12.緋色と灰の物語 破 ─Stain─
真っ白な世界が広がっていた。視界の端々はぼやけ霞み、誰彼の声も聞こえはしなかった。凪いだ世界。凪いだ光景、凪いだ心。ディアは己が死んだのではないかと錯覚してしまう程、そこは静謐で物音しない寂しくも不思議と夢とは思えない世界だった。しかしその世界を侵す様にディアの足元に黒い泥の様な物が広がり始める。それは真っ白なシーツの染みの様に、目を引くほど恐ろしく、近寄りがたいもの。ディアは嫌な予感がしてからか、その泥から抜け出そうとした。しかし何かが足に引っ掛かかる。
「…?」
それは人間の手だった。黒い泥の中から伸びた白い手が自分の足を確りと掴んでいる。心臓が早鐘を打つ。これは紛れもなく人ならざるモノの手だ。そう直感的に判断したからだ。関わってはいけない。そう思い必死にその手を振り払おうとするが、泥の中から更に無数の手が伸びた。それらは一切の容赦なくその白い指をディアの身体に絡ませて無理矢理泥の中へと引き摺り込む。
「なんだ…これ…!」
ディアは必死に藻掻く。しかしその抵抗も虚しく、暗澹たる泥の中へと引き摺り込まれてしまった。
溺れる様な感覚の中に覚えたのは耳を劈く叫び声だった。誰がどうして何を叫んでいるのかは分からない。だが、言葉にならない悲鳴がただひたすらに響き渡っていた。
「…!」
【嗚呼、ああ! 命が、命が枯れて逝く、ゥ。死ぬ、死ぬ。死。死ぬ。死ぬ】
【ああああ…、殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ、くるしいいい、】
【どうして、どうして、わたしが、わたしなの? わたしはあんなになのに、どうしてどうしてどうしてどうして?】
そこに広がるのは死と絶望。多くの声が己の境遇を嘆き苦しみ、ただ其処に存在していた。絡まった茨が寄生虫の様にその彼等の身体に噛みついて、その血と命を吸い上げる。そうして彼等の命は消費され、命はやがて肥料となった。ただそれだけの事。ただそれだけの事だった。彼等はじわじわと死ぬことも生きる事も許されないまま石の棺の中で、茨に血と命を吸われ続けていた。ずっとずっとずっとずっと。命が枯れて朽ち果てて、骨となって、次の生贄が見つかるまで。身体を少しずつ切り落とされていく様な痛みと苦しみを長く味わい続けながら、やがてその魂までもを削られていく。狂気の沙汰だった。そうした血と痛みと嘆きを吸い上げて、薔薇は綺麗に咲き誇る。純潔にして無垢なる白い花弁を実らせて、らんらんと歌う様に穏やかに。彼等は皆、聖職者だ。あるものは唆され、あるものは贖罪の為、あるものは名誉の為、あるものは崇高な大義の為に。あるものはこの場所を存続させるために。誰もが知らずに飛び込んだ。そしてそれらの痛みと嘆きの感情は容赦なくディアに押し付けられる。
「うあッ‥ぁあああ! やめろっ! そんなものを押し付けるなッ! 知らない! お前らなんか知らないッ!」
耐えがたい苦痛だった。身体を少しずつ締め付けられて血を吸われるのも、肉体を崩されて骨を砕かれるのも、骨髄の奥にある血を啜られる感覚も、何もかも、何かも彼等が感じたものだ。自分のモノでは無い痛みは一方的に流し込まれる。ディアという器が壊れる事なぞ気にも留めずに、ただ一方的に注ぎ込まれ続けた。
「叫ぶなッ!」
耳元で囁かれる痛みと絶望。苦しみと嘆き、怒りと慟哭。
「どうしろっていうんだよ!」
彼等はそして今魂すらもこの場所に縛り付けられている。肉体を失ったというのに彼等は永遠に解放される事無く、ただここで少しずつ削られていく痛みだけを味わい続けているのだ。そう、救いなんて無い。ここに救いなんて無いのだ。
【嗚呼、あああ、あああああ!】
誰かが叫んだ。そして苦しみと絶望が絶頂に至った時。その魂に黒い亀裂が入り込む。パキンっと何かが砕け散る音がした。そして砕けた魂からは何かが溢れ出る。名状し難い泥の様なものが溢れ出て、その魂は正しく魔物と呼ぶにふさわしい姿へと変わり果てた。
