幕引き
彼らは私の黒歴史を知っている。
私がすっかり青ざめるのに数秒もかからなかった。
「断られた者たち、その中にはもちろん私たちも含まれていた」
「あの……殺してください……」
「悪いが、この国じゃダンスの誘いを断るぐらいでは罪にならない」
穴があったら入りたい。
十年以上前、六歳のあの日。家族で出席することになったあのパーティーが、私にとって初めての社交界だった。
初めてということは、やらかす可能性も十分にあるわけで。
人見知りを発動した私は、知らない相手の誘ってくるダンスを断固として拒んだのだ。
『おにいさまより弱いヒトとは踊りたくない』と言って――。
武勲に優れたタルシラート家、その長男である我が兄オッドは幼少期から将来の将軍かと目される人間だった。つまり、どだい無理な話である。
そうでなくても相手の面子を潰す行為だ。
私が深く深く深く反省してとても人前に出られないと恥じるようになったのは、この黒歴史のせいに他ならない。
「でも僕、それなりに腕に覚えはあったんだよ」
「だろうな。リュカは昔から私より才能があった」
「で、むっとして弱くないって言い返したらアネットは言ったんだ。『おにいさまを倒してからにして』って」
言っ……た、かも、しれない。よく覚えていない。
あのときの私は緊張の方が先にきてとにかく帰りたかったし、知らない男の子たちにむやみに絡まれたくもなかった。だから、追い払うためにそんなことを口走っていたとしても驚きはない。
それを今思い返して私が耐えられるかは別の問題なんだけど。
「……無理。早く忘れて」
「ええーっ」
小刻みに何度も首を振る私に、リュカは不満そうな声を上げる。
察して忘れてくれるっていう気遣いはないんですかね。恨み言をぶつけようとしたら、彼は思いもよらない不服の理由をぼやいた。
「僕ちゃんとそのあと勝てるようになったんだよ? 何年かかかったけど」
「……えっ、勝ったの? 貴方が? あの人に?」
兄と会っている、ということも驚きなんだけど。さらにリュカが勝った経験があるということがにわかには信じられなかった。
別に兄の強さが絶対だとは思っていないものの、あちこちで勝利をもぎ取って帰ってくる姿ばかり見てきたからそれは意外だ。
「疑うんなら今度君の前でやってみせるよ。ブランクはあるけど、そこまで鈍ったつもりはない」
「驚いた……すごいのね、リュカ」
褒めると、素直に彼は照れ臭そうな顔をした。
「認めてもらえたならいいんだけど」
「でも、私と会ったのはそれきりでしょう? 私、あれきり社交の場に出づらくなっちゃっていたもの」
「僕だって公の場に出るなって言われることが多くなって出てないよ。……君のお父上や、君の故郷に出入りする人間から噂は聞いていたけど」
「噂?」
「少し変わったご令嬢がいるって話」
「……」
何故リュカが私のことを以前から知っているのかという謎は解けたけれど、何故それらの情報から好意を持ってくれたのかがわからなくなってきた。
間違いなく印象としてはマイナスなことばかりでしょうに。
「君のそういう話を聞いてると楽しかったんだよ」
「……複雑なんだけど」
「皮肉じゃないって。元々僕は不自由な立場だったから、君のそういう型から外れたようなところに惹かれた。いつかもう一度会いたいと思ってたんだ」
もう隠すのも無駄だと思ったのか、リュカは観念したように自分から全てを語った。
ずっと隠し事をされていると思って感じていた彼との間の薄靄のような疎外感は、こんなにもあっさりと晴れる。
ふふ、とヴァルサスさまが楽しそうに笑う。
「ということは……私の推測は正しかったようだな。策略も呪いも利用してしまうとは、我が弟ながら末恐ろしい」
「変に警戒しないでよ、ヴァル。僕はこのまま平穏無事に過ごせればそれでいいんだ。欲しかったものもようやく手に入ったことだし」
リュカが私の手を握った。ふと見上げたその目はじっと私を見つめていて、急に気恥ずかしくなる。
彼の言わんとすることがわからないほど鈍くはない。
「……そ、そういえばそろそろ皆さん入ってくるんじゃないかしら」
「露骨に話を逸らすじゃないか」
視線を外すと、リュカが私の手の甲を軽くつねった。不服なのはわかる。わかるけども。
「違うのよ、その、まだ立体の貴方に慣れないというか」
「何それ」
彼とは長らく隔てられた状態で接してきた。
それはもどかしくもあったけれど、ある意味安心感のある関係だったのだ。ミドスに来る道中は色々考えたりしたけれど……結局この数ヶ月私たちは会話だけの関係だった。
