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ご都合主義探偵 権三郎  作者: TT93
第一章
2/8

一章 7-12

一章 7


「ふんふん。150メートル。それはたしかに低いですね」

 権三郎がそんな相槌を打った。

 郁美は頷きながら説明を続ける。

「ええ、小学生でも遠足で登れるくらいの丘なんです。山頂には展望台つきの公園があって、デートや花見で賑わう場所なんですよ」

「ふーむ、非日常性のカケラもなさそうな現場ですな」

「でしょう? 普段は、M山公園入口から登って五分で頂上。終点のそこからスタートして、ハイキングコースを下っていくパターンが多かったようです。帰りは登りになるので、逆ルートですね。でも、時々はハイキングコースの入口、出発点の方から登っていくこともあったみたいです」

「なるほど。下りと登りのどちらが先でも、歩ければ良しというわけですな」

 権三郎は納得したように頷いた。

「それで、父は日課のようにM山へ通っていたんですが、事件が起きたのは初夏のある日のことでした……」

 郁美の表情が陰り、権三郎は無言で続きを待った。

「確か水曜日だったと思います。その日は朝から曇っていて、あたしは『今日はやめとけば』と忠告したんです。でも父は聞かなくて。小雨決行という主義でしたし、それに、妹がお弁当を作ることが多かったから、それを外で食べたいっていうこだわりがあったみたいで」

 郁美は軽く笑ったが、その笑みはすぐ消える。

「まあ、それもお父上らしいこだわりだったのでしょうね」

「ええ。でも、母はもう作ってくれませんでしたから……」

 一瞬、表情が曇った。

 郁美はすぐに気丈に言い添える。

「母は数年前に亡くなりました」

 権三郎は「しまった」という顔をして頭を下げた。

「余計なことを聞いてしまいましたな。申し訳ない」

「大丈夫です。いずれ話すことでしたから」

 郁美の穏やかな返答に救われたように、権三郎は顔を上げた。


「父はいつも昼前に出て、夕方には帰る生活でした。この日もそうだったはずです。ところが夜七時に帰宅すると、まだ戻っていなくて。妹に聞いたら『父から電話があって、近所の囲碁仲間のSさん宅で夕食をご馳走になる』と言っていたそうです。だからそのときは心配していませんでした」

 権三郎の目がきらりと光る。

「そのSさんとは?」

「父の囲碁仲間です。長い付き合いで、うちに泊まったこともありました」

「仲違いなどは?」

「ありません。いつも楽しそうに碁を打ってましたし、利害関係もなし。探偵さん、まさか疑ってるんですか?」

「勝負事の恨みは侮れませんぞ」

 その真面目顔に、郁美は思わず笑った。

「ありえません。絶対シロです」

「なるほど。ならば除外しておきましょう」

 郁美のお墨付きを得て、権三郎は頷いた。

「それで、その夜十一時になっても帰ってこないので心配になったんですが、前にも泊まったことがあるので、妹と『今回もそうだろう』と考えたんです。兄が帰ってきても『大げさだ』と笑って取り合いませんでしたし……。でも、今思えば――」

 郁美の声が震えた。

「それが大失敗でした。あの夜のことは死ぬほど後悔しています」

「鳩森さん……」

 権三郎は慰めかけて、言葉を飲み込む。

 郁美は目元を拭い、続けた。

「翌朝、Sさんに電話すると、父は昨夜八時頃には帰ったと言うんです。車で送ると言われたけど、『歩行ノルマがあるから』と断って徒歩で帰った、と。そこで初めておかしいと思いました。兄もあたしも仕事を休めず、とりあえず警察に捜索願いを出して……」

