一章 16-18
一章 16
「じゃあ見させてもらいますね」
郁美はケースに並んだジャズのCDを手に取り、ぱらぱらと眺めた。
「どうぞ。表紙に外国人が写ってるものは殆どがジャズですから」
権三郎はハンドルに片手を置いたまま、穏やかに答える。
「へえ、数枚って言ってたけど、もう少し多いみたいですね。十何枚かはありそう」
「適当に良さげなものを選んでみて下さい」
「はぁい。ふむふむ、どのジャケットも雰囲気ありますね〜。迷うなー」
窓の外を流れる緑とジャケットの色彩を交互に眺め、郁美は楽しそうに小首をかしげた。
「ジャズはジャケットも含めて一つの作品というところがありますからな」
「……あ、これなんかちょっとオシャレで素敵な感じ。このシルエットは女の人の顔をイメージしてるのかしら」
「それはエヴァンスの有名なアルバムですね。定番といってよい一枚です」
「じゃあこれでお願いします」
「承知しました」
車内に流れ出した旋律は、郁美の頬を柔らかく緩めた。
「わあ。イメージ通り素敵な曲ですね」
「エヴァンスはピアニストですからな。その旋律はよく『リリカルで繊細』などと評されます。女性には特に人気が高いようですよ」
「そうなんですか。いいですねー、なんかこう、癒されるっていうか」
「気に入ってくれたなら良かった」
郁美はしばらく目を細めて聞き入っていたが、やがてコクリと肩が揺れた。
「……さっきのCDがちょっとアレでしたから、そのギャップで余計に癒されるのかも」
「権俵大三郎の話はひとまずやめておきましょう」
「あはは。了解です」
旋律に包まれたまま、郁美は深く息を吐き、瞼を閉じてしまった。
「鳩森さん、起きて下さい。ちょっと地図を見てほしいのですが」
「ハッ! アタシったらいつの間に」
慌てて上体を起こす郁美に、権三郎は苦笑を浮かべる。
「15分ばかり気持ち良さそうにお眠りになられてましたよ」
「恥ずかしい……ゴメンなさい」
「まぁ疲れも出たんでしょう」
「その、音楽が心地よすぎたもので」
彼女は頬を赤らめつつ、差し出された地図を広げた。
「ここを〇〇方面に向かって大丈夫なのか、地図で確認して欲しいのです」
「了解です……大丈夫、合ってます」
「OK。ではそちらに進みます」
「しかし、S県の道路は都内と比べてスイスイ走れて快適ですな」
ハンドルを操る権三郎の口調は滑らかだ。
「まー、何も無いのがウリの県ですから」
「ついでに海も無いと」
「あー、それ言っちゃいますか。S県民が一番気にしてることを」
郁美はむっとした顔で腕を組む。
「やはりそれは結構なコンプレックスなのですか」
「んー、あたしはここに住んでもう長いですから、無いのが当たり前って感じで普段は気にしないですけど、こうして都民や他県の人からそんなふうにイジられると、すこしイラッとしちゃいますね」
「なるほど、そんな感じなのですね」
「でも! ここだって良い所は結構有るんですよ。災害とかは少なめだし、物価もそんなに高くないと思うし。全てが平均点くらいっていうのかしら。それだって立派な長所だと思うんです」
「ええ、私もそう思いますよ」
「あー、実感籠もってなーい。探偵さんもS県を下に見てるんでしょ」
「そんなことないですよ。貴女の被害妄想です」
郁美はむきになって身を乗り出した。
「でも! 県庁のあるS市にはスーパーアリーナもありますし、最近ではS県をネタにした映画がヒットしました。S県はもう東京の植民地なんかじゃなくて、立派な独立国家です!」
「いや誰も植民地なんて言ってないでしょう。そのようにムキになると、却ってコンプレックスがあると思われてしまいますよ」
「くっ……痛いところを」
「もう海のことは言いませんから、機嫌を直して下さいまし」
「はぁ〜い」
「ところで探偵さん」
「はい」
「車、もっと飛ばしていいですよ」
「えっ!? なんで急に」
「それは、早く着くに越したことはないでしょ」
「えー。だってあなた、あれほど安全運転に固執してたのに……」
