6.運命の支配者 ─The Fate Ruler─
運命の天秤は常に不公平。
己が手に運命があると思えばこそ
過程などどうでも良くまだ見ぬ結果だけを妄信するのだ
その日の夜は空を着飾る星々は行方を晦まし、暦を謳う月すらもその姿を見せない新月の夜だった。底の見えない暗闇だけが暗澹と広がっている。小さな明りすらない真っ暗な世界、不安を駆り立てる暗闇がディアを包む。夜に目覚めた誰しもが等しく享受するであろうこの暗闇の中に、仲間が欲しい反面、誰にも知っては欲しくないと思った。
ディアはベッドの上で横たわったまま天井を見上げる。それが天井なのか床なのか、そもそも夢なのか現なのか?それすらも曖昧な世界で、小さな声が頭に響いた。
『───こっちだよ、こっちにおいで』
その声は暗闇の奥底へと続き、怪しげにディアを誘う。
『来て、来て?』
その声の主は見えない手で扉を開き、ディアの足を進ませる。抗い難いその声に連れられてゆっくりと、また一歩、また一歩とディアは不思議な気持ちで踏み出した。窓から差す光も無く、扉の前の僅かな松明しかないというのに、道を記されているかのようにその足は自然と前に進む。いつも見ている扉がやけに大きく見えた。夢と現の狭間にいるような不思議な感覚が、背徳感と夜闇の恐怖を引き立たせる。
「そんなことは認められない!」
誰かの声が聞こえた。扉の向こうでは男が誰かと言い合っている。
「しかしねえ。彼女こそ適任なのだよ。彼女は選ばれるべき御子だ。彼女が此処に現れたのは神が我らに差し向けた慈悲の手合い。それを享受せぬのは聖職者としては赦されざる行為だと私は思うのですよ。カニス」
「だからと言って彼女を差し出せと言うのでしょう?彼女は優秀な助手だ!御子にするなどと…!」
その応酬にディアは突然、妙な胸騒ぎを覚えた。まるで気付け薬でも飲まされたかの様に精神の呪縛から解き放たれた気分だ。声の主はまるでこの会話を聞かせるために自分を呼び出したのではないだろうか?そう思いながら、その会話にゆっくりと耳を澄ませる。
「何をおっしゃる。君のモノでは無いでしょう?彼女も私も貴方も等しく神のモノだ。その様に駄々をこねるのはやめなさい。それに種子選別で御子に選ばれるのはこの上ない名誉。解っていましょう? 私と貴方はそれによって生かされ、それによって今を築いたのですから! それに彼女の献身によってこの修道院に住まう多くが救われるのですよ? 彼女もそれを望みます!」
「彼女は枯れない麗しき花だ…、それをたった一年足らずに枯れせる真似など、神が赦しても私は赦せません! それに私は彼女を愛している! 愛しているのです!! それを無理矢理割こうなどと許されざる行為のはず!」
枯れる。何の話かはディアにわからないが、妙に引っ掛かる言い回しだった。まるでその花が人であるかの様な物言いと、彼らの話はまるで、本で読んだ儀式の生贄を彷彿とさせる様な言葉の選びだ。
「いいえ、いいえ。それは虚妄に過ぎません。枯れない花などこの世には無く。どんな命も軈て神の御許に召されるのです。貴方は彼女の魅力に憑りつかれ惑わされているだけなのです。彼女を思うあまりに溢れるそれは愛などでは無く、過剰なまでの劣情!それが貴方を狂わせているのです。貴方もこの修道院、ひいてはマキナスの教会に仕える信徒であるならば己を律しなさい!」
「劣情…? 劣情だと!? この私の彼女への愛を劣情などと宣うのか!?」
「違いますか? 貴方のそれは愛などではありません。劣情です! 彼女から愛していると言われたのですか? 求められましたか?」
「…ッ!……!」
カニスという男は口ごもり、何を言っているのかは聞こえなかった。何か苦渋の決断を迫られている様子で、机に拳を叩きつける。ディアはその音に驚き思わず小石を蹴とばしてしまう。
「───誰だッ!」
扉にコツっと音を立て、カニスの声が勇み足で迫って来る。ディアは咄嗟に扉の裏側に身体を忍ばせ、息を殺した。カニスは乱雑に扉を開き、辺りを見回し、誰もいないことを確認すると舌打ちする。