 郁美は息を詰まらせる。

「そして、その日の朝十時頃。兄から電話がありました。父の遺体が、山頂で発見されたと……」


権三郎 一章 8


 郁美は事件当日のショックを思い出し、思わず涙声になった。

「……もしあの夜、迷わずSさんの家にもう一度連絡していたら、父を助けられたかもしれないんです」

 大粒の涙が、今にも零れ落ちそうに揺れている。

「大怪我をしていても、すぐ救急車を呼べていたら……もしかしたら」

「……」

 権三郎は黙って聞いていたが、やがて重々しく口を開いた。

「鳩森さん。お気持ちはよく分かります。ですがね、父君は即死に近い状態だったはずです。警察もそう判断しているのでしょう?」

「はい……。そう言ってました」

「ならば、あなたに責任はありません。ご自分を責めるのはやめましょう」

 諭すように言う権三郎に、郁美は少しだけ肩の力を抜いた。

「でも、やっぱり……」

「人間は神様じゃありません。先のことなんて、わかるはずがない。不可抗力ってのはあるんですよ。つまり――無理なもんは無理!」

「……ぷっ」

 堅い空気が、権三郎のおどけた言葉で一気に崩れた。

「だからこそ、我々がやるべきは真相の解明です! ねっ、鳩森さん!」

 権三郎はビシッとサムズアップ。さほどイケメンでもないのに、妙にキザな顔つきまで添えて。

 郁美は思わず吹き出してしまい、涙を拭きながら笑った。

「……もう。探偵さんってば調子に乗りすぎです」

「フッ。貴女は笑っている時が一番素敵ですよ」

「~~っ!」

 唐突な口説き文句に、郁美は頬を赤らめた。ラブコメめいた空気が一瞬だけ漂う。

(な、なにあたし……語尾にハートマークついてなかった?)

 すぐに我に返った郁美は、慌てて事務モードに切り替えた。

「で、それで話の続きですけど!」

「……鳩森さん、切り替え早すぎません?」

「はぁ? 何のことかしら」

 権三郎は露骨に残念そうにため息をついた。

「せめてあと五秒は、あのスイートな雰囲気を味わわせて欲しかったなあ~」

「何言ってるんですか! ちゃんと聞いてください!」

「はい、拝聴します……」


 では、当日の話に戻りますね。あたしたち兄妹3人は取るものも取り敢えず、即座に現場へと駆けつけました。あたしたちが到着した頃には、もう簡単な検死が済んだ後だったそうで、父の遺体は青いシートにくるまれていました。私服の刑事さんが対応してくれて、まず兄に遺体の確認を頼んできました。

刑事さんは「かなり酷い状態ですので、覚悟して下さい」と言いました。兄も辛かったでしょうが、これは長男の役割とばかりに、ためらわずに応じてくれました」

 話はハードな局面に入ってきたが、もう郁美が不安定になることはなかった。先ほどの権三郎とのやりとりですっかり落ち着きを取り戻したらしい。

「ふむ。お兄さんがいてくれて良かったですね」

「えー、全然! 普段はまったく頼りないヤツで、かなり仲は悪いんです」

 郁美は、全国の兄貴連中の妹萌え幻想を打ち砕くような発言をした。

「あらら……。可哀想に」

 権三郎が苦笑いを浮かべた。

「でも、この時だけはちょっとだけ見直しました」

 哀れな兄に一応のフォローが入る。

「けど、兄が勇敢だったのは最初だけでした。遺体をパッと見た直後、兄は『ぐえっ!』と叫んで、地面にヘタリ込み豪快に戻してしまったのです」

 郁美は語りながら少し赤面してしまった。事実とはいえ、こういう話は身内の恥を晒すようであまり気分のいいものではない。

「うーむ、さぞかし凄惨な状態だったんでしょうな」

 権三郎が郁美兄に同情するような素振りをみせる。

「ええ、酷いものでした。あたし、最初はそんな兄の様子を見て『このヘタレ兄貴!』と思ったんですけど、あたし自身が遺体を見て、納得いったんです。無理もないなって」

 郁美は兄をフォローしつつ、さりげなく重要なことを告げた。

「え! いま何と?」

 権三郎が目を丸くして短く叫んだ。

「あなたも、その段階で父君の遺体をご覧になったのですか?」

「はい、見ました」


権三郎 一章 9


 権三郎は、『大したものだ』とでも言いたげな目をして畳み掛けてくる。

「整復前なのに?」

「はい」

「女性なのに?」

「ええ」

「お兄さんのリアクションを見たのに?」

「そうです」

 毅然と肯定し続ける郁美に、権三郎は敬意のこもった眼差しを向けてきた。

「いやあ、親子愛の為せることとはいえ、女性の身で大した胆力ですな。立派だ。しかし、それはさぞお辛かったでしょうね……」

 権三郎は心底感心した様子で、郁美の勇敢さを讃えるような発言をした。

「兄は呆然とした様子ながら、遺体の確認は何とかやってくれたんです。だからあたしは『見なくていい』って言われたんですけど、自分から刑事さんにお願いしました。やはり兄の確認だけでは少し心もとない気がしましたし、それに……」