その上、リュカの今後をどうするかという問題が転がっていたおかげでその話ばかり優先していたのである。
「あーあ。せっかく元に戻れたのに、まだ先は長そうだ」
「いいんじゃないか。もう何に阻まれることもないだろう。時間もたくさんある」
「まあ……そっか」
リュカにはだいぶ余裕があるみたいで、少し悔しい。思えば、私はずっと振り回される側だった。
ヴァルサスさまが立ち上がる。
「さて、私は少し会の支度の様子を見てくることにするよ。ゲストの皆様がどの程度集まっているかも気になるしな」
「あら、でしたら私も」
「えっ、お二人とも……」
続くようにルイーズさまも立つものだから、私はすぐにここにリュカと二人で残されることを悟って声を上げた。
とはいえ、引きとめるのに良い言葉が浮かばない時点で拒否権はない。
「二人は二人で会が始まるまで好きにしていなさい。今日の主役なのだから、気後れすることはない」
柔和に笑うと、「また後ほど」と言い残してヴァルサスさまとルイーズさまは本当に扉を開けて行ってしまった。
残された私たちに、なんとも言えない空気が流れる。
「……出ていかれちゃったけど?」
「出ていかれちゃったわね……」
どう考えてもこれが狙いで二人が去ったのは確かだ。
元に戻って以降、二人きりで話す機会がまだなかった私たちにその時間を設けてくれたに違いない。
(助かるやら、恨めしいやら)
先送りしてもいずれぶつかる問題ではある。
私からかける言葉は浮かばなくて黙っていると、リュカが苦笑した。
「気の利く人たちでしょ。どっちも敵に回したくはないけど」
「そうね、特に良くしてくださってるし。……って、ルイーズさまもなの?」
「どっちもって言ったんだ。さっきは僕のことを一方的に言ってきたけど、ヴァルたちにも思惑がなかったわけじゃないよ」
リュカはさっきまで自分の兄が座っていた席を見た。
「王太子と言っても実際に王になるまでその地位は確実じゃない。僕が絵のままなら僕が後継争いから確実に消えるし、犯人が明らかになればマルクを推す一派の勢いを大幅に削ぐことができる――どっちに転んでも二人は損をしないんだ」
「それ、ヴァルサスさまたちは最初から黒幕がわかってて黙ってたみたいじゃない」
仮にも実兄に対して、それこそ人聞きの悪い言い回しじゃないだろうか。咎める気持ちで彼を見たけれど、彼は特に悪びれなかった。
「自分のところの支持者の暴走じゃないことは調べればわかるでしょ。嫌だよねほんと、後継者争いって。そういう立ち回りが得意だから、僕はもうヴァルが素直に継げばいいと思うんだけど」
リュカがため息をつく。嘘ではなく心底うんざりしているのが伝わってきて、私は彼の言ったこともあながち悪意ある受け取り方でもないのかもしれないと思い直した。
「……結局、誰が誰の手のひらの上で踊らされてたのかしら」
「さてね」
実家を出てからそう長い年月が経ったわけじゃないのに、長い年月をぎゅっと凝縮したんじゃないかってぐらいたくさんのことがあった。
それら全てが過去も含めて複雑に絡まっていて、全てを一本の糸のように解き明かすことはひどく難しそうだ。
もっとも、リュカはもう済んだことは気にしないでいいって言いそうな感じだけど。
「ねえ、アネット」
気がつくと、また目が合っている。
「まだしばらく慣れられそうにない?」
彼はもう絵画の中にはいない。
現実の、私の目の前にいる。それも、今だけの奇跡じゃなくて――これからずっと。
「……す、少しずつ慣れるわ」
「そっか、良かった」
強がって言ったら、リュカは嬉しそうに顔を綻ばせた。
私はきっと、彼のこういうところに弱い。
そっと私の頬に手を添えて、同意を求めるようにリュカが首を傾げる。覚悟を決めて目を瞑ると、彼がおかしそうに笑う気配がした。
婚約者が絵画だなんて奇妙なことになっていたせいで随分遠回りしたけれど、彼が絵画にならなければ今はない。
おとぎ話みたいに奇妙な始まり方をした私たちの関係は、まだまだずっと続いていく。自由人なリュカと付き合う限り、まず何も起こらない平凡な日々とはいかないだろう。
(でも、それも楽しそう……かもね)
少なくとも悪くはない、と思う。
そうして先の未来に想いを馳せながら、私たちはようやくの――けれど初めてのキスを交わした。
もうすぐ春が来る。
私が彼のもとを訪れてから、二つの季節が巡ろうとしていた。
これにて一旦お話は幕引きですが、土曜あたりに後日談的なものを投稿しようかと思っています。