「…、気のせい…か。まあいい、少し考える時間をください。己と向き合う時間を頂きたく思います。」
今の行動で集中が霧散したのか、我に返ったカニスはもう一人の男へと言葉を続ける。
「……、良い返事を期待していますよ。カニス」
その男は吐き捨てる様にカニスに言い放つ。男の足音が遠くなり、やがて木戸が閉じる音が響く。ディアは息を殺しその場を離れようとした時だった。
「……、私の愛をお前如きが語り穢すな…老害がッ!」
それは妄執と怒りが入り混じった身勝手な怨嗟。本人が与り知らぬ場所で彼等は勝手に人の運命の歯車を回さんとしていた。彼等は思い込む。己の思惑こそが正しいものであると。無意識の支配は蔓延り、渦中の少女の意を介さずに絡みつく茨の指先だ。その指先が無尽蔵に切り裂くであろう柔肌の事も、血に汚れるであろう運命も、彼らは気にも留めないだろう。そしてディアは幼さ故に上辺にすら顕著に表れた邪悪を理解することが出来ない。部分的な会話しか聞いていないが故か、自分の今にどの様な影響を及ぼすのかなど、考えられるわけが無かった。ただそれらは胸騒ぎとなってディアの焦燥感を煽るのだ。居ても立っても居られないような、感覚が足の疼きとなってディアを歩ませようとする。「ここにいたくない」本能的に切り取られた恐怖と焦燥は声のことなどすっかり忘れさせ、暗闇の中を走らせた。
深夜の徘徊は禁止されている事の一つだ。見つかったら怒られる等そんな事を考える余裕は今のディアには無い。それよりもこの胸騒ぎを沈め、自分が知った言葉の意味が間違っていて、暗闇の中で思い浮かぶ顔達が関係ない事を祈った。
「ルク、モニカ、カリーナ…怖いよ、どうすればいい?」
その問いに答えるものはいない。ディアはとうとう走り疲れ壁に寄りかかり腰を落とした。松明の明かりに照らされ飛び回る羽虫の様な気持ちで明かりを見上げる。室内の壁にも手を伸ばした茨が伸び、松明のすぐ上に咲きかけのつぼみが此方を見ていた。ディアはその茨を眺めながら呟く。
「どうしてずっと咲いているんだろう」
これだけ咲き誇り、そして収穫しているというのに薔薇は尽きるどころから枯れる事を知らない。不思議だった。ディアは此処に来てから植物のことなど薔薇の事しか知らないが故に疑問にすら持たなかったが、それが今になって胸の中で妙なしこりとなる。わからないことを考えていた時、ふと、目先のつぼみがやんわりと花を開かせた。それは広がるドレスの様にも思え、修道服の白いスカートをふわりと躍らせて回るカリーナを何となく連想させる。しかしそんなディアの鼻先に触れた香りは薔薇の香りでは無かった。
「……、血の匂い?」
ディアは鼻先に触れた血の匂いに意識を現実に戻される。よく見ればその茨は室内から伸びていた。松明の明かりが途絶えたすぐ隣には暗闇が口を広げている。茨はその奥から生え伸びていた。そして鼻先に触れた血の匂いもそこから漂っている。ディアは好奇心と恐怖心につばを飲み込んだ。何かあるのかもしれない。耳元で誰かが囁く様な感覚が襲い、気が付けば一歩を踏み出していた。
明かりも無い暗い回路を行く。松明の明かりも無く、壁を伝いに一歩一歩ゆっくりと歩いていくと等々、壁に当たる。しかしそれは行き止まりでは無かった。扉だ。木の扉が其処には在った。ディアはゆっくりとその扉を押すと、キィと小さな渇いた音を立てて、扉は彼を中へと招き入れる。充満した薔薇の香りに混じって血の香りが通り抜けた。ディアはその部屋で目を見張る。そこは幾つもの蓄光石に照らされた礼拝堂に見えた。見えた、というのもディアの記憶の中にある礼拝堂はこんなにも茨が蔓延り、中心に茨を纏った石の箱をこさえる様な形はしていないからだ。しかし纏う静謐な空気と造りは何処となく似ていて、それが余計に不気味さを醸し出していた。そしてそこに香る血の匂いと妙な気配が此処は違う場所だと、ディアに耳打ちする。そして血の匂いは真ん中に鎮座した茨を纏った石の箱から漂っていた。ディアはゆっくりと歩を進めようと踏み出す。しかし、気付いてしまった。この部屋中に蔓延る空気は良いものでは無いと。地の底から込み上げてくるような何かがある。それは確信となりディアの心臓に早鐘を打たせる。冷や汗が溢れ、恐怖に足が竦む。それなのに身体は既に言う事忘れて、石の箱へと歩み進んでいく。