 そこで郁美が少し口篭った。

「それに? 何ですか」

「兄から、父は熊に襲われたらしいと聞いてたのに、いざ現場にたどり着いてみたら、M山の公園の敷地内だった訳じゃないですか。さっきも言いましたけど、こんなところに熊が出るなんてにわかには信じられなかったから。なので」

「自分の目で確かめてみたかったと」

「そうです」

「なるほどねえ」

 権三郎はどうやら納得してくれたようだ。

「妹も見たいと言いましたが、まだ未成年なので、さすがに兄とあたしが止めました。トラウマになられても困るので」

「それが賢明でしょうな」

「妹にはダダをこねられましたが、あたしは見せなくて良かったと思ってます。それほど酷い状態でしたから」

「辛いことをお聞きしますが、具体的に遺体がどんな状態だったのか詳しく伺ってもよろしいですか?」

 権三郎が慇懃な口調で乞うてきた。これは訊く方も嫌なものだろう。しかし、既に感情の昂ぶりが去っていた郁美は至極冷静に説明を始めた。


「はい、お話します。まず最初にギョッとしたのは、片腕と片脚が変な方向に曲がっていたことです」

「骨折していたと」

「おそらくは」

「そして胸のあたりに、大きな手のようなもので殴られた跡がありました。もの凄い力だったみたいで、服がボロボロに裂けていて、その下の皮膚は、陥没っていうんでしょうか、ベコンと凹んでいて、筋肉みたいのが露出してました」

「ふむむ……それは酷い」

 権三郎の瞼がヒクヒクと痙攣している。

「お腹のあたりには、動物の噛み跡のようなものもあった気がします」

「む~ん」

「状態としては、ざっとそんな感じだったと思います」

 郁美は終始冷静なまま、そこで一区切りつけた。

 郁美は回想する。あれは凄惨極まりない姿だった。救急車を呼んでも確実に無意味だったろうと、権三郎の表情が暗に物語っていた。

「むうぅ。だいたいわかりました。辛いお話をありがとうございます」

 権三郎が、慇懃な口調で郁美に礼を言ってくる。

 これで遺体の話は終わりかと思いきや、郁美の話にはまだ続きがあった。

「あ、そうだ。他にも気になったことはあります」

「む、何ですか?」

「顔は、意外とキレイだったんです。ほぼ原型を留めてました。そして、雨で全身がかなり濡れてましたね。血も殆ど洗い流されてたと思います。あと……うーん、まだ何か言い忘れているような」

 郁美は状況を克明に再現すべく、必死に記憶を掘り起こす。

「まだ何か気になることが?」

「ああ、思い出しました。爪痕です。あたし、この事件があってから、熊のことを色々調べてみたんです。熊ってかなり大きなツメがあるみたいじゃないですか。でも遺体には、爪痕らしきものはあったけど、それが妙に浅かったんですよ」

 郁美がそう告げると、権三郎は少しばかり驚いた素振りを見せた。

「ほう。それは引っかかるものがありますね」

「まあ、そんな長々と丁寧に見た訳じゃないですから、見落としはあるかもしれないですけど」

「いやいや、極限状況の中で誠に大した観察力です。感服しましたよ」

「あのときは、ただただ必死でしたから」

 権三郎に褒められ、郁美は少し照れてしまった。

「しかし、爪痕に着眼されたのは立派です。よく気がつきましたね」

「はい。そんな大きい爪があるなら、痕だって目立ちそうじゃないですか。けどあたしが見た限り、うっすらと筋みたいなものが残ってただけなんです。おかしいと思いませんか? ホントに熊の仕業だったら、絶対大きな引っかき傷が残ってると思うんですけど!」

