一生に一度の賭け
燃えてゆく部屋の中、薄らいだ意識で覚えていることは少なかった。
ただ、誰かが私の体を揺らして、抱き上げたような――。
* * *
「……はっ」
目を開けると、知らない木の天井が視界いっぱいに広がっていた。
私の部屋じゃないし、実家でもない。
なんだかこんな風に気絶して知らない部屋に運ばれたことが前にもあったような。そう、それはちょうど私がミドスに来て、リュカと初めて会ったときのことだ。
(リュカ、そうだ……リュカは?)
意識がはっきりして、これまでの経緯を思い出すのと同時に背筋が冷える。ここはあの屋敷じゃない。ということは私は助かったのだろうけれど……。
飛び起きて辺りを見回そうとしたとき、声がかかった。
「僕ならここだよ」
リュカの声。それに引き寄せられるように私は視線を声のした方へ向けて――絶句した。
硬直した。そのぐらい驚いた。それはもう、初めて絵が喋る現場を見たときとちょうど同じくらいに。
「どう、思ったより元気そうで驚いた?」
「……あ……」
へらっと笑って手を振って見せるリュカが、そこにいた。
額縁ではなく、本物の窓枠に頬杖をついて。
「……あ、厚みが、ある……!?」
「うん、第一声がそれかい?」
さらりと流れる髪も、丁寧に筆で描きこんだような睫毛も、絵具でぼかしたような血色の良い肌も、見慣れてきていた。絵の中で。
それが今、現実のものとして――立体としての奥行きを伴って、そこにある。
苦笑するリュカに、私はベッドから降りて詰め寄った。
「真っ先に言いたくもなるわよ。本物なの? どうして? 貴方燃えたんじゃなかったの?」
「ええと、落ち着いてアネット。ほら、本物だってば」
彼は私の手を取って、自分の頬に触れさせた。握られた手の感覚は本物だった。
手のひらで包んだ頬は、ぬくもりのある滑らかな肌の感触がした。
「……ね? 顔料を塗ったキャンバスとは違うでしょ?」
「違う……。本当……本当に、貴方元の姿に戻ったのね」
「そうだよ。もう自由だ。やったね」
どこか軽い調子で言う彼はなるほど本物のリュカに違いなかった。こういう言葉遣いは彼からしか出ない。
「やったねって……確かに良かったけど。あのあと一体何がどうなってそうなったの?」
私はまだ混乱していた。
彼を助けようとして叶わなかった、と思っていた。なのに気づけば私は無事にベッドに寝かされていて、彼も無事にここに座っている。
リュカは私の手を放すと、窓の外を見た。とうに日は昇っていた。どうやらだいぶぐっすりと寝入ってしまっていたらしい。
「僕の本体が燃えただろ」
「そう……なんでしょうけど。でもあれが燃えたら貴方死ぬんじゃなかったの? 私、そうだと思って凄く焦ったのに」
「うん。実際五分五分だった」
彼はぱっと手を開いて、私に見せるように上げた。左手で五、右手で五。指で示した数字を交互にちらちら見ている。
「五分五分って……何が?」
「僕ごと灰になるか、魔法の要が壊れて僕が解放されるか。どっちに転ぶかの確率」
私も彼の左手と右手を見て、彼の言う意味を理解して息を呑んだ。五分五分で賭けるには大きすぎるチップじゃないだろうか。
「一世一代の賭けだった。本気でね。あの絵は僕にとって特別なものだっていう予感がしていたし、何かの手違いで傷つかないよう大事に守ってきた。万が一にもあれが生命線だったら死ぬことになる……けど、別の可能性をエレーヌが思い出させてくれた」
「……エレーヌが? 彼女、魔法を解くつもりはさらさらないって感じだったけれど」
リュカをひどく恨んでいるようだったエレーヌ。
絶対に解く気はないって感じで、実際リュカが頼んだときも首を縦には振らなかった。解くためのヒントすらくれそうにない感じだったのに。
首をかしげる私に、リュカは「違うよ」と言った。
「そうじゃなくて、彼女と顔を合わせる前。エレーヌはメリルのことを操っただろう? そのために、ネックレスを利用した」
「そういえば……そんなことを言っていたっけ」
「それと、君のイヤリング。……言おうかどうしようか迷ってたんだけど、あれはもう見つかったときには壊れてたんだ」
「えっ!?」
初耳なんですけど。
貰ってすぐ失くしてしまって、それからずっと行方不明で、見つかったとは聞いていたけれど別の場所に保管されていると言われて結局見ていない。
リュカはばつが悪そうに頬をぽりぽり掻いて、床を見た。
「……今度代わりのものを選ばせるから……いや、もう僕が選べるんだから僕が選ぶ。それで許してくれないかな」
「それは別にいいけれど……だからあのとき私のイヤリングは危険じゃないって言ったのね。とうに壊れてたなら使えない、そうでしょう?」
やっと昨日彼が話していたことが腑に落ちた。一日でたくさんのことがあり過ぎて、まだ飲み込めていないことも多い。……今日はもうずっと寝て頭と体の疲れを癒したいぐらい。
