ミドスの朝
チチチチチ、チュンチュン。
鳥の鳴く声がする。まぶた越しに射し込む光。日が昇った証拠だ。
「……ん……えっと今何時……」
というかこの鳥の声聞きなれないな——なんて思いながら目を開ける。
知らない天井……ではないけれど、慣れない天井。ゆっくり身体を起こすとこれまた慣れない内装が目に入って、ああここは実家じゃないんだって実感した。
(……私の家、ではあるんだろうけど)
ではある、というかそうなったんだけど。
未だに人の屋敷って感覚が抜けなくて、私はなんとも言えない気持ちになった。
もしかして、こういうのをホームシックって言うんだろうか。考えてみれば馴染みの人なんて誰もこの屋敷にはいない。私はほとんど身ひとつでここに来て、それでそのまま滞在している。
リュカの事情を考えれば、新しく加わる人間は少ない方がいいんだろう。
あと、私の家は色々特殊なので、侍従を連れてくるって言ってもここの人たちと馴染めるかどうかはまた別に問題となったりする。別に私も一人で身の回りのことができないわけじゃないし、だから「一人で」と指定されたこの奇妙な呼び出しにも大して引っかかることなく応じた。
……けど、それはそれ、これはこれ。
(早く慣れないとな)
いつまでも寂しいなんて言ってられない。兄さんにも笑われてしまう。それはとても悔しいので、私はぱちんと頰を両手で叩いて気合を入れた。
「よし、頑張るぞ……!」
「お、気合十分? さすがアネットって感じだね」
「ってリュカぁぁああああああ!?」
背後からいきなり声がして思い切り仰け反った。
「不意打ちは駄目って散々言い聞かせたよね……!?」
「あはは、起きてたから大丈夫かなって思って」
「何も大丈夫じゃない。っていうかまたそんなところから出てきて……っ」
ベッドの枕側にかけられた小さな額縁。そこには確か綺麗な花が描かれていたはずだ。今は見事に頬杖をつくリュカの横に避けられてるけど。
「それに今日はまだ私ドア開けてな……待って。もしかしてリュカにドアって無意味?」
「あっ」
「あっじゃない! ほんとに無意味なのね!?」
ぺろっと小さく舌を出して、リュカは悪戯っぽく笑った。
「あはは、二日目にしてバレちゃった。まあ元々この部屋ひとつなわけだし、許して?」
「どういう理屈、それ」
「だって夫婦になったら同じ寝室だよ、アネット」
「……はあ」
思わずため息を漏らしてしまった。不敬かと思ったけれどリュカは特に動じない。なんというか、昨夜の言葉通り本当に実家と同じような感覚で接して良さそうだ。
リュカの言うことはもっともだけど、私たちの場合は普通の婚約者のようにもいかない。もとい、私の悩んでるところはそこじゃなくて。
「ごめんね、この状態じゃ添い寝もしてやれないんだけど」
「むしろ私はいつ何時どこから出てくるかわからなくなることの方を警戒してるので結構です。たった今部屋分かれてても関係ないってわかったけど」
「つれないなあ」
不満げである。不意打ちをやめてくれさえすればこっちだってもう少し優しく対応するっての。問題はそこなのだ。あと、今は特に私、寝起きだし。身支度も整えてないし……。
「あれ、そういえば……」
ふと気になったことがあって、私はまじまじと額縁を見た。
「リュカ、貴方着替えられるの?」
「え、流石に何日も同じ服は着ないよ?」
昨日とは上着の色もシャツも違う。それが不思議で聞いたらリュカの方が驚いたような顔をして、私にそう返した。数秒経ってよく考え直してから私の想像していたところを理解したらしい彼は、何故か耳を赤くして首を振る。
「待って、僕ってそんな身嗜みのなってない奴に見えてた?不潔っぽい?」
「や、そうじゃなくて……単に絵の中に服なんて持込めないでしょうってだけなんだけど」
「あ……なんだそういうことか。”実物の”服は確かに持ち込めないけど、”絵画の”服は話が別だよ」
何かほっとしたようにリュカは息を吐いて、襟を正した。
「僕だって着たきりは嫌だもの。それに絵に閉じ込められた時は思い切り夜着だったし、とりあえずこの魔法の仕組みが分かってすぐに服の絵を頼んだよね」
