不穏な領地見学(前編)
「本日はアネット様に領地の見学をしていただきます」
レクバートさんが言い出したのは、ちょうど朝食を終えたころだった。
「見学……そうですね、昨日はまっすぐこのお屋敷に来ちゃいましたし」
視察というよりも見学になる。何しろまだ私は全然この土地のことを知らなかった。
国境沿いの故郷からほぼ出たことがない私からすると、ミドスは随分環境の違う土地だ。多分こっちの方がいくらか柔軟な文化を持っている。というのも我が家のような辺境領にとって「外国」とは常にどこかでは警戒すべきものなのに対して、内地にその心配はない。その分「外」の文化を楽しんだり理解して愛でる余裕がある……というわけだ。
「再三の説明にはなりますが、領民たちはリュカ様の件について何も知りません。姿を見せない謎の新領主です。ですので、その奥方となられるアネット様にも好奇の目が向くのは当然のこと……そこで申し訳ないのですが、ここはお忍びで回っていただくことになります」
「なるほど。わかりました、大丈夫です」
市井に出るのは正直慣れている。もちろん良家の子女がむやみやたらに外に出ないという暗黙の風潮があるのは知っているけれど、うちの場合は話が別だ。むしろ私を始めとする家族が出向かなければ領内の問題も見えてこないし、解決もしない——そんな状態だったから。
「ごめんねアネット、本当なら盛大にお披露目の式とかしてあげたかったんだけど」
「……お気遣いなく」
「敬語に戻らないでよ、よそよそしいな」
冷たくされると僕ショックだよ? なんて言ってくるリュカは相変わらずの様子だ。ちなみに彼は私の席の向かいに置かれた額縁に今は収まっているわけだけれど、なんだか遺影を前に食事してるみたいでなんとも居心地が悪かった。
(早く慣れたいけど……慣れられるのかしら、これ……)
これは明日も明後日も繰り返されるもの、日常になるもの。そう思うとしっくりしない奇妙な現実も少し受け入れられ……ているのかは自分でも微妙だけど、とりあえず直視はできるようになった。
「まあ……身分がばれてない方が自然な暮らしが見られるでしょうし。ある意味好都合かなって思ってるから、気に病まないで」
「ふぅん……確かに、一理ある。抜き打ちってやつだね」
リュカはうんうんと頷いて、それから心底残念そうに俯いた。
「僕も行きたかったなぁ」
「え?」
あからさまに調子が沈んだ彼に困惑してレクバートさんを見ると、苦笑が返ってきた。
「お忍びということもありますし、何よりリュカ様はこの屋敷を出られませんからね。行くのは最小人数です」
「出られない……?その額縁持っていけば大丈夫そうなものですけど……」
「それはそうなんだけど、逆に言えば逃げ場がないんだよ」
リュカが絵の中から額縁をコンコンと叩いた。
「今は道……というか他の額縁と繋がってるんだけど、外に出るとそれがなくなる。もれなくこの額縁がそのまま命綱になりかねないからさ」
「さらっと言ってるけどものすごく大変なことなんじゃそれ……」
「ええ、そうですね。この屋敷に来るときもそれはそれは大変でした。ですから、今日の見学ではリュカ様はお留守番です」
改めてレクバートさんがそう言うと、リュカはふてくされたように頬杖をついた。王子様でしょ、ちょっと。
「それじゃ、私の道案内は誰が……じゃない、どなたが?」
「侍女のメリル・ルーをつけます。アネット様とは朝の支度で既に顔を合わせたかと思いますが」
「ああ、彼女……」
私は挙げられた名前を持つこの屋敷の使用人を記憶から探り当てた。というか、探るまではしなくても比較的頭の新しい部分にある記憶だ。今朝、堂々部屋に侵入してきたリュカの奔放ぶりにほとほと困らせられた後に私の部屋を訪ねてきた少女。特に私付きの侍女になったのだと言う彼女は年の頃も近くて、なかなか親しみやすかった。
(…このお屋敷、けっこう若い人が多いわよね)