「……これは…」
石の箱は開かれていた。よく見ればその箱の周りは無数の血痕で汚れ、細かい白い粒や砕かれた白い欠片がこびり付いている。そしてディアはその白い欠片に見覚えがあった。本能が告げている見るべきでは無いと、指先を震わせる。だのに手はごく自然に理性に背き、その白い欠片を拾い上げ、ディアの目の前へと運ぶ。荒れ始める呼吸の最中、ディアは間近で拾い上げた欠片を見たときに、理解するのと同時に、思い出してしまった。そうこれは
「…人の骨だ…」
瞬間、視界が回る。頭の奥が割れそうになる程ノイズが走り回り、ディアはその場でのた打ち回った。
「────っ!」
喉の奥が焼けそうな程叫んだ。頭の中で忘れていた悍ましい光景が鮮明に蘇る。自分の瞳に焼き付いたはずの現実は、ディアの意志に関係なく脳へと流し込まれた。
人、ヒトを殺してその血を啜り、肉を喰らい、目を抉り、脳を喰らって、何もかもを奪ったあの感覚が濁流の様に溢れては身体中に染み渡る。その悍ましい感覚は耐え難く、ディアは地面に何度も身体を打ち付け、抗う様に唸った。しかしそれはとどまることを知らず。血となり肉となり、馴染んでいく。自分じゃない誰かが自分になっていく感覚は〝今〟のディアを上書きするのには充分だった。
『やっと、此処まで来てくれたね。ワタシの愛しい仔よ』
誰かが見ていた。その存在は逆さの顔でディアに笑いかける。黄昏の様な鮮やかな髪と濁食した瞳に浮かぶ反転した五芒星。そして金色の蛇が巻き付いた右腕。その人物はディアの中でも最も古い貌の記憶だった。夢の中の様な存在で実在しない影法師。全ての記憶を紐解く存在。彼女の名は
「ア、ス……タ、ロ…ト……?」
喉を震わせ口にする。それは知らない言語を口にするかの様でありながら、読み慣れた本をなぞる様な、真性異言だった。名を呼ばれた存在は満足気に笑うと愛おし気にディアの頬を撫でる。
『ヒトをちゃんと知って来たんだね。フフフ!それで良い。ワタシの愛しい仔』
アスタロトは興奮気味に笑いながらディアの首筋に手を当て、弱く締めながら顔を近づける。舐めまわす様にディアを眺めながらその成長を味わうと彼の左手に手を重ね、耳元で囁いた。
『もうすぐ、もうすぐだよ。キミがワタシを求める時が来る。そしてキミはワタシの名を口にするんだ』
アスタロトはディアの運命を知って居るかのように嗤う。否、彼女こそがディアの絶対的な運命の支配者だ。彼女は全てを知って居て、彼を此処に招いたのだ。この修道院のそのものに。しかしディアはそれを知らない。数奇な運命の歯車を回し続けた存在は漸く巡って来た流れに狂喜する。
『そしたらワタシはそれに応じよう。そしてキミは…、偽りの戒律を砕く剣となる。』
アスタロトの言葉の意味をディアは理解できなかった。ただ、自分の想像を超える事象が起こる事は確かだと確信する。身体を廻る感覚と恐怖が忘れた呼吸を思い出した時、ディアは溜まった息を吐き出した。
「はぁ…っ…、あっ…う…」
気が付けばアスタロトは既に姿を晦ませていた。まるで全てが此処で見た悪い夢だったと、そう思えてしまう程の静寂が横たわっている。ジリっと左手が焼けるように痛みが走った。手の甲の傷が酷く痛む。それはグツグツと煮え何かが這っているかの様だった。そして傷はディアの手の甲を勝手に切り裂き広がり始める。焼き付けられる様な痛みにディアは悶えながら痛みが治まるのをただ待った。待つ事しか出来なかった。刃物で切り裂く様に傷口はどんどん広がり、反転した五芒星を浮かび上がる。それを見てディアは確信させられた。「アスタロトの存在」それは夢でもなんでもなく、確かにここに存在ていたのだと、そしてディアの運命を支配する存在であるのだと。身体に刻まれたこの烙印がディアに物語る。ディアは脳裏に蘇った光景を思い出しながらその手を強く握り、一人で啜り泣く。もしかしたら自分はヒトでは無いのかもしれない。そんな漠然とした恐怖が襲い掛かる。怖い、怖くて仕方が無かった。だがアスタロトの言葉を思い出すたびに「何かが起こる」という事実だけが己を叱咤する。泣いて等いられないと。
