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選択の時(前編)

「リュカ……?」


 震える声でその名を呼ぶ。

 抱えてきた絵の中に、彼の姿はなかった。隠れているわけでもない。


 そんな私の反応を見て、ヴァルサスさまが難しい顔をする。


「その様子だと……気づかないうちにその絵から抜け出したわけか、リュカは」

「抜け出した……!? どこにですか!?」

「屋敷の中以外にないだろう。弟が移れそうな絵は他にない」

「どうして!? どれだけ燃え残るかわからないのに……!」


 彼に食ってかかっても何かが変わるわけじゃないのに、私は叫んでいた。


 リュカが何を考えているのか、全然わからない。


 こんな規模の火事になってしまえば、井戸や水路から汲んできた水ごときで消火が間に合うはずもなかった。

 夜が明けるまでに、ほとんどは焼失してしまうだろう。そのときまで、絵が残っている保障はない。


「探しに行かないと」

「君が? 無茶だ。やめなさい」

「どうして落ち着いていられるんです!?  このままじゃ……」


 誰もいない絵を抱きしめて、私は訴える。


「このままじゃ、屋敷と一緒に……」


 その先は怖くて口に出せなかった。

 口に出したら一気に現実味を帯びてしまうような気がしたから。


「……わかっている」


 ヴァルサスさまは静かに、重々しく、その唇を開いた。


 リュカとよく似たその顔を見上げて、私はけして彼がただ落ち着いているだけではないことを悟る。

 歪められた眉間には深い皺が寄り、一言発するごとにきつく奥歯を噛みしめているようだった。葛藤がなければ、そんな表情はしない。


「だが……戻ったとしてあれがどこにいるのかすぐ見つけ出せるか? 今すぐに建物が崩れ去るとは言わないが、時間の問題だろう。煙は体に毒だし、せっかく逃れられたのに戻るなど愚か者のすることだ」

「ヴァルサスさま……でも……」

「だから、あれの考えていることがわからない」


 危険を承知で戻る意味がわからない。リュカが馬鹿ではないことを知っている身内だからこそ、誰にも何も告げずに姿を消した彼の真意がわからずに悩まされる。


 リュカは不自由な体で屋敷に戻り、一体どこに向かったのか。何の目的で?


 屋敷にかけられた絵は、既に燃えてしまっているものも少なくないはずだった。絵の中で炎は燃えないにしても、いつものようにすいすいと額縁から額縁へ渡り歩けるような状況じゃない。


 そうまでして戻る理由、あの屋敷にこだわる理由……。


「……まさか……」

「何か弟が言っていたことが?」

「いえ……私は何も知りませんけど、聞いてませんけど。でも、一つ気になって」


 抱えていた絵を脇に挟み、ヴァルサスさまが持っているカバンに手を伸ばす。


「その中に『木の額縁の絵』は入ってませんか?」

「木の……? ああ、結婚式のときに使ったものか」


 同意を待たず、私はカバンの中を探っていた。


 書類が入っているさっきヴァルサスさまが目を通していた方ではなく、おそらくはリュカ個人の貴重品が入っているのだろう方だ。彼のプライベートに踏み込むことにあたるかもしれないけれど、今は躊躇っている場合ではない。


「……ない。やっぱり……!」


 手を突っ込んで動かして、それらしきものがなさそうなことを確認する。

 暗くてよく見えないけれど、もしも入っていれば手の感触でわかるはずだ。少なくとも小さなものではないのだから。


「……リュカは、それのある場所に戻った可能性があります」

「取りに戻ったと? 取って帰ってこれる体じゃないだろう」

「だから……もしかしたら、帰ってくる気がないのかも」


 カバンから出した手が震えていた。ぐっと握るけど、震えはおさまらない。リュカの考え、それをこれ以上考えてはいけないと私自身の体が訴えているかのように。


「あれは『特別』なものだって……リュカは私がここに来たばかりのとき、見せてくれたんです。なのに彼は避難するときその絵に移らなかった」


 ほかの絵とは違う、まるで自分の「本体」のように感じる絵があるという話は、私がまだ屋敷にきたばかりの頃にリュカ本人から聞かされた。一番大事な絵と言っていたのだから、持ち出す優先順位はかなり高いはず。


 なのに彼はあのときたまたま近くにあった絵に移って、そのまま運ばれてきた。

 いつから彼がいなかったのかはわからないけれど、少なくともしばらくの間は大人しく運ばれていたはず。


 そんな経緯を話すと、ヴァルサスさまは目を閉じて深いため息をついた。


「成る程……困った弟だ。妻を逃がすことを優先させたというところかな」


 その推測に、私はすぐに頷けなかった。


「わた……し?」

「他にないだろう。火事の報を聞き、リュカには二つ選択肢があったはずだ。『特別な絵』のところに行くか、君のところに行くか」


 ヴァルサスさまは私の目をじっと見て、告げた。


「あれは、君をとった」


 身に危険の迫った、運命の二択で。


 私の中ですべきことが定まったのは、その瞬間だった。

 啓示でも降りたように頭の中のごちゃごちゃが整理されて、行くべき場所を理解する。


 私は迷わず上着を脱いで、持ってきた絵と一緒にそれをヴァルサスさまに託した。


「ヴァルサスさま。これ、お願いします」

「待て! だから無茶だと」

「ごめんなさい。お義兄さま」


 我ながらずるいやり方をしたとは思うけれど、そう呼ぶと彼は目を丸くした。

 そんな表情をされるとは思わなくて、こんなときなのにくすりと笑ってしまう。事実でしょうに。


「……でも私、行かなきゃ後悔します。たぶん一生」


 なおも制止の声を上げるヴァルサスさまを振り切り、走り出す。おそらく、追いかけてはこれないだろう。あの人は自分の立場や現実をよくわかっているから。


 あの絵の場所を知っているのはおそらく私しかいない。

 あるいはレクバートさんなら知っているかもしれないけど、彼は今消火活動の指示を出している。頼れない。


 走る私に気づいた人たちも声を上げるけど、私は止まらなかった。


(行かなきゃ後悔する。本当に)


 開け放たれた玄関から中に飛び込むと、明らかに外とは違う熱い空気を感じる。さっき降りて来たときよりも延焼が進んでいるのは確かだった。


「……リュカ……ちゃんとあの場所にいて頂戴」


 祈る気持ちで口に出した。

 チャンスはおそらく、一度きり。一歩間違えば、片道切符にすらならないかもしれない。


 あの場所に向かって、そこに彼がいなければ――いいえ、いるはず。いると信じないと進めなかった。


 廊下はもう私の知った廊下ではなくなり始めていて、炎があちこちに見えた。


 火が、壁にかかった鮮やかな絵を端から舐めるように黒一色に染めていく。描くときにはあれだけ時間のかかるものが、こんなにもあっという間に消えてしまう。それはとても恐ろしかった。


(……お願いだから)


 燃えておしまいなんて、そんなのは嫌だ。


 煙を吸わないように、燃えた壁や天井に万が一にも潰されないように、私は必死になって奥の部屋を目指した。


 リュカに案内されて訪れた、いつかの日を思い出しながら。



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