前ミドス公のときの使用人は結構な人数解雇してしまったらしいとは風の噂で聞いている。そして少数精鋭のように今の体制を整えていることも。ここに来る前は何が水面下で行われているのかと警戒してしまっていたけれど、今ならわかる。リュカの絵画化というトップシークレットかつ突飛な現状を、柔軟性を以って受け入れられる人材を少数持つのが方針として最善だったんだろう。結果としてあまり緊張しすぎずに済んでいるので、私にとっては悪くない話だ。
「メリルの故郷の人間、という体で巡っていただければそう問題は発生しないかと存じます。そこまで余所者に過敏な風土でもありませんから」
「つまり、友人に新天地を案内してもらっているような……そんな調子で振る舞うってことですか?」
「はい、そうなります。メリルはうちの人間の中でも飛び抜けて流行に敏感で人当たりもいい娘ですから、ぜひなんでも聞いてやってください」
「あ、それは楽しみ……」
素直に楽しみだ。どういう文化があるのか、流通しているものや気候について……知っておくべきことは山ほどある。純粋な興味もあるし、道案内役とそういう話がしやすいとなるととてもありがたい。
「護衛については少し離れた位置から同行させることになります。仰々しいですからね」
「大丈夫です、わかりました」
もうちょっと不安がるべきだったかな? とは思ったけれど、実際そこまでの恐怖はなかった。ミドスは都市部と田園地帯とのちょうど中間のような穏やかな土地だ。うちの実家みたいにごつい私兵が闊歩していたり、定期的に流血沙汰の喧嘩になるなんてことはないはず。そう考えると……うん。真っ当な深窓のお嬢様でなくて本当に申し訳ない。
と、そこで未だ頬杖をついたままのリュカが首を傾けた。
「聞きたいんだけど、どこを回るつもりなの?」
「そうですね、農耕地、住宅街、せっかくですから市の様子も——」
「北の森にも行くの?」
「……ええ、そのつもりでしたが」
会話から何か不穏なものを感じて、私は怪訝に思った。額縁に収められたキャンバスに視線を向ければ、あまり気乗りしない表情がそこにはある。
「あの辺り暗いし、アネットにはあまり向かないと思う」
「暗いって……」
「ついでに言えばお化けが出るなんて噂もあるけど」
「お化けっ!?」
反射的に身を引いたら椅子ががたんと揺れて、危うく後ろに倒れそうになる。なんとか耐えたけど。そうしたらくすりと笑い声が聞こえて、リュカが油絵の具の髪の毛を揺らした。
「ふふ、予想通りの反応だ」
「人の反応で遊ばないで」
「ごめんね、あのタルシラート家の人間がじつは怪談話に弱いなんて面白い話聞いちゃったものだから」
「……ああもう、話さなきゃよかった……」
遅かれ早かればれてた気はするけど。
令嬢らしからぬ私と同じように、リュカもまた王子様らしいかと言われると疑問が残る性格だ。雄々しくもなく貴公子然ともしていない。中身が。
大きなため息と恨みのこもった視線を彼に向けていると、これまたレクバートさんの苦笑が聞こえる。
「大丈夫ですよアネット様、ちゃんと街道も整備されていますし今は昼間です。おおまかには王都の方へ向かう道中ですし、そうおどろおどろしい雰囲気はないかと」
え、そうなの?
確認の意味で首を傾げると頷きが帰ってきた。事実らしい。リュカめ、本当にからかうためにいい加減なことを言ったわね。
そう言ってもらえると少し肩の力が抜ける気がして、私はほっと息を吐く。けれどリュカは不満そうだった。
「是が非でもアネットをそっちに連れてくんだね」
「領主様の妻になられるお方です。隅々まで見せておくのは当然のことでは?」
「……」
まだどこか渋い顔をしていたものの、リュカはそれ以上強く文句をつけなかった。その代わり頬杖を解いて、額縁の中から私を呼んだ。
「アネット」
何? と問うより先に彼が目を細める。
「気をつけてね」
発された警告について結局彼はそれ以上説明してくれなかったけれど、私にはそれもからかいの一つだとはどうしても思えなかった。
……私の婚約者殿は本当に、読めない。