「気が変わったんです。冷静に考えれば、普通の安定した車に乗ってるのにチンタラ走る必要は無いですよね」
「チンタラってあなた、誰のせいで」
「時は金なりって言うでしょ。さあ、飛ばして下さい!」
「もお、身勝手な人ですなぁ……」
「探偵さん、まだ遅いですよ。もっと飛ばして!」
「えー。これ以上はまずいですよ。捕まったら色々面倒ですし、何より大事な調査の機会が……」
「何キロだろうが捕まる時は捕まりますよ。さ、もっと飛ばして!」
「そんな無茶な」
「これはクライアントとしての要求です」
「出発時と言ってること全然違うじゃないですか。どういう性格してるんですか」
「ごたくはいいですから。ガンガン飛ばして下さい」
「探偵さん、もっと出せるでしょ」
「さすがにこのくらいが限度ですって。勘弁して下さいよ」
「でも全然空いてるじゃない。見通しもいいですし」
「人や動物なんかが急に飛び出して来る可能性があるでしょ! そんなんでよく免許とれましたね……」
「失礼な! あたし最短で合格したんですから。一回もオーバーしなかったんですよ」
「ともかくこれ以上飛ばせというなら、あの世に行くことを覚悟して下さい」
「チッ、仕方ないわね。じゃああと5キロアップで許してあげる」
「どうなっても知りませんぞ」
「行け行けー。GOGOー!」
「鳩森さーん。やっぱりもう少し落としてもいいですかねぇ?」
「駄目ですよ! 明るいうちに少しでも調査を進めたいじゃないですか」
郁美は眼を爛々と光らせて、彼の懇願をピシャリと撥ねつける。
「とほほ。これぞ文字通りの暴走クライアントですな……」
「何か言いました?」
「いえ何も!」
「さてと、H町に入ったようですけど、目的地まではあと何キロくらいですかな?」
「ここまで来たらもうそろそろです。この長い坂を登り切ったあたりで、右側のほうにM山展望台の駐車場が出てきます」
「左様ですか。ともあれ生きてここまで来られただけでも万万歳ですな」
権三郎が疲弊しきった口調で言った。
「もう、このくらいでオーバーですねえ」
郁美がクスリと微笑む。
「それにしてもえらく長い坂ですなぁ」
「いったでしょ、丘の上に町があるみたいだって」
「確かにそんな感じですねえ」
M山へと続く坂は、急斜面というほどではないが、とにかく長い。途中には、大学とおぼしき建物群をはじめ、レジャーランドのような施設もあったりした。
「着きました、ここです」
郁美が右前方を指差す。
「了解」
「探偵さん、ひとまず運転お疲れ様でした」
「ええ、本当に疲れましたよ。あはは……」
「ふむ、これが噂のM山ですか」
権三郎は実物を前に顔を上へ向ける。
「はい、ここがそのM山です」
「しかしこりゃ、想像以上に小さな山ですなぁ」
そのミニサイズぶりは彼の予想を越えていたらしい。
「そう思うでしょ。こんなところに熊が出るなんて信じられます?」
「ふーむ。確かに」
郁美の先導で、二人は道路を横断して山の登り口である階段へと向かっていく。
だがそこで、想定外の事態が起こった。
階段の前には虎模様のロープが張られ、その中央部に大きな看板が掛かっていた。
「立ち入り禁止ぃ?」
郁美は思わず声を漏らす。
「鳩森さん、その様子だとこの状況をご存知ではなかったようですな」
「あたしが最後にここへ来た時は、こんなロープや看板は無かったんですけどね」
「ふむ、熊害が出た上に、その熊も退治できなかったということで、後日こういう決定が下ったのでしょうな」
「探偵さん、どうします?」
「そうですねえ……」
権三郎が、顎に手を添えて暫し沈黙した。
一章 17
権三郎は一瞬考え込むような素振りを見せた後、得心したように頷いた。
「鳩森さん、ここで少し待ってて下さい」
即座に郁美は拒絶する。
「嫌ですよ。こんな所にいたら悪目立ちしちゃいます」
「それなら、一緒に車へ戻りましょう。考えがあります」
そう言って歩き出した権三郎に、郁美は渋々ながらもついて行った。
車に戻ると、権三郎はドアロックを解除し、後部ハッチを開けて何やら小道具を取り出す。