 郁美は興奮気味に己の見解を権三郎にぶつけた。

「確かにね。鳩森さん、それは重要な発見かもしれませんぞ」

 権三郎も郁美の着眼に興味を持ってくれたようである。

「やっぱり探偵さんも変だと思いますか?」

「かなりね。ただ現時点では、まだ何とも言えません」

「そっかー。あたしは絶対不自然だと思うんだけどな〜」

 郁美にとって、遺体に明瞭な爪痕がなかったことは小さくない違和感をもたらしていた。

「しかしその遺体の状況からすると、父君はやはり人外の者から襲われた可能性が高そうですな」

 権三郎は、熊とは言わずそんな表現を使った。

「はい。人に出来ることじゃないとは思いました。それでも、あたしは何かひっかかるんです」

 彼女自身あの凄惨な遺体を見て、これは本当に熊の仕業なのかもしれないと信じざるを得ない部分はあった。しかし、郁美の心には「何か」が根強く引っかかっている。違和感をぬぐい去れない以上、簡単に諦めるわけにはいかないのだ。


「それにしても鳩森さん。貴女は凄い。まさか直接、ここまで克明に遺体の状況が聞けるとは思っていませんでした。大した胆力です。いやー、見直しましたよ」

 最後の『見直しましたよ』が気になるものの、権三郎は素直に郁美の度胸と観察力に感服しているようである。だが果たしてそれを喜んでいいものか、郁美は複雑な気分になった。

「なんか、あまり褒められてる気がしないんですけど……」

「どうしてですか?」

 権三郎が意外そうな顔をする。

「その、女なのに、胆力とか言われてもちょっと」

「やはり怖かったのですか?」

 郁美が顔を赤らめる。

「そりゃ、あたしも一応女ですから。やっぱり怖かったし、膝なんかガクガク震えちゃって、それにちょっと、おも…」

 郁美はハッと何かに気付いたように口へ手を当てる。 

「それに、何ですか?」

「やっぱり何でもないです」

 郁美が小さく呟いた。

「む、そこまで言ったら全部話して下さいよ。気になるじゃないですか」

 だが権三郎は空気を読まず問いかけてくる。

「だから、何でもないってば」

「そんな殺生な。これじゃ蛇の生殺しですぞ。気になって気になって、ボク今夜眠れなくなっちゃう」

 『ボク』などと言い出した権三郎に対し、遂に堪忍袋の緒が切れた。

「だから! ちょっと漏らしちゃったんですよ。そのくらい察しなさいよ!」

 郁美は真っ赤になって下を向く。

「それで当然でしょう。何も恥じることはない。私はただ、貴女の父君に対する深い愛情に感動したまでです」

 権三郎は殊勝な顔をして、綺麗にまとめるように言った。

「はあ…そうですか。ありがとうございます」

 郁美が一応礼を言うと、なぜかそこで権三郎がニヤリと笑った。

「正直に申し上げますと、貴女には『鉄の女っ!』みたいな印象を受けてたんですよ。けどやっぱり普通の女子だったんですね。それはそれでちょっと安心したなぁ」

 その発言に郁美はカチンときた。

「む……なんかその言い方、ものすご~くムカつくんですけど!!」


権三郎 一章 10


 郁美は『鉄の女』呼ばわりされたことを不本意に思いながらも、ここは冷静にならねばと己を戒める。

「ええ、そりゃ普通の女子ですもの。分かって貰えて嬉しいです。ところで、話の続きですけど」

 権三郎が表情を引き締める。

「それで、身元確認のあと、その日はどうなったんですか?」

 郁美は頷いて答えた。

「はい、その後は兄妹3人でそのまま警察署に連れて行かれて、改めて事情聴取を受けました」

「学生の妹さんも一緒に?」

 少し意外そうに権三郎が問い返す。

「ええ。妹は父と最後に話した人物でしたから。警察としても必要だと判断したのでしょう。兄が学校に電話を入れて、事情を汲んだ学校側から数日は休んでいいと許可をもらっていました」

「なるほど。さすがに事情を汲んでもらえましたか」

 権三郎は納得したように頷き、さらに質問を重ねる。

「ところで、その署というのは?」

「パトカーに長く乗った覚えはないので、隣市あたりの署だったと思います。建物は初めて見るものでしたけど、それほど大きくもなく……刑事ドラマでいう“ショカツ”ってやつだと思います」