【ギギギギギギ…・】
声すらも姿すらも、もう人ですらなかった。
「ヒト…が…?」
その光景は、自分にまとわりついていた痛みなど、忘れてしまうような光景だった。心臓が早鐘を打つ。自分もそうなってしまうのだろうか? あの様な名状し難い魔物へと成り果てて、このままこの現とも夢とも解らない場所で、永遠に彷徨い続けるのだろうか? 嗚呼、それは正しく恐怖だった。理解できない理が頭の中に流れ込んでくる。理解できない現象をただただ見せつけられて、ただただ自分の中の不安を煽られ続けていた。
『ご覧、ご覧? これが〝絶望〟だよ。此処に眠る〝絶望〟だ』
その光景に目を奪われているディアに、甘ったるい声が掛かる。聞き覚えのある声の主は、嗤いながら彼にその存在を説く。
『あれはこの世界の理じゃない存在だ。だけどこうして世界の壁が曖昧な場所からこの世界に入り込もうとしているんだァ』
その説明は少しも理解できなかったが、その名状し難い魔物たちがこの世界の存在では無いと言われ、酷く納得した。
『そして今生まれ出でようしている! 胎動しているんだ。わかるかい? ワタシの可愛い仔供達!』
喜々として恍惚に満たされた声が響く。その声の主は白い指先でその魔物を撫で、ディアを撫でた。
『嗚呼、解き放っておくれと嘆いているよ。死ぬことも生きる事も許されない、あぶれた命たちが。帰りたいと泣いているよぉ。』
芝居のかかった口調で声の主、アスタロトは嘲笑する。母親の様に穏やかな声音でディアに言い聞かせる様に。
「こ、こんなものが、世界に…? お前は、僕を…どうするつもりなんだ…?」
『フフフ! 言っただろう? お前は私の剣だ。偽りの戒律を砕く剣だ。』
『そしてお前はやがてマキナスという偽りの神を殺す剣となる!』
アスタロトははっきりとその存在を認め、そして拒絶する。神などこの世には存在しないと勝手に決めつけていた。あらゆる因果応報も、あらゆる困難も、神とは関係なしに訪れて与えられるというのに、幸せも不幸も全て賜わってしまうというのに、神は存在する。それが本当なら、ディアという存在は正しく、正しい意味で異端の一言に尽きてしまう。
〝烙印者〟がなぜこの世界で排斥されようとしているのか、全ての事が文字通り正しくなってしまうと言う事だ。シルヴァントゥスの行いは正義であり、ディアの問われた全ての罪は正当化され、正しく重罪人となるだろう。彼等の教えは全て正しく、神は実在するのだから。しかしアスタロトはそんなマキナスを偽りの神と称した。そしてディアがその存在になると言う事はディア以外の烙印者もまた、世界の敵と言う事になってしまう。
「マキナスが偽りの神…?」
それは悪魔の甘言にも聞こえる言葉だった。アスタロトはディアがその言葉に食い付いたことにさぞ嬉しそうに微笑んだ。
「マキナスが存在し続ける限り、お前は苦難に苛まれ続けるだろう。お前の〝今〟を考えてご覧。マキナスの信徒は愚かで浅はかだっただろう? お前はそんな彼等から大切なヒトを守れるかなあ? アハハハハ!」
アスタロトは彼等を嘲りながら、何も出来ないディアをも嘲る。意気揚々としていたわけではない。だが確かにあの瞬間、明確な殺意を以てしてシルヴァントゥスとは対峙していたはずだった。それなのに今はこうして夢か現かも解らない場所に身を置いてしまっている。アスタロトは全て見ていたのだ。今までのディアを。だからこそ全てを知っている。ディアがどういう状況に置かれ、何を見出し、描き、そして歩いて来たのかを。
「忘れるな。お前は持たざる者。何もない。何も持ってない。失うだけの存在だ。いくら林檎を植え続けたとて全て枯らすのがお前だよ。」
「だが、お前は奪えるんだ。何もないなら奪えばいい。全てを奪え。そして全てをモノにするが良い。お前にはその権利と義務がある。偽りの戒律を砕くための剣よ、精々成長し給えよ。他者から奪ったとてそれはお前の林檎だ。お前は貪るだけでいいのだから」
