ハウロウ
僕とルーカスは山を下り始めた。
ルーカスは器用に草を避けて歩く。僕はその後ろを不器用に草をかき分け歩く。
ルーカスは後ろの僕を気にしながら、振り返りながら歩いていく。
今の僕には選択肢はない。
ルーカスの後ろについていくということだけだ。
「ハル、王様のお城へ行く前に、君に逢わせたい友人たちがいるんだよ。」
ルーカスは後ろ脚を跳ねさせて言った。僕は草をかき分け歩くことに必死だった。
「君に任せるよ、ルーカス。君にどこまでもついていく。ここでは君は僕の命綱なんだから。」
必死に歩く僕を見てルーカスは笑った。片足を大きく上げ一歩一歩用心深く歩く僕を見て
「君にはちょっと難易度の高い道のりだったな。」
ルーカスは大きく笑った。僕はまるで子供みたいにむくれて見せた。
そして、みせよがしにもっと、足を高く上げ歩いて見せた。
すると、ルーカスも僕に対抗するように、器用にぽんぽんぽんぽん、両手両足を揃え跳ねて歩いた。
僕たちは笑い合いながら進んでいったんだ。
長い距離を歩いていたが辛くなかった。弾む息も喜んでいるように思えた。
僕たちは海へとたどり着いた。
さっきまで草が僕の足を撫でていたが今は海風が僕を撫でる。
「この海の上、どこかに僕の友達がいるんだ。」
「この海のどこかに?見つかるの?」
僕が聞くと
「大丈夫、海にさえいれば僕らを見つけてくれる。」
ルーカスは肩をすくめて言った。そして、あたりを見渡すと
「ああ、あった、あった。」
そう言い歩き出した。そこには一隻の小さな白いボートがあった。
「ハル、こっちに来てくれ。」
ルーカスは僕に手招きをした。ボートの白いペンキは所々剥げている。ボートは古いものであったが、しっかりとしていて人間一人猫一匹が乗るには十分な大きさだった。
「これで海に行けば、僕の友達に逢えるよ。」
そういうと両手をボートの縁に滑らせた。
「ハル、手を貸してくれ。僕一人だけじゃ無理なんだ。」
ボートに小さな手を添えている。僕もルーカスの横に両手を置いた。
「こんな青い空の下、ボートに乗るなんて気持ちがいいだろうな。」
ルーカスは頷いた。
「さて、その前に一仕事だ。」
僕たちは協力してボートを海へと誘った。誘ったところでボートは海へとは近づかない。
僕たちは両手でボートを海へ向かって押し出していく。両手に力を込めると、ボートの塗装が指に食い込む。それと同時に右足は砂に埋まる。砂に負けないように踏ん張りながら、ボートを押し続けた。
途中、ルーカスは仕事の全てを僕に任せボートの淵に座って
僕を応援していた。まいってしまうよ。
ようやくボートは相性の合う場所に位置させることが出来た。
海は穏やかだった。
僕らを乗せたボートはゆっくりと砂浜から遠ざかっていく。船底に波が当たるとちゃぷんと船が上がる。不規則的なリズムが僕らを心地よく揺らす。
「気持ちがいい日だ。」
ルーカスは空を見上げて言った。
「同感。」
僕たちは笑った。空も笑っている様に見えた。
僕の心が笑っているから、空も笑っている様に見えるんだ。
心がどんな気持ちを持っているか、それで見える空模様は変わる。
心が泣いていれば空も泣いて見えるだろう。
船にオールはついていたけれど、ルーカスは必要ないと言った。
だから、僕はそれに触っていない。
「船の好きにさせたらいい。」
ルーカスはそう言った。
「船と海はお互いを知り尽くしている。だから、彼らの好きなようさせておくのが一番いい。
僕らにとってたどり着くには一番良い場所を知っているのさ。」
ルーカスの言い分ときたらこんなだった。
船は人間が舵を取るものというのが僕の‘知っている’ことだ。
「でも危険じゃない?」
僕が言うと
「ハル、もったいないぞ。こんないい日に。時に知っていることが正しいとは限らないものだよ。いいじゃないか、たまには完全に委ねるということ。」
