おしまいのそのあと
春の明るい青空の下。
キャンバスに筆で幾度も黄色を走らせてから、私は大仰にため息をついた。
というのも、今まさにモデルになってもらっている相手が少し目を離した隙にうとうとしているのを発見してしまったからである。
今日はこれで何度目になるだろう。
はじめは起こしていたものの、ここまで続くと何か描く気が削がれる方に行く。
私は諦めて、パレットと筆をテーブルに置いた。
そのまま片付けを始めようとしていると、居眠り中だったリュカが顔を上げる。
「あれ……また寝てた?」
「また寝てたわ」
まだ少しぼんやりした調子。庭を吹き抜ける微風がリュカの前髪を揺らして、彼はそれがくすぐったそうにしていた。
「アネット、描くのやめちゃうの? それとも描き終わったの?」
「もう今日はおしまい。だって貴方、どうせまたすぐうたた寝するじゃない。昨日眠れなかったの?」
「うーん、そういうわけじゃないけど……」
暖かい春の日の午後はどうしたって眠くなってしまう、とリュカは言い訳した。
別にそこまで腹を立てているわけではなかったけれど、ちょっとだけ怒った顔で彼を見る。
「なんなら寝てるところを描くことにしたっていいのよ。そっちの方が早そう」
「勘弁してよ、それ残るんでしょ。恥ずかしい」
「ならその眠気が覚めるまで描けないわね」
「……ごめんなさい」
しゅんと項垂れたリュカを見て、甘やかしては駄目だと思いつつも罪悪感を刺激される。
どのあたりで折り合いをつけようかと思っていると、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
「ふふ、ではコーヒーなんていかがでしょう?」
「メリル!」
かけられた声の主にすぐ気づいて、私は半分振り返った。
差し入れのつもりだろうか、ポットやクッキーを乗せたワゴンを押して歩いてくるのはメリルだった。
彼女がエレーヌに操られて私を襲い、屋敷が火事になり、リュカが元に戻って、怒涛の勢いで事の全貌が明らかになって――あの出来事からひと月。
失った屋敷を建て直すのにはまだ時間がかかるけれど、お披露目のために開いたあのパーティー(一応名目上は災難に遭った私たちを元気づけるためのもの)で思わぬ幸運があった。
アヴァルに別宅を持つ伯爵から、まさにその別宅をしばらく借り受けることができたのだ。
ミドスとアヴァルを隔てる森が「魔の森」と呼ばれてトラブルを引き起こしていたのは、エレーヌがアヴァルに身を潜めていたことが原因。彼女が捕まり、その魔法が失われた森には今や何の問題もなく、リュカはこれまで顔を出せなかったぶんもと頻繁に二つの土地を行き来している。
「眠気覚ましにも、疲労回復の妙薬になるとも言いますから。どうです? リュカ様」
「ああ、貰うよ。ありがとう」
リュカがメリルの淹れたコーヒーを受け取るのを見ながら、私はすっかり何もかもが解決したことをまた実感した。
リュカが絵のままだったら、こうして何かを飲んだり食べたりすることはできなかった。
いつだか食事ができないと彼が漏らしていたのを覚えている私は、一緒に何かを食べるたびにそれを考える。
メリルはあの事件以降、しばらく休養をとっていた。だから再会できたときは本当に安心して――メリルも無意識のうちに私を襲ってしまったことを聞いてとても心配してくれていたらしい――二人でしばらく抱き合ったぐらい。
「どうぞ、アネット様」
「ありがとう、メリル。……貴女がここについて来てくれて本当に嬉しい」
「えっ。と、突然なんですか?」
彼女が私たちの近くに残ってくれて、本当によかった。私はそう思っている。私たちに近しいところで今回の件を見て来たのは、やっぱり彼女だから。
「メリルからしたらとても驚いたでしょう? 気が付いたらお屋敷がなくなってて、お引越しだなんて」
「まあ……そうですね。それに、レクバートさんが急に王都の方に行かれてしまったことも。まったく、一言ぐらい事前に言っておいてくれてもいいのに」
膨れるメリルに、私は何も言えず笑んだ。リュカを見ると、彼は黙って肩を竦めた。
今回の件の主犯が誰であったのか、私は結局メリルに直接告げることはできなかった。どうしても、できなかった。