アスタロトがそうディアに告げると、ディアは身体が軽くなるのを感じた。縛り付けていた腕たちはほろほろと崩れて灰となって消え去っていく。妙な浮遊感が精神が現実に引き戻されている事を物語っていた。この深い絶望の底から、何かが蠢く怖ろしい場所から、ディアは吊り上げられる。そして
「…はっ…!」
目を覚ました。先ほど見た光景は全て現実だったのだろうか? だが、今自分のすぐ真下から感じる黒く淀んだ感覚は、修道院の下に広がるものは、間違いなく夢ではなかったと物語っていた。倒れたままの修道士たちと、辺りに飛び散った血痕。わずかに開いた扉から、ディアは事態が進展している事を悟った。どれくらい意識が無かったかは分からないが、それでも急ぎ足でルクの後を追った。
そしてディアはルクと同じものを見る。だが、ディアは儀式の準備の生贄にされようとしているカリーナとモニカを見た瞬間、ルク以上に頭に血が昇った。ルクが今まさにシルヴァントゥスを追い詰めているというのに、その男を自らの手で殺したくて殺したくて仕方が無いという衝動に襲われる。
「…ッ…」
ディアはゆっくりと歩いた。ルクが追い詰めた獲物を決して逃がさない様に、虎視眈々と睨みながら、そして目を離さずに落ちていた剣に手をかけ、強く握りしめる。
「…ディア…!」
「ごめん、ルク。迷惑かけた。」
剣を構えた少年二人はシルヴァントゥスと相対する。最初に動き出したのはディアだった。静かに腰を落とした直後、勢い良く踏み込む。ディアはシルヴァントゥスのその首を狙って刃を突き立てんと刃を振るう。
即断即決。
ディアは彼が何かをする前に殺す事を選んだ。勢いよく迫る死という鈍い輝き。燻した銀の様な銀閃が閃く。
「……ッ!」
しかしかつてディアがそうであったように鋭すぎる殺意の籠った一撃とは、本能的に誰だって回避を誘発してしまうモノだ。シルヴァントゥスは息を出す間も無く体ごと大きく退避した。魔法を使う前に距離を詰められ、退きの一手を強いられる。
「クソ、クソ! ガキがいい気になるなっ!」
迎撃の魔法を唱えようと指先を向けた瞬間。その間髪を埋める様にルクが飛び込む。
「コイツッ…!?」
「させるかっ!」
ルクはすぐさま、刃を斬り上げる。そしてその刃はシルヴァントゥスの肘上を搔っ攫った。シルヴァントゥスの腕が枯れ枝の様に宙を舞う。
「ぎゃあぁあっ!?」
切口から勢いよく血が溢れる。思わずその腕を抑えながらシルヴァントゥスは膝をつく。
「今すぐ儀式を辞めるか、俺達のどっちかに殺されるか選ぶんだな」
ルクの怒りはディアの登場によって少し削がれ、殺気という波に飲み込まれていたはずだったが、自然と唇は譲歩の言葉を述べていた。それは彼の甘さ故か、優しさ故か。しかしシルヴァントゥス追い込まれているとは思えない不敵な笑みを浮かべて魅せた。
そして彼は懐からタリスマンを取り出した。そしてそれを力強く握りしめ、砕いた瞬間。シルヴァントゥスは自分に魔力を流し込む。
「フン、どちらもお断りですね。儀式は遂行します! そして死ぬのは貴方達だ」
その言葉にディアとルクははっとした。彼を追い込みあと一歩という所で、この男の最大の脅威を思い出したからだ。そうルクを散々苦しめたあの魔法はまだディアの中で生きている。ルクは反射的にディアから離れようと足を躍らせるが、それは遅かった。
刃が肉を切り裂く音共に鮮血が飛び散る。全てが遅く見え、全てが色を失った。それは一瞬の出来事だったが、永遠とも思え、ディアの頭の中は真っ白になる。
「ぐあっ…」
白刃が貫いたのは、シルヴァントゥスではなくルクだった。ルクの身体を貫いた白刃は血を啜り零し、地面に零す。紅くなった視界越しにディアは己の愚かさを呪った。頭の中が急速に冷えていく。
「フハハハ! やったぞ! これで私の勝ちだ!」
シルヴァントゥスの笑い声が響き、ディアはその場に言葉なく崩れ落ちた。
「ああ…嗚呼! 嘘だ、嘘だ! ルクッ!?」
「かは…ッ、ディア、悪ィ…忘れたよ…」
