです。
変なところとかあっても笑ってお許しください。




