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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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死を想う

作者: 林谷囃子

死が怖い。

死とは人生の不可逆的な終わりであり、その先は何も分からない。

科学的に見れば生命活動の終焉であり、身体は物言わぬ骸と化す。

もし天国や輪廻転生が存在したり、この世が壮大なゲームやシミュレーターであって我々がプレイヤーなのだとしたら、その保証があるのならば死は怖くない。

しかしながら現状はそんなことがないわけで。

自分はそんな死が怖い。


それは自分のみならず、親族や友人のそれも同様だ。

例えば母。

もしもこの先母が亡くなったとして、もちろんそれは現状の科学力では不可避なのだが、もしも天国で再会できるという確約や、輪廻の先でまた会えるという確証が得られるのであれば喜んで送り出すが、もしもそれがあくまでもニューロンの活動による作用に過ぎず生命活動の停止によって喪われるのであれば、それは今生の別れに他ならない。

それはとても悲しいことだ。苦しいことだ。

現状において死は不可逆である。


自分にとって生きるとは、記憶が連続し続ける状態を指すのだと思う。

科学や現代文明に侵された自分の思考回路では、あくまでも記憶の連続性のみしか生命活動として定義できず、非科学的な概念を手放しに信用出来ない。

科学的観点において記憶が脳に宿っているのは常識だが、火葬や土葬といった現状の葬儀や、かつてのミイラなどといった葬り方では、有機物である脳は喪われる。

もし死後にも脳が失われる最後の瞬間まで感覚が残り続けるのだとすれば、手足はかじかみ、息は詰まり、何も見えず、耳鳴りが続き、そして外界を何も感じられぬまま脳の死後硬直とともに記憶が崩壊するさまを感じさせられるのだろう。

そして土葬であれば脳がバクテリアの作用により腐り溶け切るまで自我が侵される恐怖に震え、火葬であれば脳が硬直こそすれ健全に残った状態で業火に放り込まれる想像も出来ぬ痛みに燃やされ、ミイラであれば鼻筋から脳を吸い取られる際の脳細胞の崩壊を感じながら吸い出される惨さに怯えるしかない。

自分はそのいずれも体験したくない。

もし天国や輪廻転生が存在したとしても、そのような苦痛に悶えるくらいならどんな外法を使ってでも記憶を記録し続けたい。

不死になりたい。あるいは電脳化してでも生き延びたい。


聞くところによれば、米国には死後に脳を保存できる施設があると聞く。

そこに脳を預けるのもかなり選択肢として大いに有りだと思うほどには死にたくない。

倫理などなりふり構っていられない。

死を想うと、怖くて苦しくなる。


この苦しみを克服する日は、果たして訪れるのだろうか。

こうしてエッセイに書き出して何が変わるかも分からない。

だが、少しでも明日の自分の心が晴れれば幸いだ。

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