「違う、違う違うよ、違うよ、ルクは悪くない、ぼ、僕が、僕がああ…!」
失念していた事だ。全てはディアが招いた事だった。一瞬の事に気を取られ、頭に血を昇らせて、シルヴァントゥスを殺す事しか考えられなかった己の行動が、今、全て裏目に出てしまったのだ。
「お前が、剣を持って魔法陣まで来てくれて助かりましたよ、ディア! これで儀式を始められる! お前がすべて持ってきてくれたのだからな!」
シルヴァントゥスの最期の罠にまんまとハマったのだ。シルヴァントゥスはディアに魔法をかけ、その精神を再び奪おうとする。
「あ…がっ…!」
「さぁ、カリーナ! ディア! お前達の血で魔法陣を描けッ!」
その言葉にカリーナは抗うことなく、何の躊躇いも無くナイフでその手首を斬り、魔法陣に血を滴らせた。ディアはその光景を見てカリーナに手を伸ばし必死に止めようとするが、シルヴァントゥスの呪縛がそれを許さない。
「カリー…ナ! ダメだ!」
それでも必死に叫んだ。このまま彼女は血を流し尽くすだろう。そんな事はさせたくなかった。そんな意思でディアは必死にシルヴァントゥスの魔法に抗ってみせる。
「クッ…! 抵抗するな!」
「あァ゛ッ…!」
脳の血管がはち切れそうになりながら、ディアはそれに抗う。しかし震える手は己の意思とは裏腹に刃で己の身体を切り裂こうとしていた。首に刃を当て、自刃させようというのだ。しかしディアは無理矢理それに抗い、刃の向きを変えて自分の肩を切り裂いた。
「───ッ!」
肩から噴き出した血が魔法陣を潤す。彼等の血が混ざりあい地面に描かれた溝に吸われていく。そしてとうとう血で描かれた魔法陣が完成してしまう。
魔法陣は怪しく輝き、その中心に添えられた茨の棺の中でモニカは静かに目を開けた。彼女の瞳はその色を濁らせ、身体に巻き付いた茨が彼女の身体から血と魔力を吸い上げて魔法の起動準備が完成したことを告げる様に辺りに蔓延っていた茨がずるりと重たい音を上げ、電流の様に魔力が辺りを駆け巡る。
「さぁ、皆で神を讃えましょう。此処にある力をもってして、私は神に近づきましょう。そして私は真なる聖職者として名を刻み、貴方の名の元に殉じましょう!」
そして魔法の最期の鍵である信仰が魔力となって魔法陣に注ぎ込まれる。魔法陣は怪しい輝きを放ちながら起動し始めた。それは門を開く魔法だ。この世界を隔てた先に存在するとしたマキナスに至るための魔法。しかしシルヴァントゥスは神を力だとも解釈していた。絶対的な力、畏怖の象徴とは時に人々の中で神となる。それ故にここに眠り脈々と受け継がれてきた種子選別という名の生贄の儀式も、扉を守るための封印の儀式だと考えていた。だからこそそれをコントロールできる素質を持つモニカは聖体と呼ぶのにふさわしかったのだ。心配な点があるとすればそれは
「さて、幼子に耐えられますかな」
そんな程度だ。モニカには強力な精神呪縛をかけ、もはや彼の人形といっても差し支えない存在へと書き換えた。だからこそ、神の力を宿した強力な力を持った少女を傀儡とすることにより後は自分がその力を操って君臨すればいい、そう考えたのだ。器が駄目だった場合は及第で用意した依り代もある。彼にとってモニカは器でしかなかった。
「さぁ、お前も祈ると良い! そうすれば救われるかもしれませんなァ!」
シルヴァントゥスは勝ち誇った顔でディアにマキナスへ祈る様に進言する。それは侮蔑だった。祈ったとて何も変わらない。ただシルヴァントゥスは勝ちを確信したかった。そして勝利を食み安心を享受したかったのだ。「私は間違っていなかったのだ」と神からの許しを得て肯定を勝ち取りたいと願った。その為に彼は祈る。それは利己的な祈りであったが、そんなものはどうでも良い。今は一刻も早く安心したいがためにディアにさらなる過重を掛けた。ルクは倒れ、カリーナもモニカも手の内だ。そしてディアとは精神的につながるパスが残っている。負ける要素はどれも無い。しかしそれでも、それらの要素は安心と引き換えにすることは出来なかった。