「せめて、ルクやカリーナ、モニカを守らなきゃ…!」
そう決意をした矢先だった。
「鼠が紛れ込んだかと思えば、君ですか。何をしているんです? こんな時間にこんな場所で」
木の扉が開く。ディアが振り返ると其処には修道院長のシルヴァントゥスが立っていた。
「修道、院長…?」
「深夜の出歩きは禁止です。それにここは立ち入り禁止の場所、鞭打ちをお望みですか?」
ディアはシルヴァントゥスへと視線を向ける。一瞬、この場所に渦巻く忌々しい何かとシルヴァントゥスの気配が馴染み繋がる様に見えた気がした。
「ここは、ここはなんなのですか!? …おかしい!」
「おや…貴方は少々感応力が優れているようですね。」
ディアの問いかけを否定せず、シルヴァントゥスは感心した様子を見せ、顎をしゃくる。
「…! 何を知ってるんです…!? 何故アスタロトが…ここに!」
「…?はて。そのアスタロトが何かは存じませんが…、良いでしょう、ここには私達が愛すべき神の力、その一端が眠っているのですよ。私達は神の使徒。そして選ばれた存在であるこの私は、アンティキティラへと導かれるべき存在。」
「アンティ…キティラ?」
その言葉の意味が解らず飲み込めぬ表情でディアは問い返す。
「理解できないでしょう。えぇ無理もない。何故ならその存在はマキナス教の中でも司祭以上の人間しか知り得ませんからねぇ。そして私はそのアンティキティラへと導かれやがて神マキナスの御座へと召し上げられるのですよ!」
恍惚とした表情でシルヴァントゥスは語る。長い旅の中で遂に理想郷を見出したかのような、聖職者にとっての至極の瞬間を想像し悦を食むかのような表情にディアは震えた。脳裏にアスタロトの言葉がよぎる。
「此処にあるものは…そんなものなんかじゃない…!」
開けてはならない扉だ。直感ではない、本能が告げている。この足元に蠢いている存在は今にも自分すらも飲み込んで溶け込もうとしているかのように思えた。
「やはり、ご理解いただけませんか。ではここで答え合わせをしましょう。君は確か、ディアという名前でしたねぇ?」
その奇妙な問いかけにディアは息を呑んだ。何をするかも解らない相手にディアは少し身構えた。
「…それがなんです…?」
「私がこの話をしても貴方には関係ない事。何故なら貴方はこれから全てを忘れるのですよ。ディアくん」
シルヴァントクスはそういってディアに手を翳す。そしてディアの目の前で何かが弾けたかと思うと、ディアの視界は暗転した。
「こうも優れた素材が流れてくるとは・・・良い傾向ですねえ。ですが、今は忘れてもらいますよ。今日の夜、貴方が見たものを全てをね。それまでは暫く生かしておいてあげますよ。クックック…。」
翌日
ディアは眠たい目を擦りながらルクとカリーナ達を待っていた。
「昨日はなんだかよく寝られなかったみたいで、身体が重たいんだよね…」
「そうなの?」
「うん、なんか変な夢見ててさ、なんか院内の廊下をず~っと歩いてる夢を視たんだけど、それがなんか現実ぽくて。なんか怖かったんだよね」
「へぇ、ディアが夢を見たって話、初めて聞いたかも」
何時もの何気ない会話が続く中、ディアは何か漠然と大切なことを忘れている様な気がした。「なんか忘れちゃってるんだよなあ…」と不自然に途切れた記憶は焼き切れた紙屑の様で、曖昧で穴だらけの記憶は、ディアの中では夢として処理される。しかしそれでも灰は残り胸に燻ぶり続けていた。妙にパッとしない感覚はディアを苛んだ。
「それにしても、カリーナ達、今日遅いね」
ディアの言葉にルクが頷く。今日は何時もより早く来れると話していたのに、何時まで立っても彼女は彼らの前に現れることは無かった。
次話は10/01の21時に更新されます。