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バケツ

作者: 朱漆山水

この時期の水は冷たい。目が覚め、顔を洗う。役目を終えた水が、シンクに流れ、落ちるさまに、自分の意識も底に沈められるようで憂鬱な気持ちになる。私というバケツには過去の断片や他人の言葉が色を重ね、静かな混ざり合いが私を形作っているはずなのに、その本質はどこにもない。知識ならある。そこらの誰よりも積み重ねてきたと、信じていたい。だが、素潜りのように水底の深さを追い求めると、水の濁りが視界を塞ぎ、肺が締め付けられて息が途切れる。不安が胸を刺す。ふと気づけば、いつも水面に浮かび、遠ざかった水底を、悔やむように見つめている。


コーヒーを淹れながら、直前に使った蛇口からシンクに落ちる水の音が嫌に耳に残る。ドリップしたコーヒーが揺らす水面を見ると、昨夜の彼女の声が蘇った。「もっと前に進まなきゃ」と彼女が言ったとき、私の胸に、まるで濡れた砂袋がゆっくりと沈み込むような、底知れぬ重たさが広がった。呼吸が浅くなり、濡れた衣服で、全身を包まれているような嫌悪感、圧迫感が足元から全身を覆う。彼女はいつもそうやって、私がためらう場所を軽やかに飛び越える。少なくとも本の量や論理の組み立てでは負けないつもりだった。でも、彼女の行動力や、迷わず決断する姿勢には、私のバケツにない苛烈な激しさと輝きがある。


カフェのカウンターで、彼女は熱い紅茶を手にしながら、最近のプロジェクトについて話していた。言葉が淀みなく流れ、私はそれを聞きながら、彼女のバケツがどれだけクリアで、私のとは違う色で満たされているかを感じた。「君も何か始めれば?」と彼女が笑う。私は笑顔を返すけど、心の中では、深く潜ろうとした素潜りが、また浅瀬で止まっている自分を嘲笑っている。知識はある。だが、それが何の役に立つ?そこらの誰よりマシだと思っていても、彼女の前では、私のバケツはただの濁った水みたいに思えた。


雨の日は、窓を叩く音がシンクの波音を呼び起こす。彼女と別れたいわけじゃない、でも近づくこともできない。私のバケツの底に沈む色たちは、彼女の儚げな光に照らされ、初めてその濁りを自覚した。今の彼女に惹かれている自覚はある。ただ、自分の隣に立つ彼女を想像すると、今の鮮烈な輝きを失っている気がしてならない。彼女に並ぶ輝きを私が放てないのなら、彼女の光を曇らせたくない。自戒は、胸に絡みつき、締め付け、呼吸を奪う。彼女の声が遠くに消え、私は自分のバケツを覗き込み、その濁りに辟易する。


朝、どこかからか煩く蝉の声に起こされる。顔を洗う習慣は変わらない。わざと溜めたシンクに水が落ちるたび、小さな波が広がっては消える。その動きを見ていると、私の意識がその濁ったバケツに沈むようだった。色々な経験——失敗、成功、彼女との出会い、別れ、知識の積み重ね——が次々と色を注ぎ込み、濁った液体が私を形作っているはずなのに、その本質には近づくことができた気がしない。水底に潜ろうとしても、肺が重くなり、素潜りの限界がいつもそこにあった。

でも、それでいい。バケツの水が様々な色に侵され、その濁って見える水が、私そのものだという事実が、なぜか心地良い。色々な経験が重ねられた結果、本質が遠のいたとしても、視点によって変化する濁り、その曖昧さや複雑さが、私の生き方の形なのだと気づいた。シンクの水が静まり、部屋の静けさが私を包む。本質に近づけなかったことが、むしろ解放だった。私がシンクの栓を抜くと勢いよく水が流れていく。水が流れ切った後に、再度鳴きだした蝉の声は、鳴く場所を変えたのか、近くから聞こえた気がした。

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