「何ですか、それ」
「簡易名刺製造機です。数分かかるので、車の中で待っててもいいですよ」
その言葉に郁美は思わず目を丸くした。
「へえ……そんなのあるんだ」
権三郎は縁石に腰を下ろし、付属のキーボードをカタカタと操作し始める。郁美はしばらく作業を見守っていたが、あまり凝視しても邪魔になる気がして、携帯を取り出しネットニュースを眺め始めた。だが内容は頭に入らず、結局は権三郎の動きが気になって仕方がなかった。
数分後、ウィーンという機械音と共にカード状のものが排出される。権三郎はその一枚をストラップホルダーに収め、郁美に差し出した。
「出来ましたぞ。はい、これを」
郁美はそれを覗き込む。薄いプラスチック製のカードに《森林パトロール調査員 森田 美子》と、いかにも公的機関っぽい字体で印字されていた。なるほど、と彼女は内心で得心する。
「それを首に掛けて下さい」
「探偵さん、これって……」
「ご想像通り、ニセ名刺です。今日はこれで急場を凌ぎましょう」
権三郎自身も《森林パトロール調査主任 大山 三郎》と印字されたカードを首に掛ける。
「三か月も経てば警察や猟師に会う可能性は低いでしょう。ただ、ガードマンが巡回しているかもしれない。だからこれが必要なのです」
さらりと語る権三郎に、郁美は呆れ気味に問い返す。
「でも、そんな肩書き、実際にあるんですか?」
「さあ? 如何にもありそうに聞こえるだろうと即席ででっち上げただけです」
権三郎は悪びれる様子もなく笑った。
「警備員と遭遇したら私が応対します。貴女は私の背後で笑顔を見せていればいい」
「……本当に、これで誤魔化せるのかしら」
「大丈夫。私の演技力を信じて下さい」
そう言って道具をリアハッチに戻すと、権三郎はМ山を指差し、意気揚々と宣言する。
「さあ、いざ強行突破と参りましょう!」
郁美は渋々頷いた。
そして権三郎は堂々と虎ロープをたくし上げ、手招きする。
「さ、鳩森さん、どうぞ」
憂鬱を抱きながらも郁美は腰を屈めてくぐる。権三郎も続き、上方を指差して歩き出す。
「では行きましょう。確か五分ほどで頂上でしたね」
「はい、そんなものです。
階段は最初こそ広いコンクリート製だったが、途中から木製の狭い階段へと変わり、左右に折れ曲がりながら山道を登っていく。
「ここから先は貴女が先導して下さい」
初見なら当然の申し出だった。郁美は了承しつつ念を押す。
「分かりました。でもガードマンが出たら即、探偵さんの後ろに隠れますからね」
「どうぞどうぞ。やっぱり女性はこういう場面だと案外ビビリですな」
「私は一般人ですから」
郁美はそっけなく言い、木の階段を先に登り始めた。
結局、警備員に出会うこともなく、二人はあっさりと頂上に辿り着いた。そこには広々とした公園が広がっており、人影はない。
「ここまでは無事に来られましたね」
郁美は胸を撫で下ろし、安堵の息を吐く。
「警備も常駐ではないでしょう。三か月も経てば巡回程度ですよ」
そう言った権三郎が、ふと左手を指差した。
「お、あれが展望台ですな」
小高くそびえる建造物が目に入る。
「ちょっと行ってみましょう」
そう言ってスタスタ歩き出す権三郎。
「ちょっと、置いてかないで下さいよ!」
慌てて追う郁美は、内心毒づいた。
(観光じゃないんだから……もっと緊張感持ちなさいよ)
展望台に近づいた権三郎は目算するように見上げた。
「十メートルほどと仰ってましたが、実際は七、八メートルですな」
郁美は高さの感覚など気にしたことがない。ただ、遺体が見つかった場所は展望台から離れた右側のエリアだったため、事件と関わりがあるとは思えなかった。
「探偵さん、水を差すようですが、父が発見されたのは展望台からずっと離れた場所ですよ」
だが権三郎は「これだから素人は」と言わんばかりに小さく溜息をつく。
「私が展望台に興味を持つのは観光気分からではありません。まずはここから全体を俯瞰したいのです。事件の全貌を俯瞰するようにね」
そう言って梯子の前に立ち、郁美へ一声。