「うん。大方、エレーヌ自身が証拠隠滅のために盗んで壊したんだろうけどね。メリルを乗っ取るのには不要だし」
「なら……少なくともエレーヌの魔法は媒介にしている物が壊れれば解ける、の?」
「そういうこと。いきなり自分の命を実験台にするには確証がなかったけどね」
リュカが肩を竦めた。
「実験台」。「確証がなかった」。そんな状態で、彼は燃える屋敷の中にあの絵と共に残る決断をしたのだ。
「貴方、そんな危ないことしてたの?」
「切羽詰まってたんだ、大目に見て。というか、君だって僕が元に戻らなかったらそのまま死んでたんだからな」
「うっ……それはそもそもリュカがこっそり屋敷に戻ったからじゃない」
私には逃げろって言うだけ言って、レクバートさんに頼んであの絵を取ってきてもらうとか。私に取りに行ってって頼むとか。それをせずに、彼は確実な護衛を私につけることを選んだ。
それを余計なお世話とは言えない。
私も、リュカもどちらも譲らなかった。じっと睨み合って、しばらく経ってから私が折れる。
「……どっちもどっち、かしら?」
「そうだね、お互い様。……もうこんなことはないようにしたいけど」
リュカもそう言って目を伏せた。睨み合いを続けるのは不毛だって、彼も思ったみたい。
どっちもどっちだ。この件に関しては、そういうことにする。
「あ、そうだ。ヴァルがめちゃくちゃ怒ってたから、あとでちゃんと謝りなよ。僕たち全員が休むための空いてる民家や医師の手配をしてくれたの、ヴァルなんだから」
「ゔぅ、わかりました」
ヴァルサスさまを置いてきてしまった昨夜のことを思い出させられて、私の胃はきりりと痛んだ。
勢いでやってしまったことを今更後悔しても過去は変わらない。
わかっているけど気が重くて肩を落とすと、伸びてきたリュカの手が私の頭を撫でた。
「!……リュカ?」
「や、新鮮だなって。今までは手を伸ばしても絶対に触れられない存在だったから」
「……それは……」
ぽんぽんと撫でたり、私の髪に指を通してみたり。なんだか色々試しているというか……遊んでいるような調子でリュカは私に触れる。
それにはちょっと不満を訴えてやろうかと思ったけど、やめた。
菫色の絵具じゃない、本物の瞳と目が合ってしまった。
「嬉しい」
楽しげに目を細めて笑う彼に、思わず見とれそうになってしまう。
初めて見たときに見事な肖像画だと感じた彼が、絵の世界からようやく抜け出てここにいるのだ。
今更になってそれを意識してしまって、私は照れ隠しに話題を変えた。
「ね、ねえ、リュカ。これからどうするの?」
「ん? これからって?」
リュカがきょとんと目を丸くした。彼の表情が豊かなのは現実でも一緒らしい。本人なんだから当たり前か。
彼が首を傾けると柔らかそうな髪が揺れて、それにすら目を奪われそうなのを誤魔化すべく私はごにょごにょ話した。
「その……お屋敷は燃えてしまったわけでしょう。住み続けられるとは思えないし、それに貴方が元に戻ったことで色々状況も変わったと思うの」
「ああ、そうだね」
ここはヴァルサスさまが手配した民家だって彼は言っていた。まだ実際にどうなったのかは見ていないけれど、とても屋敷に戻れる状態じゃないのは確かだろう。
再建には時間がかかるし、その後のことも……なんて私は考えているのに、彼はぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
「……つまりこれで、晴れて僕らの結婚をお披露目できるわけだ!」
「え?」
今までは額縁の高さだったから意識してなかったけど、現実に戻って立たれると身長の差から意外と圧を感じる。ヴァルサスさまと同じぐらいと言えばそうなんだけど、こう、距離が違うのだ。
じゃなくて。
「何きょとんとしてるんだよアネット。僕が元に戻ったことで一番大事な変更はそこでしょ。妙な役者を雇わずに済む」
「……え……そこ……?」
「そこ以外にないよ」
リュカは至極真剣に言っている風で、私の両手を握ってぶんぶん振った。万事解決したみたいに喜んでいる。
(替え玉問題で悩んでたのは本当だけど……もっと他に、他に……ない……?)
ないらしい。
その他もろもろの問題は彼の中ではどうも些末な問題になってしまうようだ。……いいのかしら。
リュカは大変嬉しそうににこにこしていたけれど、少しして私の手を解放した。
「まあ、でも最優先すべきはこの火事の件の――ひいては僕へかけられた魔法に関する全ての黒幕への処分だけれどね」
瞼を下ろしてまた上げると、リュカの瞳はもう冷めていた。口調も声も変わらないのに、表情だけが全然違う。
「……リュカ? それって、昨日の火事は……」
「放火だよ。後始末はきちんとつけよう」
放火。
彼の口から告げられたその物騒な単語に、私は数秒呆然と固まってしまった。