ルーカスはお腹を空に向けて寝ころんだ。
委ねること。
「まったく、自分に情けなくなるくらいに君には返す言葉がないよ。」
僕がそう言うとルーカスは目をつむったまま鼻で笑った。ルーカスを真似て僕も仰向けに寝転んだ。
ボートが少し揺れた。
いい日だ。陸は見えなくなっていた。僕の目には空しか映らない。
制限のない空はきっと、
いつもとは違う、制限のかかっていない今在る僕の心を映し出しているのだろう。
さっきルーカスが言っていたみたいに、沢山の僕が知っていること中で 本当に正しいもの って
どれだけあるのだろうか。
いいや、僕にとっての正しさに当てはまるかどうかだ。
「おーい。」
大きな声が聞こえてきた。僕は目を半分開けた。まぶしくて空が真っ白に見える。
「おーい、ルーカス!ルーカスじゃないか!」
僕らの上を行き来する影が僕の瞼に映る。ルーカスはひょいっと立ち上がると、その陰の主へと手を大きく振った。僕は眩しさにうろたえながらも、ゆっくりと身を起こした。
目が慣れると僕の目には一羽の鳥が見えた。羽を大きく広げている。太陽の光と重なり
黒い鳥に見える。鳥は大声をあげながら、こちらへ降りてきた。
「言っただろう?海にさえいれば僕らを見つけてくれるって。」
ルーカスは得意のウインクを僕に投げかけた。
大きな鳥は広げた羽をゆっくりと閉じながら、静かに船縁へととまった。
船は揺れた。
そして再び羽を大きく広げると、空気を抱きかかえるように羽を閉まった。
「今日の海は特に暖かい。」
鳥は低い声で言った。ルーカスは鳥の前と近づいた。だから僕は急いでルーカスがいた場所へ移動した。じゃなければ、船が傾いてしまうからね。
ルーカスと鳥が向かい合う。大きな鳥だ。ルーカスがより小さく見える。
鳥は目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。その動作を繰り返す。
「おお、そうだった、ルーカス。君に魚のエルムンドの話はしたかね?」
鳥はそう言うと右へと首を傾げた。ルーカスは目を細めた。
「エルムンドの話は、まだ聞いていないな。次回じっくり聞かせてもらうとするよ。
ところで、ハウロウ、こちらはハルだ。あちら側の世界からやってきたんだ。」
ルーカスは僕を紹介した。
この世界の動物たちは皆言葉を上手に話すようだ。鳥は再び羽を大きくひろげた。そして
「初めまして。私の名はハウロウだ。」
そう言うと右の羽を胸の前へ置き頭を下げた。なんて品のある動きをするのだろう。所作が美しい。僕も深くお辞儀をした。
「ハウロウは、空を飛び海の中も飛ぶ。ここに居る鳥達は皆、彼を真似てそうするようになったんだよ。」
ルーカスとハウロウは目配せをしながら僕に教えてくれた。
「空も海も同じ青だ。大した変わりはないのだよ。」
ハウロウは響くような声で笑った。
鳥が海へ入ろうだなんて、どうしてそんな事思いついたのだろうか。
空だけでは十分ではなかったのだろうか。
だって、空の広さって果てしないだろう。
無限のようにさえ見える。でも違うのだろうか。飛び回るには不十分なのだろうか。
「どうして、海に入ろうなんて考えたんだい?第一、空と海とでは違いすぎるよ。」
僕はハウロウに聞いた。僕の質問にハウロウは、一瞬目を見開いたかと思うと一瞬でその目を細めた。
「空から海へ飛び込んだ理由か・・」
ハウロウは羽を広げ船縁つたいに僕の傍らに寄って来た。そして隣へと来ると羽を閉じた。
「もちろん、海と空には大きな違いはあるが、時にその大きな違いを超えさせるほどの出来事というものが起こることがあるんだよ。価値観を変えられる。価値観というもののほとんどは、「そういうものだ」という信じ込みによって出来ているものさ。」
ハウロウは続けた。
「信じ込みというものは、時に我々の持っている可能性を狭めてしまうものだ。