「私は昇ります。貴女は無理に付いて来なくてもいい」
そう告げると、権三郎は軽やかに梯子へ足を掛けた。
一章 18
権三郎が梯子をトントンと登っていく。
「そういうことなら仕方ないですね。じゃああたしもお供しますかぁ」
結局郁美も彼に続いて梯子を登った。
「おぉ、これは期待以上の光景ですな」
権三郎は驚いたように言うと、展望台の端に設置されている手摺のところまで進んだ。
「探偵さん、この辺りが一番のオススメポイントですよ」
郁美は権三郎が立っている場所から数メートル離れた位置に移動した。
「ほら、ここからだと、この付近の市街地とI丘陵の山々を同時に見渡せます」
「ほお、どれどれ」
権三郎が郁美のいる場所に移動してくる。
「うむ、まさにそんな感じですな。都市の街並みと大自然が渾然一体となってるかのようだ」
権三郎の感想は地元民として嬉しかったが、やや大袈裟にも聞こえたので、郁美は少し照れるように言う。
「そこまで大したもんじゃないですけどね。でもこんな低い山の展望台にしては中々イケてるでしょ」
「はい。素晴らしいもんです」
権三郎は目を細めて景色に見入っている。やはり若干は観光モードが入ってるのかもしれない。
「そろそろ日が暮れ始める頃ですね」
郁美が腕時計に目を見やる。時刻は午後4:50を指していた。
「ここから観る夕焼けや夜景もなかなか綺麗なんですよ。でも今日はそこまで悠長にしてられませんから……」
「分かってます。感動タイムはここまでですな」
権三郎はそう言うと、眼下に広がる森林方面を指差した。
「このМ山へと繋がる丘陵地帯、ここにきっと何かがあるはずです。事件の核心に繋がるサムシングがね」
その一言に、郁美は深く頷いた。
「はい。絶対に何かあるって信じてます」
それから権三郎は展望台の上をゆっくりと移動しながら、様々な角度から公園内を見渡していた。木々に覆われ死角になってる部分も多いが、それはフィールドワークで補えるので問題無い。
「よし、ここはもういい。次は、お辛いとは思いますが……」
郁美が先回りして答える。
「ええ、父の遺体発見場所ですね」
「そうです」
「分かりました。今から案内します」
郁美にとって辛い思い出のあるポイントであるが、教えない訳にはいかない。
二人は展望台を降りると、郁美の先導で園内をしばらく歩いた。その間も権三郎は鋭い眼差しで園内のあちこちに目をやっている。
やがて郁美はある地点で立ち止まり、砂利敷きの地面を指差した。
「ここです」
「おお、ここが……」
権三郎はしゃがむと、クラシカルな探偵アイテムの定番とよろしき、小型のルーペを胸ポケットから取り出して地面を観察し始める。しばらく凝視した後は、砂利を指で摘んで、それをルーペで見たりしていた。やがて彼は後方を振り向くと、郁美に尋ねてきた。
「鳩森さん、発見場所こそ砂利の上とはいえ、この公園は砂利や芝生が敷かれた所よりも、剥き出しの土の部分のほうが多いようですね」
郁美はキョロキョロと首を動かし、園内をざっと見渡してから言った。
「確かにそうですね。あたしたちが展望台からここまで歩いてきたのも、殆どが土の上でしたし」
郁美がそういうと、権三郎は鋭い目付きで尋ねてきた。
「鳩森さん、たしか事件が起きた夜は雨が降っていたと言ってましたよね。遺体と立ち会ったとき、地面の様子はどんな感じだったか記憶はありますか?」
郁美は記憶をまさぐるが、憶えているのはぬかるんだ土の上に無数の人間の足跡が残っていた情景だけだった。
「とにかく靴跡がたくさんあったとしか。それくらいしか覚えてません。何しろあの時は頭が真っ白で」
「ぼんやりした記憶でもいいんです。その中に獣の足跡のようなものは混じってませんでしたか?」
郁美はさらに記憶を深掘りするが、特に動物の足跡のようなものが有ったとは思えない。動物、それも熊のような大型動物の足跡があれば、いくら動転していても少しは印象に残っただろう。
「うーん、やっぱりそのようなものは無かったと思います」