「ぐぅ…うぅ…」
ディアは意地でも祈るものかと歯を食いしばった。肩からの出血も収まらず、頭の中では煮え滾った血が巡る様な感覚に襲ってくる。それでもディアは祈らない。何時までも安心を享受できない事にシルヴァントゥスは苛立ちを覚えた。
「ッ…! 祈れ! 祈れ祈れ祈れ祈れ祈れ祈れ‼ 祈れェッ‼」
ディアは頭の中でぶちんと何かがはち切れる音が鳴った気がした。鼻と目からだらだらと血が流れて、世界が紅く染まる。もう限界だった。脳に針を刺されたかのような感覚の中、ディアの唇はゆっくりと動く。
「…われ・・らの…神、マキナ…」
勝手に動く唇と喉がその譫言を口にしようとした瞬間。ディアはその喉を焼かれた。身体の血管が燃えて血が沸騰する様な感覚に恐れる。込み上げた熱が全身を焼き、脳を焼く。それはまるで耐え難い苦痛を以てしてまるで身体に刻まれた記憶を思い出させているかの様だった。否、目の奥が燃え、虚飾の光が剥がれ落ちる。耳元で誰かが囁いた。
『偽りの神に祈るだなんて許されない事だよ』
その声は恍惚的に艶を孕む。しかしその声音とは裏腹に彼女は譫言ですらそれを許さなかった。自分の傀儡であるディアが例え如何なる理由があろうとも、マキナスへ祈ることを許さない。今までの苦しみも、痛みも全てを無視したのに、彼女は神への祈りは絶対に許さなかった。だからこそ罰としてその身体に熱を流し込み。ディアを苦しめる。
そしてその熱はディアの身体に蔓延ったシルヴァントゥスの魔力をも焼き払った。身体に入り込んだ毒素に対して発熱して消す様にディアは身体の内側は燃えて滾る様に熱を帯び、血が沸騰したと錯覚する様な、身体が燃えて指先が灰になってしまうと思えるほどの痛みと熱がディアを襲う。この脳が焼かれる様な感覚を前も味わった。それはあの日、あの時だった。カニスがカリーナを攫う前日の事。痛みは虚飾の霞を取り払う。最初から仕組まれていた事柄がただ動き出したに過ぎないだけだった。ディアは両膝を尽きながら鼻血を地面に零す。今渦巻いたこの感情が、憎悪がさらに肥大化し大きくなっていく。今すぐあの男を八つ裂きにしても物足りないという衝動が腹の中で渦巻いている。真夜中に見たカニスの言動と犯行の結果。そしてもう一人の男。全てが繋がっていく。
「…! な、なんだそいつは!」
シルヴァントゥスの震えた声が響き渡たる。彼には見えていた。ディアのすぐ傍に、人ではない何かの存在を。その存在は明確に目に映る。神聖の残花の様な美しくも冒涜的で、見ている事すら敬虔な信徒である彼には憚られる存在だった。しかしそれは神というには余りにも程遠く、それに似合う言葉は悪魔か化物の二つだろう。美しき悪魔。その瞬間、アスタロトは間違いなくこの現実に、物理的な世界に顕現していた。
「あ、悪魔…! 悪魔だ…! 馬鹿な! じ、実在するわけが無い! これはなんだ!? 一体どんな…⁈ ま、まさかお前も魔法を…!?」
それが魔法等と言う存在では無い事は本能的に理解できた。しかしシルヴァントゥスはそれを容認する事が出来ず、否定の言葉を並べる。アスタロトは今にも死にそうなディアを椅子にして座ると顎をしゃくった。目の前の聖職者こそ、己の傀儡に忌わしき名を口に差せようとしたのかと、視線だけで男を見据える。瞬間、シルヴァントゥスの耳元で纏わりつく様な声が聞こえた。それは羽虫の羽音の様に耳障りで、神経を逆なでる声だった。
『嗚呼、わかるよ、わかるとも、徹底的に相手を打ちのめし、そして安心したかったんだろう?』
「!」
『だけどねぇ、だけどねぇ、それが浅はかで傲慢。フヒヒヒ、アハハハ! ワタシの愛しい仔に、偽りの神の名を口にさせ様だなんて。嗚呼、嗚呼、嗚呼。そんな事をするから、キミは見放されて地に落ちる。熟れた果実は木から落ちたら潰れるだけ。不実に腐って崩れる果肉にすり寄るのは羽虫と蛆虫ばかり。』
「……!」
背筋が凍り付き、言葉は喉に張り付いた。魔を退ける為の術は完全に霧散し、シルヴァントゥスはその存在を前に何もできずにただ立ち尽くすのみ。