「服の絵……」
「そう。ようは僕が移動する先の絵にモノが有ればいいんだよ」
彼が除けていた花瓶から白い八重の花を抜き出してこちらに向ける。もちろん、キャンバス越しに花はこちらに現れたりなんかしない。
「花瓶の花を替えたくなったら言って?……なーんて」
リュカはそのまま私の目の前の額縁から消えた。消えた方へと彼を追いかけてベッドを降りれば、今度は衣裳箪笥の上にかかった絵の果物籠に彼の手が伸びてくる。そうして籠に花を挿して、彼はにっこり笑った。
「……こんな具合にさ。僕が絵を好き勝手するのは自由なんだ」
「あぁ……案外自由度高いってわかってちょっと安心したけど、名だたる名画に悪戯とかしないでよ」
彼ならしかねない。私がじとっと見ると、リュカは口を尖らせて目を逸らした。
「……」
「待った。まさか……した後なの?」
「ちゃんと戻したよ。父上にもヴァルにも怒られたからね」
「ヴァルってもしかしてヴァルサス殿下のこと?その面々ってことはお城でやらかしたの?」
「……まぁ」
微妙に言葉を濁された。となると間違いない。
話に上ったヴァルサス殿下と言うのは彼の兄、つまり王太子殿下の名前で——次期王、白壁の荘厳なお城に住まうやんごとなきお方。一応そのうち私の義兄になるわけだけど、まだちょっとそんな想像ができていない。
(リュカも王子って意味じゃ私の想像の及ばないぐらいすごい人って思ってたけど……実際はなんというか、ねえ)
よく言えばすぐ馴染め、悪く言えば王子らしからぬリュカ。出会って二日目にして、既に兄さんの尻を叩いて領地運営を回していたころとなんら変わりない感覚だった。
「おかげでこの屋敷には僕が扱うことを前提とした絵しか置いてないよ」
「思いっ切り信用失くしたんじゃない……でもそうなんだ」
屋敷じゅう絵画だらけというのはそれだけでもなかなかに異常ではあるけど、つい暮らす上で緊張してしまうのはその異常さからではなくて……うっかり汚さないか、傷をつけないかっていう心配のせいだった。
我が家は稽古後や戦帰りの父や兄やその仲間たちがうろうろするためにそういう繊細なものは置けなくなっている。例えば古い甲冑は酔った兄が着ようとしてせっかくのセッティングが崩壊……という具合に、とにかく向かないのだ。
「あー、そうそう、だから服とか装飾品はどうにかなるんだけど……食べ物だけはどうにも上手くいかないんだよね」
「食べ物……それ?」
果物籠から赤い果実をひとつ取って、おもむろにリュカは歯を立てようとした。
——カッ、というおよそ果実からはしない音。
「やっぱ無理」
口から果実を離して、カチカチ歯を噛み合わせるリュカは眉を寄せていた。確かに彼は果実に齧り付こうとしたはずなのに。
「……果物なのに…食べられないほど固いの?」
「うん。ついでに言えば味もしないよ。あのさ、アネット。よく考えたら鳥の絵は飛ばないんだ」
「そりゃ飛ばないでしょう……あ、そっか……実物じゃないんだ、リュカ以外は」
「そういうこと」
困り顔で彼は肩を竦めた。つまり、全部偽物。花や服はその見た目さえ合っていれば役割を充分果たせるけど、食べ物はそうじゃない。
「お腹空かないの?」
「空かないね、全然。おかげでどうにかやってるけど、元に戻ったらとりあえずご飯が食べたいな」
「……」
リュカの口から「元に戻ったら」という言葉が出たのを聞いたのはここに来て初めてだった。どこか受け入れているようにさえ見えていた彼だけれど、やっぱりその気持ちはあるのだ。
「……じゃあ、戻れたら一緒に食事しましょう。今のままじゃ私、額縁を見つめながら一人寂しく食事する奥方様になっちゃう」
冗談めかして笑うと、リュカが目を丸くする。
それから目尻を下げて、心底困ったみたいにこんなことを言い出したのだった。
「アネット……困ったな、絵の中じゃなきゃ今すぐ抱きしめてキスしてたんだけど」
「そっ……それはまだ早い!!」
思わず後退ってから、私は心底彼が絵の中に居てくれてよかったと思った。神出鬼没、突飛なリュカの行動に……生身でついていける気は、ちょっとまだしなかった。