「あ、でもこの間書いた手紙の返事、もう来たんですよ。まめですよね」
「……何て?」
「私には難しい言葉もたくさんだったんですけど、でも元気ですって伝えたいのはわかりましたよ」
メリルは楽しそうだった。
文通。それを提案したのは、実はリュカだ。
本当に何も言わず去るつもりだったレクバートさんに、リュカは牢獄でも手紙ぐらいは書けるだろうと言ったらしい。
彼がメリルにその罪を自分で告白するのか、それとも本当に隠し通したままにするのか、せめてもうしばらく考えて欲しいと。
果たして、文通は続いている。
(……どうなるかはわからない、とは聞いてるけど)
一番恐れていたことは前にリュカがぼやいていたようにレクバートさんやエレーヌが問答無用で死罪に処されること。
だけど国内の有力者の一部派閥が噛んでいたと分かったこの件の処理は、思った以上に慎重に進められている。
例外的に文通を許可されたのはレクバートさんだけではない。
私はメリルと目を合わせて、そっと、さりげなく話題を逸らした。
「手紙と言えば、アンナからの手紙は城に転送してくれた?」
「はい、もちろん」
にっこりとメリルが笑って頷く。
アンナからエレーヌへの手紙。その取次ぎを、今私はやっている。リュカの提案がレクバートさんとメリルの間を取り持っているように、こちらは私の提案だ。
リュカも昔エレーヌを利用していた引け目があるからか、私の好きにさせてくれた。
もちろん他人の手紙を盗み見するようなことはしていないけれど、二人は結構頻繁にやり取りをしているようだから上手くやっているんじゃないだろうか。二人とも読み書きが達者なことも理由の一つかもしれない。
「人にばっかり構うよね」
少しばかり不機嫌そうな呟きが聞こえて、私はリュカを見た。額縁から出ても相変わらず頬杖をつく癖は抜けていないようで、たまに注意したりしている。
それと、すぐ拗ねるのも相変わらず。
「なに、リュカ。ついさっきまで貴方の絵を描いてたんじゃない。それとも、寝ないでモデルする気が湧いてきた?」
「……まあ、ちょっとは?」
口を尖らせてそんなことを言いながらも、彼はちゃんとポーズを取ってくれる。
それが単純に思えて、私はくすりと笑った。
「それじゃ、作業を再開しようかしら」
イーゼルとキャンバスをもう一度元の位置に直し、筆を取る。
メリルが描きかけの絵を覗き込んできて歓声を上げた。
「わ、流石アネット様です。すごい……私には絶対描けない」
「そう? 良かったら今度教えてあげるわ」
「アネット、あのさ」
半ば被せるようにリュカが私を呼ぶ。
「どうかした?」
「視察とか書かないといけない仕事とかひと段落ついたから、明日お休みにできるよ」
「……急に言うのやめなさいって」
「何する? それか、どこか遊びに行く?」
「どこか……ね。先に言っててくれたら考えておくのに」
「ふふふ、ごめんね」
悪戯っぽく彼が笑った。わざとだと思う。どう考えても確信犯の笑みだ。何度そういうところを咎めてもこれなのだから、もうどうしようもない。
しばらく考えて、私はちょっとした意趣返しを思いついた。
「じゃあ、遠駆けに付き合って。せっかくどこかに行くなら久しぶりに風を感じたいの」
「うん、いいよ。──待って?」
「いいって言ったわね、はい決定」
「ちょっ、待ってよアネット。僕かれこれ三年半くらい乗ってないんだけど」
「貴方ならいけるわよ」
「冗談でしょ?」
わかりやすくリュカが慌てた。目論見通りである。私も少し間が空いているけれど、リュカに比べたらかなり最近まで実家で馬に乗ったり体を動かしたりしていた。
ほくそ笑む私と、諦めて肩を落とすリュカ。
どうやら珍しく仕返しがうまく決まったみたいだ。
「……君の前で恥かくことにならないことを目指すよ。しくじっても失望しないでね?」
「さあ、どうでしょうね」
それでも結局彼は器用にやるんだろう。そう思った。悔しいけど、そういう夫だ。
穏やかな午後、奇妙な出会いと紆余曲折の末になんでもない時間を手に入れた私たちはどちらからともなく微笑み合う。
キャンバスの中の彼の姿は、もう動かない。