『お前の全てを奪い去ろう。お前の全てを否定しよう。お前の全てを枯らして見せよう。お前が触れた逆鱗は竜よりも尚怖ろしい神の先触れと知るが良い。』
アスタロトはそう告げると「キャハハハ!」と金切り声の様な笑い声をあげながら、指をパチンと鳴らしたその瞬間。
歌声が止んだ。
「…!?」
一体何をしたのか、と思えば次に訪れるのはどよめきだ。
シルヴァントゥスは放心した。今まで築き上げ、今日の日に備えて来たというその全てを、たった今、その不可解な存在に破壊されてしまったのだ。それもただ指を鳴らすそれだけの行為で。
「私はいったい何を…?」
「院長、これはいったい…?」
誰も彼もがシルヴァントゥスの精神操作魔法がすべて剥がされ、誰も彼もが正気に戻り始めていた。言うまでもない。アスタロトの仕業だった。此処にいる全員に掛けられた魔法の解呪等、アスタロトにとってはなんの造作も無い事だ。それは当然、モニカやカリーナも例外ではなかった。血を失いすぎたカリーナはぐらっと頭が揺れるのを感じるとその場に座り込む。
「カリーナ!」
ディアは慌てて彼女を支えた。
「ディ…ア…、」
「休んでてくれ…、直ぐ此処から離れよう!」
ディアは自分の服を裂くと彼女の手首に巻き付けて止血を施す。応急処置、気休め程度だが、何もしないよりはずっとましだった。
「ルク…!」
そしてディアは直ぐにルクへと駆け付け、その体を起こす。その出血の後は酷いが、幸い傷は浅く、ルクは意識を失っているだけだった。
「よかった…! …ごめん、ごめんルク…!」
ディアはその瞬間、「自分は殺していなかった」と安堵を覚え、涙を零す。その事実は、冷たくなった心を温め、ディアが希望を持つには充分な事だった。気が付けば先ほどまで張り詰めていたであろう感情や煮え滾っていた憎悪は少しずつ和らいだ。冷静になったディアはモニカを棺から引きずり出し、彼女に絡みつく茨を切り裂く。誰も彼も致命傷になり得る傷を負っていた。ディアは思考を巡らせる。どうこの場を脱するかと考え、三人を見た。
「きゃあ!?」
甲高い悲鳴が鳴り響く。其処にはふらふらとした足取りの男がいた。何処からともなく現れたその存在は白い布を顔にかけられ、全身を包帯で覆われたミイラの様な風体の男だ。その男が現れた瞬間、座り込んでいたカリーナが頭を抱えてわなわなと震え始めた。
「い、嫌…いる、いる…! あ、あの男が…!」
「まさか…」
その姿を見て放心していたシルヴァントゥスは正気に戻る。
「カ、カニス!? な、何故動けている?!」
身体の神経はほとんど断裂したはずだった。何処にも逃げられない様にしたはずの、もう死ぬことしかできないはずの男が今、こうして歩き、現れたのだ。だが、その雰囲気は異様と言えるものでディアは彼を見た瞬間、何か妙な既視感の様なものを覚えた。カニスは「あ…うゥ…」と声にならない呻き声を発しながら、シルヴァントゥスの方へと歩いていく。歩く屍と言うにふさわしいその姿に、ディアは先ほど見た名状し難い歪な魔物を思い出す。何故そう思ったかは分からないだが、そう感じた瞬間、不和の種は核心となって溢れ出さんとする。
「カ、カニス‼ カ、カリーナはあちらだ! お前の憎きディアもそこにいる! …こっちへ来るんじゃない!」
「m4s@4w@mee」
何かを喋った。何かを口にしたその瞬間、カニスの身体に罅が入り始め、その罅は身体を真っ二つに裂くかのように広がっていく。ギギギ…と何かが身体の中か這い出ようとする音と共に、カニスの身体は膨張する。およそ人間とは思えない様な…人という器の中に何か別の物が入っているとしか思えない様な異様な光景に、誰もが言葉を失った。ぐちゅぐちゅと殻の下で何かが溶けて混ぜ合わさる様な耳障りな音。カニスの身体に入った罅から黒くどろりとした粘性の液体が這い出たかと思うと、その身体は爆発四散し、粉々に砕け散っる。そしてそこにはディアが観た異形の化物によく似た存在がいた。その姿は名状し難く、最早人のカタチはしていない。粘性のある液体を引いた人間の手足と思える部品を体中からはやした肉塊と呼ぶにふさわしい化物だった。
