ねこ おん ざろーど
「猫を棄てる」
私は呟いた。語ることは何もない。ただ、棄てるだけだ。あの子の好きなおやつでケージの中に誘き入れ、私は猫を棄てに行く。
車の後部座席にケージを載せ、運転席に座ると、背後から切なそうな鳴き声がした。繰り返し、繰り返し。
あの子は、もしかして私がこれからしようとしていることを分かっているのだろうか。それならば、随分と哀れだ。私はそんなことを思った。
私は車を発進させる。そして、閑静な夜の住宅街を抜けると山道へと向かう。
丑三つ時、私は山の中腹で車を停めた。いや、これは私のこじつけだ。なんとなく胸に残る嫌な感覚、それを時間帯のせいにしようとしている。実際には時計を持っていなかったので何時かは全く判断がつかなかった。とにかく、新月の日の深夜だ。
私は時計も携帯も免許証も持ってきていなかった。あの子が、手掛かりを辿って戻ってきてしまうのではないか、そんな予感があって、帰るための手がかりとなりそうなものを一切、持ってこれなかった。
車からケージを下ろすとその扉をそっと開ける。あの子はするりとケージから出てくる。私は猫を棄てる。
私は餌を、碗に盛ると、あの子の前に置く。一向に食べる様子はない。いつものようにツンと澄ました表情を浮かべている。ああ、なんて気高くて、そして、か弱い獣なのだろう。
私はじりじりと待ち続けた。喰らいつけ、喰らいつけ。心の中で念じる。その時の私はなんて醜い表情をしていたことだろう。
そして、あの子はちろりと舌を出すと餌を食べ始める。私はそろりそろりと離れる。こちらを気にしている様子はない。後ろ手で扉を開けると、私は素早く車に飛び乗った。
私は逃げるように車を発進させる。狡い言い方だ。逃げるようにじゃない。私は実際に逃げていた。
サイドミラーを見る。あの子の姿は写っていない。私はそのことに不覚にも安堵し、胸を撫で下ろし、山道を下っていった。私は逃げおおせたのだ。
それから、しばらく経った時、その日も新月であったから少なくとも月単位で時間は過ぎていたに違いない。私は用があって、再び、山道を通ることになった。
私は、猫を棄てた時の嫌な感情なんてすっかり忘れてしまっていたので鼻歌混じりで山道を走らせていた。すると、突然、何かにぶつかったような鈍い音がした。
顔が青ざめる。誰かを轢いてしまったのだろうか。私は車を停めると、慌てて降りる。私はその時、道の端に碗が転がっているのを見つける。
何故だか、私はそれがあの日の碗であることを瞬時に見極めた。表面が剥げかけたボロボロの碗は何か不吉の象徴のように思えた。
私は車の前方を確認する。人ではなかった。猫だ。あの子だ。またもや、私は直感的に悟る。今日はいやに頭の回転が早い。
あの子は、道の中央に倒れていた。薄汚れている。体格はそれほど変わっていなかった。ろくに家の外に出たこともなかった箱入り娘でも、猫には生まれながらの狩猟能力があるのだろう。そして見事に野生に帰り、生き抜いていた。
でも、それならば何故、私の車の前に飛び出して飛び出してきた? まさか、私を主人として識別したというのだろうか。猫が?
私はピクリとも動かない猫の死体から目を離すことが出来なかった。私は吸い寄せられるように手を伸ばす。まだ、暖かい。
もしかして、まだ生きているのではないか。それは恐ろしい予感だった。生きていたところで何が出来るのだろう。
体温は徐々に低下していく。それは死にゆく過程なのか、死後の過程なのか私には判別がつかなかった。私はただ、刻一刻と変化していく過程を掌で感じ続けた。
外気と体温が殆ど等しくなった瞬間、蝋燭の火が消えるように私の意識はふっと遠のいた。道の真ん中、私はあの子を抱え込むように倒れ込んだ。
私は夢を見た。暗闇の中にいる。辺りには甘ったるい匂いが充満していた。私はこの匂いを知っている。死の匂いだ。死んだ祖母の身体からも僅かにこの匂いがした。
けれども、今感じるにはそれよりもずっと濃い匂いだ。人によっては吐き気を催すかもしれない。しかし、私には心地よく感じられた。
脳の中枢を破壊するような麻薬のようにも思える蠱惑的な匂いだ。
例え、どんなにグロテスクに死を描いたとしても、例え、どんなに哀愁漂わせて死を演出したとしても、この匂いのおかげで死にはある種の親しみやすさが残る。ああ、私は死んでしまいたい。
それから、私は鳴き声を聞いた。切ない鳴き声、そのように感じたが私が勝手に解釈しているに過ぎない。私は段々と移動していく鳴き声を頼りに暗闇を歩いた。
私は最後にあの子を見つける。道の真ん中、横たわっている。死体だ。私はひどくショックを受けた。誰が、こんなことをしたというのだろう。他人事のふりして、私は自問自答する。
猫は道の真ん中で腐敗していく。度々、車がその上を通った。都合よく、誰もそのことに気が付かない。これは夢だ。
あの子はペーストになり、蒸発し、少し体積が減る。これは夢だ。
私は、目を覚ました。光が見える。私はふらふらと光に吸い寄せられていった。その瞬間、私は強い衝撃を感じる。私は、その時、初めて光が車のヘッドランプであることに気が付いた。
車の主は、停めたままの私の車の傍を通ると、走り去っていった。狭い道で車の横を無理やり通っていったものだから、互いに塗装がガリガリと削れていた。轢き逃げだ。
もしかしたら、私はずっとこうなのかもしれない。私はきっと路上の猫になる。私は最期の力を振り絞って、猫に手を伸ばした。手は虚空を切る。
「ニャー」
私は、猫の鳴き声を聞いた気がした。きっとこれは現実だ。