「ふむ、現場管轄の署というわけですな。で、聴取は三人まとめて?」

「ええ。妹に配慮してくれたのか、3人一緒に。二人の刑事さんが交互に質問する形でした」

「内容は、先ほどお話しいただいたことと同じ?」

「そうですね。兄への質問は少なめで、私と妹が中心に。大体、さっき話した通りのことを」

「刑事の質問で印象に残ったことは?」

「いえ、特には。父の人間関係などは一切聞かれませんでしたし、最初から事故扱いの前提だったように思います」

 権三郎は一瞬考え込み、それからまた問いを重ねる。

「ちなみにその聴取、時間はどれくらい?」

「はっきりとは覚えてませんが、二時間ほどでしょうか。署を出たときは午後一時くらいで。兄が『とりあえず昼メシどうすっか』と言ったのを覚えてます」

「お兄さん、なかなか現実的なお方ですな」

 権三郎が苦笑混じりに言う。

「まぁ……気詰まりな空気をなんとかしようとしたんでしょう」

 郁美は兄をフォローするように付け加える。

「結局、全員食欲なんてなくて、コンビニのサンドイッチを買って帰りましたけど」

「普通はそうでしょうな」

 権三郎は軽く相槌を打ち、すぐに真剣な声に戻した。

「それで、その後の展開は? ご遺体が戻ってきたのは」

「刑事さんに尋ねたところ、二、三日待ってほしいと言われました」

「二、三日とな」

 権三郎の目がキラリと光る。

「はい。兄が『解剖ですか?』と訊いたら、『解剖はしませんが専門家を呼んで調査をします。その後、遺体の整復などがありますので』と答えていました」

「なるほど、専門家……おそらく動物学の教授といったあたりでしょう」

 権三郎は得心したように頷く。

「ええ、たしかに学者の先生の名前が出ていました。ただ、その先生が父をどう調べたかは、葬儀のあとに伝え聞いた形で」

「ふむ、日本でその種の遺体が出れば、まず熊害と判断されるのは自然。だが形式上、結論を急がずに“調査中”としたわけですな」

「……ユーガイ?」

「熊害のことです」

「あ、へえ……そんな言い方があるんですね」

 郁美は少し感心して見やるが、権三郎は反応せず次を促した。

「で、実際に遺体が戻ってきたのは?」

「二日後でした。驚いたのは、あれほど無残だった状態が、まるで別人のように綺麗に整っていたことです。ただ刑事さんは必要最低限のことだけ告げて、早々に帰ってしまったんです」

「二日でそこまで直る……。それは美容外科も顔負けですな」

 権三郎が怪訝な表情を浮かべる。

「で、刑事が告げた“最低限のこと”とは?」

「『熊による被害で間違いないと結論が出ました。ご愁傷様です』……そんな感じだったかと。あとは『猟友会が捜索を続けています。結果は後日改めて』と」

「ふむ……遺体の返還はそれだけ」

 権三郎は顎に手を当てたが、すぐに鋭い眼差しを郁美に向けた。

「ところで、さきほど『葬儀が終わってから後付けで聞いた話』があると仰ってましたね」

 郁美は一瞬身構える。

「はい。猟友会の人たちの態度が、なんだか妙で。それに……」

「それに?」

 権三郎の目が細く光る。

「最終的に熊は見つからなかったんです。ただ痕跡は残っていたらしいんです。そして、ある猟師の一人が言ったんです……」

 郁美は困惑を隠さずに続けた。

「『これをツキノワだと断定したセンセイは二流なんじゃねえか』って」

 権三郎の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。

「……ほう、面白いことを言う猟師もいたもんですな」


一章 11


 郁美がさらに一言付け加える。

「その猟師さん、見た目もかなりゴッツくて迫力あったんですよ。リーダー格って感じでした。去り際には『これだから頭の硬え連中は』なんて呟いてたような…」

 権三郎は眉を持ち上げ、わざとらしくうなった。

「ほう、それは聞き捨てならないですな。その猟師さん、中々キャラが立ってますね。で、その後はどのような展開に?」

 郁美は目を伏せ、少し声を落とした。

「はい、取り急ぎ父の葬儀を済ませたのち、猟友会からの報告を待ってたんですけど……結局熊は見つからず、残念ながら山狩は終わってしまいました。それから私達兄妹はしばらく抜け殻のようになっちゃいまして」

