『見えない棘と月の光 ― a kind of lost classic』
二年前の失恋を消化するために。処女作です。
彼女のことを考えるとき、僕はときどき涙の味を思い出す。
涙にはたしかに、少し甘さがある。どこか、味のないガムみたいなだ。
理由なんて特にない。ただ、不意に心が限界点を超えて、溢れ出すだけだ。
誰かが言ってた。「涙ってのは、心の器からこぼれた言葉だ」って。
それはちょっと詩的すぎるけど、まあ、近いところをついてる気がする。
僕はときどき思うんだ。
言葉にできない悲しみというのは、おそらく世界でもっとも正直な感情だ。
彼女にまつわる記憶は、時間が経ってもなお、胸の内側に棘のように残っている。
忘れようとすればするほど、むしろ深く沈んでいく。
人間は分かり合えない。
そう言うとちょっと投げやりに聞こえるかもしれないけど、実際のところ、ほんとうにそうなんだと思う。
だからこそ、僕たちは“信じる”という不確かな手段で、お互いをつなぎとめようとする。
でも、もしその信じる力が途切れてしまったら?
そんな時、人はどこへ帰ればいいのだろうか。
誰かに何かを伝えようとしても、それはあくまで僕の主観にすぎない。
伝わるかどうかは、もう僕の手の届かないところにある。
「嫌われたな」と確信している人が、この世界にどれくらいいるんだろう。
たぶん、そんなにはいない。
人間関係は、いつだって言葉と沈黙のあいだで揺れている。
恋人同士であっても、たとえ結婚にまで至ったとしても、
それは、奇跡的に別れの原因を避けてきただけかもしれない。
あるいは、相手の欠点を直視しないという、
ささやかな(でも持続力のある)盲目によって支えられてきたのかもしれない。
でも、いくら反省して次の恋で活かそうとしても、
また別の理由で終わるのだとしたら、それっていったいなんなんだろう。
徒労? それとも人生?
ニーチェは「神は死んだ」と言ったけど、
僕もある日、ふとそう感じた。
それはたぶん、何の前触れもなく、
突然の豪雨みたいに僕のなかに降ってきた。
恋人たちは、単に勘違いしあう存在なんじゃないか。
笑えるようで、笑えない話だ。
人はときに、自分の気持ちとは裏腹のことを言ってしまう。
そして、それがすれ違いの種になる。
そう考えると、「運命の愛」なんてものも、
タイミングが合っただけの偶然に過ぎないのかもしれない。
でも僕は、彼女の“僕と出会う前”を理解したくて、
ついつい過去を掘り返してしまった。
ある種の人間は、考えすぎる。
そして、ある日突然、考えることをやめてしまう。
そこから始まる新しい人間関係には、もう「前の自分」は存在しない。
別人のように、ただ流れに任せて生きていく。
その姿は、どこかサバンナで小鹿が懸命に逃げる様子に似ている。
無様で、でも目が離せない。
彼女に出会う前と後では、すべてが変わってしまった。
心のかたちも、
犬と猫くらいに違うし、
太陽と月くらいに正反対だった。
いや、むしろ――
テクノロジーと自然くらいに、もはや別物だった。
僕は、ただ誰かに「わかってほしい」と願った。
それだけだった。
でも、失ったものは、失ったものでしか埋められないのかもしれない。
宮本浩次は「悲しみの果てに何があるのか」と歌った。
彼はそろそろ答えを見つけただろうか。
たぶん、まだじゃないかと思う。
ビートルズの曲も、いつかAIに最適化されるかもしれない。
けれど、それでもクラシックは残る。
それは、技術ではなく“感情”に根差した音楽だからだ。
だから僕にとって、あの子はクラシックだった。
流行の波に乗るような軽やかさとは、無縁の存在だった。
彼女は、ドビュッシーの『月の光』そのものだった。
それは――
人前で「僕の好きな曲だよ」なんて、気軽に言えるものじゃない。
クラシックが好きだと言えば、
きっと「変わってるね」とか「古いよね」とか言われるだろう。
でも、それでいい。
彼女は、僕の記憶の中だけで、ひっそりと再生される曲でいい。
僕は流行に縋る女になりたくなかった。
誰かに理解されるために、
街灯に群がる虫みたいに生きるのは性に合わなかった。
もう彼女の名前は呼ばない。
呼べない。
今なら、「君の名前を呼べない」と言った彼女の真意を理解できるだろうか
ただ、夜になると、僕の中であの旋律が流れる。
静かで、優しくて、どこまでも遠い――月の光のような、あの旋律が。
読んでいただきありがとうございます。