権三郎は軽く頷いて「そうですか」と零すと、また思考する顔に戻る。
「やはり、偽装工作の線かな……」
権三郎はそう呟き、ルーペを胸ポケットに収めてから立ち上がる。
「そろそろ日没も近い、ここからはピッチを上げていきましょう」
権三郎はそう告げると「あなたはベンチにでも腰掛けて休んでて下さい」と言って、早足で園内の円周沿いをぐるぐると廻りながら、時折デジタルカメラで撮影をするなど、検証らしき行為を進めていた。郁美は彼の指示通り近くにあったベンチに座って、そんな権三郎の調査ぶりをぼんやりと眺めていた。
(やっぱり、ここに来ると思い出しちゃうなぁ)
郁美はあの日の記憶を自然に思い起こして、悄然とした気分になる。
そろそろ夕日が沈んでいく頃合いになって、権三郎が郁美のもとに戻ってきた。
「公園の調査はここまでにしましょう。で、鳩森さんに今日最後のお願いです。例の『熊出没注意』の看板がある場所と、更に可能であれば、渋い猟師さんから『謎のメッセージ』を受け取った場所を教えて欲しい」
権三郎が今日中にそこまでやる気だと知って、郁美の表情に逡巡の色が浮かぶ。
「そこまでやるんですか? もうすぐ日が沈んじゃいますよ」
そういうと、権三郎は両手を振って否定する。
「いえいえ、これ以上の調査は私が後日改めて行ないます。今日はただその二つのポイントを案内して下されば結構。どうです、まだお時間は何とかなりそうですか?」
権三郎の申し出を受け、郁美は幾らか戸惑ったものの結局了承した。
「分かりました。ここまできたらできるだけのことはします」
郁美はそのあと携帯から自宅に電話すると、在宅していた妹に「少し遅くなりそうだから夕飯は先に食べてて」と告げて、権三郎へ顔を向ける。
「これで多少遅くなっても平気です。ご案内しますので付いてきて下さい。さ、行きましょ」
そこからは郁美が先導する形で、二人はМ山のハイキングコースを下り方面に向かって歩き始めた。20分ほど歩くと、郁美が森の中とおぼしきとある方向を指差して言った。
「探偵さん、そろそろ例の看板がある場所に着きます」
「ふむ、事件現場とはこのくらいの距離があったのですな」
やがて二人は、太い一本の木に打ち付けられた看板の前に立った。すると権三郎は看板の表面や縁をなぞりながら、表面を凝視するように顔を近づける。
「なるほど、『熊出没注意』ね。断言してるのが笑えますな。その割に写真は使わずイラストだし、熊の顔らしきものさえ描かれていない」
そのイラストは、黒くて大きな動物のシルエットを背後から描くようなアングルで描かれていた。印象としてはかなり抽象的だ。
「これ、描いた人も半信半疑だったんでしょうか」
郁美がポツリと零す。
「そんなとこでしょうな。それにこの看板、まだそんなに劣化していない。予想通りかなり最近に掛けられたものだと思います」
権三郎が我が意を得たりとばかりに言った。
権三郎は看板をカメラに収めたのち、懐から懐中時計を取り出して思案顔をする。
「鳩森さん、6時を過ぎましたが、まだ行けそうですか?」
郁美の肚はもう決まってたので即答した。
「大丈夫です。ここまで来れば、例の猟友会の人達と話した場所はそんなに遠くありませんから」
すると権三郎は笑顔を見せて快活に言った。
「ようし、では本日のラストミッションと行きましょう!」
そこから二人はさらに歩を進める。途中で車道が出てきたが、郁美はそれを横断して新たなハイキングルートへと入って行った。
後を付いてきた権三郎がポツリと呟く。
「このハイキングコース、車も通れるんですね」
「そうですね。基本的にはずっと山道なんですけど、今みたいに何箇所か車道を横断するポイントがあります」
郁美が答えると、権三郎は「なるほど…」と思案顔を見せる。
そこから更に5分ほど歩いたところで郁美は立ち止まり、山道脇にある森のほうを指差した。
「あたしはここから森の方に分け入って、猟友会の皆さんがいた場所まで移動しました」
郁美がそういうと、権三郎は少し驚いたような顔をする。