「ギギギギギッ…」
「うわああッ…!」
誰かが悲鳴を上げた瞬間、誰も彼もが走ってその場から逃げ出した。しかし礼拝堂の扉は固く閉ざされ開くことは無く、開けろ!という声と扉を叩く音だけが虚しく木霊する。そしてただただ逃げ惑う修道士が扉に群がる様を見てアスタロトは悦を貪り、開館に浸っていた。
儀式は既に破綻していた。だが彼女の、アスタロトの気がそれだけで収まるはずが無く、例え無辜であったとしてもアスタロトには関係ない。彼女の前では此処にいる誰も彼もが等しく罪人だ。彼女は彼等を許さない。彼女が望むのは更なる悲劇、罪には罰を、罪悪には浄罪を。聖職者なら誰もが求める道理をアスタロトは求めていた。
「アスタロト…⁈ な、何を…?」
『罪には罰を、彼が最も愛した方法で、彼等の信じる戒律で、因果応報を与えようじゃないか』
アスタロトは混乱する人々を見て興奮した様子を魅せた。じわりと腹の奥が鳴り滲み始める。彼女は来る絶頂の予感に恍惚を隠さない。
「く、クソ! 離せ! 離せェッ!」
その怒号にディアは振り向く。そこにはあの肉塊の化物がその人間の腕に良く似た無数の触腕でシルヴァントゥスを捉え、捕食しようとしていた。大きく開いた口は大人ですら簡単に丸のみできそうな程であり、そこに立ち並ぶ無数の歯は人間の者とよく似ている。そうそれはこの化物が元は人間であったことを知らしめるかのようであった。鋭くも無く、平坦で、それでいて磨り潰す為の歯だ。何度も何度も咀嚼して、どろどろにして食道へと流し込む。それを連想させる。
「神よ! 嗚呼神よ! 何故?! 何故なのですか⁈ 私は正しく、貴方の力をッ…!」
『一つ教えてあげよう愚かな仔羊。お前は喜ぶべきだ。』
「な、何?」
『ワタシは慈悲深く、そして異教徒であれ、一度は愛した存在の意は汲んでいるのだよ?』
「ま、まさか!? いや、そんなわけが! そんなわけが無い!」
「さぁ! 喜ぶがいい! それこそがお前が望んだ力、お前が目覚めさせようとしたものだ。」
「嘘だーッ!」
バクンっとシルヴァントゥスはその声と共に声が途絶える。しかしその後響いたのは激しく抵抗する声と痛みに苦しむ声だった。
「ぎゃあっ⁈ やめ、やめぉっ‼ あああぁぁああああッ‼」
骨をかみ砕く音、咀嚼する音、肉を断つ音。それらが礼拝堂中に響き渡る。その不快な咀嚼音は恐怖の旋律となって、同じ罪人として肩を並べさせられる信徒たちの恐怖を掻き立てた。
「ッ…! あああああイヤだ! 嫌だ!」
「神様! 神様! 助けてェッ!」
アスタロトはそれを見るとさぞ楽しそうに嗤う。蛇の様な長い舌を躍らせながら彼等の絶望を肴に愉悦を味わっていた。あれだけシルヴァントゥスは優勢だったのにも関わらず、たった一回。アスタロトが指を鳴らしただけ全てが傾いてしまった。間違いなく人間とは一線以上を画した存在であることを、ディアに刻み付ける。それは一種の脅迫でもあった。その気になれば彼女はいつでもディアを処分することができる。それも周りを巻き込んで。
そしてカニスだった肉塊はゆっくりとディア達の方へと振り向くのだ。その醜い肉体と肥大化した身体はゆっくりとゆっくりと。ずる…ずる…とその身体を引き摺りながら、無数の足で子供のあんよの様に近づき始めた。その長すぎる距離と時間は逆に彼等を焦燥させる。そしてそれはカリーナも同じだった。
「いや、嫌嫌嫌ッ! あああ、あああいつが、アイツがいるっ! 臭いがするの、あ、アイツの…! あああああッ‼」
カリーナは発狂した様子で髪の毛を掻きむしり足をじたばたさせる。完全に正気を失い声を荒げる事しかできなかった。カリーナはカニスの全てが刻まれてしまっている。声も、身体も、そして匂も。形は変わってもあれは結局カニスなのだ。その事実が、匂いが彼女を狂わせてしまう。ディアは自分達もまたあの肉塊の餌として並べられていると悟ると剣を取った。
