サクラは今宵も眠れない
『あなた、公園に行くことになったのね』
そうだよ。
『サクラとしては本望ね』
どうして?
『ひとりで数多の人を魅了する。こんなすばらしいことはないわ』
そうなのかな?
『そうよ!』
でも、さみしくないかな?
『さみしくないわよ。たくさんの人の笑顔が見られるもの!』
……そうだね。
◯
サクラの木は年中、寝不足に悩まされていた。
サクラの木がいるのは、駅近くの小さな公園。そこは時が止まったようだった。雑草は放置され、数少ない遊具は日差しに負けて白くなり、雨風にさらされたところは黒く汚れている。
それでもサクラの木は毎年きれいに咲き、廃れていく街を見守っていた。
サクラの木は、通りを挟んで向かい側の一戸建ての二階――サクラの木と同じ目線の高さである――をにらんだ。
寝不足である原因が、そこに住む男にあるからだ。
あれは冬の夜。公園の外ではイルミネーションが飾られていたときのことだ。
男はベンチに深く腰をかけ、空を仰ぎ見た。サクラの木にとってその男は赤子のように若いが、目元には深く刻み込まれたシワと土色の肌からは、まるで生気を感じられなかった。着崩れたスーツは男を老けこませた。
サクラの木は男の顔をのぞこうとした。
死ぬな。死なれては困る。
数年前、公園前の道路で交通事故があって以来、花見客はおろか人ひとり寄らなくなったのだ。二度目は勘弁である。なんのために咲いているというのか!
サクラの木は真っ裸だった。枝同士がこすれ、傷つけあうように音を立てながら男に近寄っていった。
『寒いな。風か……』
サクラの木は男のかすれた声を聞いてホッとし、いったん身を引いた。
だが、それが地獄のはじまりだった。
翌日から、男は太陽が沈むと公園のベンチに腰かけ、発泡酒を片手に歌い、笑い、踊ったあと、疲れはてると寝言を吐きながら朝まで眠るのだった。
サクラの木は満足に眠ることができなくなっていった。
季節は、小さなツボミたちの目覚めを待つ頃になっていた。
男は今日もベンチに寝転び、大きな寝息をたてている。
「サクラさん、おはよう。今日も例の男、いるんですね」
スズメらがやってきた。
「ごきげんよう、スズメさん。見ての通りです」
サクラの木が喜んで座り心地のよい枝を差し出してやると、スズメらが羽を広げたのち体を預けた。
「サクラさん、この男はまるでニワトリです」
「ニワトリ? それはなんですか」
「日が昇ると鳴くトリです。それはもう、うるさくて……。彼らのそばにいるとちっとも眠ることができないのです。この男と同じです」
「ニワトリというかたは存じ上げませんが、この男がうるさいのは、わたくしも同意見です。少しはわきまえてもらわないと」
「ええ、まったく!」
スズメらは口々に鳴き散らし、ついには男のほうへと飛び降りた。
「えい、えい。静かになさいな。サクラさんが困っているでしょう!」
「ちょっと、スズメさん。なにもそこまで言わなくても」
「ガツンと言ってやらねばわかりませんよ!」
スズメらの怒りで、男は小さくうなった。薄目を開け、ベンチの手すりにいるスズメらをじっと見つめた。
「……食べたらうまいかな。ニワトリには負けるか?」
「ひぃ!」
怖がるスズメらは飛んでいった。
怒ったサクラの木は体をぷりぷり揺らす。
「わたくしの唯一の話し相手になんと無礼な! 許しません!」
「ぎゃ! 青虫!」
叫んだ男は寝起きとは思えない俊敏な動きで家へと帰っていった。
それから男が公園のベンチに座ることはなくなったが、部屋のなかでひとりごとをするようになった。部屋の窓は開け放れていたし、サクラの木と近い部屋なのもあり、寝不足は解消されなかった。
昼間になると男も寝静まるので、サクラの木もようやく落ち着くことができた。
空を眺め、風の音を聞き、太陽を浴びながら、うたた寝する。しかし夢の中で歌う男が出てきたときには、流れる汗のごとく八分咲きの桜を散らしながら起きるのだ。公園を見回して誰もいないことがわかると、悪夢だと気づくのだった。
そうした日々が続き、いよいよサクラの木が花の服をまとう時期になった。
全身美しく、けれどもやはり誰も来ない。
肌寒い夜のなか、久しぶりに男の影が見えた。
男はベンチに座るや否や、発泡酒をあおった。
「こんな夜は、やっぱり酒だな」
サクラの木は、ため息を吐いた。また騒がしくなるのね。
「聞いてくれ。就職が決まったんだ。もう無理だと思っていたが、なんとかなったよ」
公園にはひとりしかいないというのに、とサクラの木はあきれたが、それでもベンチに身を少し寄せた。
「来月引っ越すんだ。それまでここで乾杯しようぜ」
男は缶を傾け、木の根元に垂らした。
男は太陽のように熱があった。外灯に照らされた顔も、以前より生気がある。
「……おめでとう」
サクラの木はボソッとつぶやく。
男は目尻に涙を浮かべ、鼻をすすった。
「歌うか。なにがいいかな。やっぱり春と言えば桜ソングだよな!」
「桜の歌は一様に散るから嫌いなのだけど……」
「よーし、歌うぞ!」
「ちょっと!」
それから毎夜、男は歌った。
出立前夜も男は歌い、サクラの木も思わず口ずさんでいた。
夜空を見上げる。
昔はこんなふうに仲間のサクラと踊る毎日だった。
ここへきたばかりの頃も、花見客が大勢いてにぎやかだった。
楽しかった。
しかし、サクラの木は公園に来たことを後悔していた。
みんな離れていくから。
どれだけ美しく咲いても、花を振りまいても、みんなみんな、サクラの木をひとりにする。
視線を落とせば、花々が広がっている。
「ずいぶんと散らしたわ」
今年も春が終わる。
男もいなくなる。
当然の摂理だ。
それなのに、サクラの木はムズムズした。
「ふん、あなたのせいよ。あなたが歌うから、わたくしは眠れず、踊ってしまうのだわ!」
男が携帯をかざす。
サクラの木は踊った。
いつもより長く踊り続けた。
ムズムズは嫌い。
「特別にはなむけをくれてやる。……達者でな」
男は携帯をポケットにしまい、透き通る眼差しを向け、笑った。
「ありがとう。そっちも元気で」
サクラの木は驚き、踊りを止めた。
「花のないサクラに心奪われたのは、あれがはじめてだ。ありがとう。忘れないよ」
「……わたくしも忘れない」
「うん。……はあ、いい夜だ」
うるさいと、眠れないと思いながら、誰もいないさみしさを抱いていたサクラの木は、この日、本当の意味でひとりではなくなった。
花見客が来ない春も、誰も訪れない日常も気にならない。内側ではいつも、あの男と歌い踊った記憶がある。
男がいなくなったあと、サクラの木は決めたのだ。
花をまとう春になったら、毎晩踊ること。
それからさらに数年が過ぎると、少しずつ花見客が戻ってきた。
次の年には、隠れスポットだと話題になった。
枝に止まるスズメは、花の蜜をついばんだ。
花見客の老夫婦が風流だと手をたたき、隣にいる女が桜ソングを口ずさめば、酔っ払った若者がギターで演奏をはじめる。
サクラの木は今宵も眠れない。
ただ、踊る。
どこかで生きる男に届くように。