「ほう、ここから森の中に。それはかなりの行動力ですな」
「こうなることを見越して、その日は一応登山靴を履いて行きましたから」
「そこまでいくと、貴女もいっぱしの山ガールというところですね」
権三郎が妙な持ち上げ方をしてくるが、郁美は構わず続ける。
「猟友会さんの方からは、しばらくの間うんともすんとも音沙汰が無かったので、痺れを切らしてあたしから出向いたという感じでしたね」
「貴女自身、熊に襲われる怖さは感じなかったんですか?」
「それは全く無かったといえばウソになるけど、その時は怖さより待たされるイライラの方が勝ってたんです」
「それも大した胆力だ。猟友会の皆さんも驚いたことでしょうね」
「お嬢さん、気持ちは分からんこともないが、なんで来たんだ! なんて言われましたよ。無茶も大概にしろって怒られました」
「それはまあ、彼らからすればそう言うしかなかったでしょうな」
権三郎が苦笑するように言った。
「若気の至りと笑って下さい」
郁美が肩を竦める。
「それだけ想いが強いということですよ。さて、それでは今日の調査はここまでと致しましょう!」
権三郎が唐突にミッションの終了を告げた。
「え、森に入って行かなくてもいいんですか?」
郁美がそう尋ねると、権三郎は手を降って否定する。
「お互いに、この靴でそれは無理でしょう。むしろよくここまで来られたものだと思います。特に鳩森さん、貴女は頑張ってくれました」
権三郎が郁美の靴を指差して言う。郁美の靴はハイキングすら難儀するような普通のローファーだった。
「確かにこれで森に入るのは無理があるかぁ」
郁美がおどけるように言うと、権三郎は微笑を浮かべた。
「このポイントを押さえておけば、あとは後日に私がこの付近の森の中を調査しますので大丈夫ですぞ」
「そこまでやってくれるんですね。ありがとう」
これも依頼の一環とはいえ、郁美は素直に感謝する。
「もうだいぶ暗くなってしまったので、帰りはこれで足元を照らして下さい」
そういって権三郎が差し出してきたのは小型の懐中電灯だった。
「探偵さん、よくそんなスーツ一枚の中から色々出てきますね」
郁美が呆れ気味に問うと、権三郎は笑いながらこう言った。
「わはは。私のこのスーツはドラえもんのポケットみたいなもんですからな。それでは帰途に就くとしましょう!」
帰りの道中、郁美がポツリと尋ねた。
「探偵さん、公園からここまでの道順、一回往復しただけで覚えられそう?」
すると権三郎は、今度はスーツ左下のポケットから新たな小道具を取り出して答える。
「大丈夫。これを使ってますので」
「それは?」
「オートマッピングツールです、公園を出た時から起動してますので確実ですよ」
そういって彼は、見たことも無いような形状の謎アイテムをポケットに戻した。
「ふふ、何か本当にドラえもんのポケットみたい」
郁美が微笑を浮かべると、権三郎はドヤ顔で応じてくる。
「わはは。この程度は序ノ口に過ぎませんがね」
郁美は今日の行程を振り返って、たった数時間を共にしただけなのに、この男には良くも悪くも色々と驚かされたなぁとしみじみ思うのだった。
「ホント、あなたって変わった探偵さんね」
そして駐車場まで帰りついたのち、郁美は約束通り自宅の近くまで送ってもらい、車を降りた。
「それでは探偵さん、今日はどうもありがとう。お疲れ様でした」
「こちらこそ」
「では、調査のほうよろしくお願いしますね」
「もちろんですとも。進展があり次第逐次ご報告致します」
「了解です。待ってます。あ、最後に一つ」
「何です?」
「契約書、郵送はやっぱりいいです。いずれまた事務所を訪れたときにサインしますね」
「はい、全然それでOKです!」
「ではまた、帰りもお気をつけて」
「鳩森さんも疲れたでしょう。今夜はゆっくりとお休みください。それでは!」
最後にそんな会話を交わし、権三郎を乗せた車が走り去っていく。
郁美は少し余韻に浸ったあと、薄笑みを浮かべながら独り言を呟いた。
「大山田権三郎、変なヤツ!」
第一章 完