「カリーナ達には触れさせないっ…」
勝てる自信、見込みなどは存在しなかった。否、絶対勝てないと悟っていた。相手は肉塊の化物。人間の様に明確な弱点は見当たらず、ぶよぶよとしたその皮膚が刃を通す保証もない。それでもディアは三人を守るために戦わなければならなかった。例えそれが今後ろで喚いているだけの大人たちを助ける事になったとしても。
「やらなきゃ、どうせ死ぬ…!」
ディアは思い切って疾走した。剣を構え、咆哮を上げながら肉塊の化物へと切りかかる。しかし、ディアの視界は一瞬で暗転した。そして背中に走った鈍い痛みで意識を取り戻す。
「かはっ…ッ!」
何が起きたのかまるでわからなかった。だが背中と腹に走る鈍い痛みが迎撃されたのだと教えてくれる。まるで飛んでる羽虫でも払うかのように簡単に弾かれた。口から吐き出した血と焼ける様な喉の感覚、肋骨が折れ、全身に痛みが渋滞し、ディアの感覚を麻痺させる。そのたった一撃でディアはもう一歩も動くことすら出来なかった。全身から力が抜けていく。震える指先はもう剣も掴めず。ただ化物たちがゆっくりとカリーナ達へと這って行くの見ている事しかできなかった。
「…めろ…や…めろ…」
化物はカリーナを影で覆えるほど近づくとジィっとその身体を舐めまわす様に眺めていた。数十もある瞳に見られ、恐怖と不理解でカリーナの頭はパンクしてしまう。震える足はもう動かず、じわっと、腹の下が濡れた。目から零れた涙は留まることは知らず、涙腺は焼き切れたかのように壊れ、留まる事を知らない。カニスだったものが目の前にいる。それだけで頭が可笑しくなってしまうのに、人知の及ばないその見た目にカリーナは更に言葉を失った。
『―リィナアア?』
化物は喋った。ズズ‥と肉体を大きく揺らすと肉塊の下から伸びたミミズの様な触手が口を開いて喋り始めたのだ。
『カあああリーィアアア、カァァアリィイナアア!』
鼻を翳める血の匂い。死の恐怖とカニスへの恐怖に頭の中は既にパニック状態で何も館得ることは出来なかった。
「ひいっ…」
『おぉいいでえぇええ、おおおいいいでええ、いひ、いひ』
「――――っ!」
カリーナは声にならない悲鳴を上げるとその場から逃げ去ろうとする。本能的に動いた肉体が最後の逃避だった。だが、肉塊は彼女と融合したい一心でその腕を伸ばす。ドカンッと強烈な発破音と共に地面が大きく抉れ、砂埃が舞う。その腕が力加減無しにカリーナを掴もうとすれば彼女の肉体など簡単に潰してしまうのは明白だった。
「カ.リーナ…! 逃げろっ…!」
ディアは精一杯叫んだ。剣を使い無理矢理身体を引きずり降ろしながら、何としてでも彼女を守りたいと思った。どうにかする術を、どうにかなる方法を…頭を必死に巡らせながら、対抗する術を練るが、肉塊はそんな時間を与えてくれはしない。
「きゃっ…!」
カリーナは不運にも足を縺れさせ、その場に倒れ込む。周りの大人へと助けを求めて手を伸ばすが、誰一人彼女を助けようとはしなかった。それどころか口々に「あっちへ行け!」「こっちに来ないで!」と彼女が狙われている事を良い事に離れて行ってしまう。何処にも逃げる場所など無いというのに。そしてそんなカリーナが絶望に浸る間も無く、再び影が覆い被さった。
『つううかまぇええあああ』
狂喜乱舞する恐ろしい声が響き、カリーナに勢いよくその手が伸ばされる。
「カリーナッ‼」
ディアは叫んだ。しかし間に合わない。彼女を襲う腕は最早眼前に迫り、その腕は今まさに彼女を掴まんとしていた。カリーナは死を悟り目を閉じる。その瞬間、どしゃっ、と何かが潰れる音だけが鳴り響いた。
「………?」
カリーナは何時までもやって来ない痛みと死の影に疑問を持ち恐る恐る目を開けた。
「え?」
辺りを見回すと両者の間には僅かな隙間ができていた。誰かが彼女を庇いその身を挺して守ったのだ。だがそれは
「モニ…カ…?」
次回で一章終了です。