見えるものや感じられるもの、見え方や経験出来るであろう事柄せえも無いことにしてしまう。
長年持ち続けていた自分自身の価値観が壊れる時、在った違いを知るきっかけとなり、その違いを埋める機会になるものだよ。それが新しい自分にも出逢えるきっかけにもなる。」
ハウロウは僕をじっと見つめそう言った。
「私が海に入ろうと思った理由は、昔の私に在る。」
ちゃぷんと船は揺れた。水滴が僕の腕に摑まった。ハウロウは海しか広がっていない左側を見つめた。
「昔の話だ。私がまだ若かったころ、そうだな。ハル君は歳はいくつだ?」
ハウロウはくちばしを上げながら、僕に尋ねた。
「僕は今17歳だよ。」
それを聞くとうんうんと頷き
「丁度、今の君と同じくらいの歳の頃の話だ。」
ハウロウは続けた。
「あの頃私は若く無鉄砲に物事へと向かうことが多かった。」
ハウロウにもそんな時があったんだ。今僕の目の前に居るハウロウからは想像することが難しい。
「若さが故・・そういう昔の話だが。私は一羽の鳥に恋した。それは、それは、美しい鳥でね。
彼女は七色の羽を持っていたんだよ。」
ハウロウはルーカスがするように器用に片目を閉じた。僕はハウロウの話に耳を傾けていた。
それはルーカスも同じだった。波の思うままに揺らされる船の上、僕もルーカスもハウロウに耳を預けていた。
「皆、彼女の虜だったよ。彼女の注目を独り占めにするために、ある者は彼女に抱えきれないほどの花を毎日贈っていた。ある者は自分の強さを彼女に見せるため、昼夜問わず力くらべをしていた。自分の持っている ものを 見せては彼女の気を引こうと必死だった。それなのに、彼女は一度だって振り向きもしない。誰がどんなことをしようとも彼女を惹きつけることが出来なかった。
私が何を見せたかって? 残念なことだが・・私は彼女に見せることのできるようなものを
一つだって持っていなかった。だから、皆の後ろで彼女を見ているだけだったんだ。」
僕はハウロウの昔を想像する。彼女はどんなに美しい鳥だったのだろうか。
「彼女は美しい羽はもちろんだが、美しい歌声を持っていたんだ。皆が彼女の周りから帰り、月が真上にあがる頃彼女は静かに一人歌っていた。これは誰も知らないことだ。透き通るような声は月の目を覚まし、星々を輝かせた。そして、見えない沈んだ太陽を鎮めたんだ。私は彼女の歌声が大好きだった。思わず吹いている風に静まるよう伝えてしまったこともある。」
ハウロウは無邪気な笑顔を見せた。
「風がこの美しい歌声を他へと運ばないようにだ。」
他の誰にも教えたくなかったんだと分かった。僕もハウロウにつられて笑った。
「彼女の歌声は一瞬にして、私の心を洗ってくれたのだよ。静かなるもの達は、彼女の歌声を愛していた。七色の羽の価値じゃない。彼女の心が歌う音だったんだ。」
ハウロウはため息をついた。過ぎ去った時は、未だハウロウの前に 今 として在るのかもしれない。
ハウロウが深く呼吸をする度に胸が上がる。縦じまの模様が上へと延びる。
「私は毎夜彼女の歌声をこっそりと聴きに行ったものだよ。」
ルーカスと僕はハウロウの話に夢中になっていた。
「そんなある日、彼女は突然病に倒れこんでしまった。どんなに能力の在る医者でも、知識を持った薬屋でも、彼女の病は治せなかった。私たちがどんなに手を加えても、彼女の病は一向に良くならなかった。彼女の七色の羽が一枚、また一枚と落ちていった。彼女の羽が一枚落ちるたびに、あれだけ花を贈っていたものは、いなくなった。彼女の羽がまた一枚と落ちれば、力をみせつけていたもの達も去っていった。彼女にはもう一枚しか羽は残っていなかった。
そして彼女の周りには誰もいなくなった。
だけどな、彼女が寒いと言えば太陽が彼女を温めた。彼女が熱いと言えば雲は無理をしてでも雪を降らせた。木々は雨水を口元へ運ぶ。私も彼女のそばにいたさ。彼女がもう一度起き上がってくれることを祈ることぐらいしかできなかったが・・」