「それは無理もないでしょう」

 権三郎の口調は、珍しく真面目だった。

「まぁ兄は比較的立ち直りが早かったですけどね。そんな鬱々とした日々を過ごしてた頃、あたしはふと、その猟師さんの言葉を思い出したんです」

「ほお、それで?」

 郁美は息を整え、妹とのやり取りを語った。

「まず妹にそのことを話したら、妹はこのように言いました。『お父さんが熊に殺されたなんて今だに信じられない。たぶんきっと大きな野犬の群れみたいのに襲われたんだよ。あの公園で熊に襲われるなんて絶対にあり得ない』と」

 権三郎は小さく笑ってみせた。

「高校生らしい率直な見解ですな」

「ええ。それを聞いた時は『この子はあの凄惨な状態を直に見てないからそんなことが言えるんだ』と少しイラッとしましたけど。でも猟師さんに続いて、妹からもそんなことを言われたことで、あたしはなんていうか……閃きのようなものを得たんです」

「閃き、ですか。それはいったいどのような?」

「父はツキノワグマに殺されたんじゃない、という考えです。専門家の調査が必ずしも正しいとは限らないって直感みたいなものでしょうか」

 探偵は片眉を上げ、口の端を吊り上げた。

「なるほどね。だがご存知かもしれませんが、本州にヒグマはいませんよ」

「残念ながら知ってます。あたしはその閃きを得てから、図書館に通いつめて日本の動物について図鑑とかで徹底的に調べたんです。そして、日本にいる動物の中であれほど惨いことができるのはたぶんヒグマだけだろうと思いました。ですが、北海道にしかいないと知って落胆したのです」

 郁美は、舐めんなよとばかりに鋭い口調で語った。

「ふむ、それで?」

「次は妹が言ってた『犬』系について詳しく調べてみました」

「系、といっても日本においてオオカミはとっくに絶滅してますよ」

「さすがにそのくらい知ってます。系と付けたのは、犬っぽい動物について幅広く調べたって意味です。キツネとかタヌキなんかも含めて」

「ほう、その辺りはどうでしたか」

「素人の見解ですけど、その手の動物の中で一番強いのはおそらく大型犬、特にドーベルマンあたりが有力だと思いました」

 権三郎が胸を張って答える。

「確かに戦闘力は高いでしょうね。あれはそもそもドイツ産ですからな」

「余計な発言はご遠慮願います」

 郁美がピシャリと撥ねつける。

「す、すみませぬ。気を付けますです」

 思わず縮こまる権三郎に、郁美はわずかに苦笑した。

「どこ産だろうとS県にいる可能性があればいいんです。けどその考えもすぐに無理があると気づきました」

「その根拠は?」

「父の胸の辺りにあった大きな掌のような跡です。噛み傷はともかく、犬があのような怪我を負わせるなんてできるわけない」

「激しく陥没してるようだったと言ってましたものね」

「はい。だから犬という線は消すことにしました。妹には悪かったけど」

 探偵は腕を組み直し、静かに唸った。

「振り出しに戻るようですが、やはりツキノワグマの仕業という線はどうなんですかね? 貴女の閃きを否定するようで申し訳ないですが、可能性として有力なのは否めないのでは?」

「ですからそれは、女の……いや娘の直感として受け入れ難いのです」

「ふむ、鳩森さんはよほどツキノワグマ犯人説がお気に召さないようですな。それで、他の可能性には思い当たったのですか?」

「あるとすれば……人間でしょうか」

「人間? それはつまり、父君の受けた傷は人為的に施されたものだと?」

「はい。可能性はあると思ってます」

「鳩森さん、それは幾ら何でも無理筋というものだ。たとえ調査を担当した学者が二流だったとしても、それが人為的に行われた殺人であれば区別できない訳が無い」

「でも、例えば重機みたいな工具に、熊の手に似せた模型とか、他にはその、剥製っていうんですか、そういったモノを組み合わせれば……」

 権三郎は両手を振って即座に否定した。

「いや、無理むりムリ! 貴女は想像力が豊かすぎるというか、専門家をナメてます。事件や事故には物証というものがある。獣害なら体毛や唾液といったものがそれに当るでしょう」