ハウロウはぎゅっと目を瞑った。
思い出すのが辛いのだろう。ハウロウの心の中を現すように船が波間に揺れた。
「あの頃の私はまだ若かった。考えだって浅かった。もしも、もしも、世界がさかさまになったなら、彼女は元気になってくれるのではないか。夜が朝になり、闇が光になり、月が太陽になり、魚が空を泳ぎ鳥が海を飛ぶ、悲しみが喜びになったならば、彼女は病から回復し、彼女の命は元にもどるのではないか、そんな風に思ったんだ。」
くちばしは力なく閉じられた。
「笑ってしまうな、あの頃の私は、あまりにも無知だったんだ。」
ハウロウはさみしそうに笑った。僕は笑えなかった。そして無知だなんて到底思えなかった。
まっすぐなハウロウの想いを無知で片づけることは間違っている。
波が船にぶつかった。船が大きく揺れ僕は思わず船縁に摑まった。ルーカスは身を縮めていた。
「それから、私がどうしたか・・もう分かるだろう?若い私が何をしたか」
ハウロウは僕の方へとくちばしを近づけた。僕は首を横に振った。
「私は急いで海へ向かった。そして、空から、ずっと高い空の上から、勢いよく海へと飛び込んだんだ。冷たい水しぶきと青の世界。深く、深く、暗くなるまで潜っていった。力の限り羽を使って深く深く海底をめがけて飛んだ。私が一つのきっかけとなり、世界が全部逆さまになってさえくれれば、そうなれば、彼女は良くなるはずだ。そう思ったんだよ。」
ハウロウは彼女のために彼の領域を超えたんだ。
空と海というそのあまりにもかけ離れた世界へ飛び込んだんだ。
「それでも、そんなことをしてみたところで、私に彼女を救うことはできなかったのだよ。」
ハウロウは遠くを見つめた。
「ハルと言ったね、忘れてはいけないよ。大切なものは自分の心が見つけるんだ。心が見つけるものが大切なものさ。大切なものは飾りではない。大切なものは形じゃない。目が捉えるものに惑わされてはいけないよ。誰にでも映るものを見ようとするのではなく、自分の心に映るものを覗き込むことだよ。」
僕は頷いた。それを見てハウロウは満足したような表情を見せた。
「おっと、ついつい話し込んでしまったようだ。君たちを昔話に付き合わせて悪かったな。これから、相棒と飛びなれた空への散歩だ。」
ハウロウは空を見上げた。
「今度は」
そう続けると
「上の空気を思い切り吸い込んでくるとするよ。」
そう言うと飛び立つ準備に取り掛かった。
「そうだ、もう一つ。私は彼女を愛したことに後悔はない。私にとって彼女が生涯の一羽になったのだ。例えそれがどんな結果であってもだ。彼女を思う自分を愛していれば、出来事なんて大したことないんだ。愛は何があっても変わらない。でも、愛は私たちを変えることが出来る唯一のものなんだ。」
言い終わると羽を大きく広げた。
「ルーカス、次回はエルムンドの話をするよ。」
「そうだな、ハウロウ。楽しみにしているよ。君と時間を過ごせて光栄だった。ありがとう。」
ルーカスはそう言って、ハウロウの体を軽く叩いた。
「ハル、それではまた。逢えて嬉しかったよ。」
片方の羽を僕に差し出した。僕は羽をつぶさないように注意しながら両手で握りしめた。
「ハウロウ、ありがとう。」
僕の言葉と同時にハウロウは飛び立った。
「僕も逢えて嬉しかった。君の大事な話忘れないよ。」
空を舞うハウロウに聞こえているか分からなかったけれど、僕は出来る限りの大きな声で言った。
どこまでも、どこまでもハウロウは飛んで行った。
僕とルーカスは彼の姿が小さくなるまで見上げ続けていた。
制限のない空は制限のない心によって在ることを許される。
見方って大切だな。
澄み渡る青い空は、
まるで水平線を引き忘れた海のようだった。
本当だ、空も海も大差違いはないのかもしれない。僕は思った。