「やっぱり、そういうものでしょうか……」

「そういうものです!」

 郁美は肩を落とし、かすかにため息をついた。

「そうですか……やっぱり、素人が考えることなんて浅はかなものですね」

「では今度こそ、ツキノワグマ犯行説を認められそうですか」

「それは、やっぱりイヤ!!」

「なぜそこまで頑なに。例の猟師さんが言ったことがまだ引っ掛かってるのですか?」

「それもありますけど、決め手は、娘のカンです!」

「分かりました。私の負けです。ここまで話に付き合った以上、貴女のカンとやらに最後までお付き合いしましょう!」

 郁美はわずかに頬を染め、声を震わせた。

「ありがとう、探偵さん……」


一章 12


 権三郎は、急に声の調子を改めて口を開いた。

「それにね、鳩森さん」

「はい?」と郁美は、思わず背筋を伸ばす。

「私が貴女の依頼を受ける気になったのは、ただ熱意にほだされたからではないのです」

「というと?」

「この一件――いや、もう事件と呼びましょう――。どうにもきな臭い点がいくつもある」

 郁美の目が真剣味を帯びる。権三郎は指を一本立て、芝居がかった口調で語り始めた。

「まず第一に、犯行現場の不自然さです。あそこは低山とはいえ展望台まで備えた立派な公園。役所もバカじゃない、獣害リスクについて事前に調査していたはずです」

「でも、あの『熊出没注意』の看板は……」

「ふむ、それも決定的証拠ではないでしょう。単なる目撃談――“黒っぽくて大きめの動物を見た”程度の情報から設置された可能性が高い。イノシシや鹿でも似たように見えるものです」

 そう言ってから、彼は顎に手を当てて郁美を見た。

「その看板、古びてましたか? 色褪せとか、素材の劣化とか」

「んー、そうでもなかったです。むしろ新しい感じで」

「だとすれば、公園建設前の調査では危険性なしと判断されていた、と考えるのが自然ですな。もちろん環境は変化しますから熊が里に下りてくる可能性はゼロではない。しかし、その理屈を言い出せばキリがありません」

「なるほど……言われてみれば」

「で、第二に。ツキノワグマの習性です。彼らは雑食性で、どちらかといえば草食寄り。人と鉢合わせすれば襲うこともあるでしょうが、そこまで執拗に攻撃するかは疑問です」

「……確かに」

「もちろん私は熊の専門家ではありません。が、少なくともヒグマほどの攻撃性はないと認識しています」

 郁美は小さくうなずいた。

「第三と第四は繋がっています。例の猟師の一言、そして猟友会の態度です」

「……」

「猟師というのは玄人です。彼らの直感は侮れません。その一人が“二流のセンセイ”と切って捨てたなら、そこには根拠があるはず。そして猟友会が“よそよそしく、中途半端な痕跡しか教えてくれなかった”という貴女の証言――これも妙です。痕跡を誰かが消そうとした可能性がある。しかし確証なく口にすれば立場を危うくする。だから黙った。ただし、気骨のある猟師だけは、せめて犠牲者の娘に一言のメッセージを託した。……私はそう読みました」

 郁美は息を呑んだ。あの何気ない一言が、そんな意味を含んでいたかもしれないとは。

「最後、第五にして最大の疑惑。警察です」

「……やっぱり」

「二日余りで調査を終え、遺体を“きれいに整復”して返す。これはあまりに手際が良すぎる。むしろ手抜きを疑わせるほど。猟師の“二流のセンセイ”という言葉とも符合します。さらに貴女も言ったように、刑事たちはそそくさと帰っていった。その態度、どう考えても後ろめたさがある」

「はい。あのとき、何かを隠してるんじゃないかって思いました」

「以上五つが、私が見出した“不自然”の根拠です!」

 権三郎は芝居がかった仕草で掌を開き、決めゼリフを放つ。

 郁美は目を輝かせた。

「こうして整理してみると……本当に違和感だらけ。やっぱり、あたしのカンは間違ってなかったんだ!」

「フフ、これで契約成立ですな」

「あ、今から契約書にサインするんですか?」

「いえいえ、そんなものは後回しで結構」

「そ、そんなものって……」

 権三郎は懐中時計を取り出し、空を見上げた。

「ふむ、今は三時半。日没までにはまだ余裕がある」

「……え? まさか……」

「おそらくその“まさか”です。鳩森さん、もしこの後お時間があるなら――今から行ってみませんか。犯行現場へ」

 郁美の胸がどくん、と高鳴った。

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