異変
夜の帳もすっかり降りた夜中に目を覚ましたのは、激しく扉をノックする音のせいだった。
「……ん……なに? まだ夜じゃない……」
ぼんやり目を開けると、次の瞬間すぐ傍からリュカの大声がした。
「アネット、アネット! 悪いけど起きて!」
「んっ……わあっ、何事!? っていうかリュカ!?」
「ごめん勝手に入って。どうしても起こさないとと思って」
飛び起きてベッドの傍の額を見ると、本当にリュカがいた。ただごとではなさそうな雰囲気に、一瞬で目が覚める。
リュカは険しく眉を顰めて言った。
「下で火が出た。今すぐここがどうこうはならないけど、消火が間に合ってないらしいんだ。屋敷全体に火が回る可能性もある。一旦避難しよう」
「火事……!? 一大事じゃない!」
彼が血相を変えて報せにくるわけだ。
冬の夜は火事が多いと聞く。調理場や燭台に加えて暖炉という火元が加わるし、温まっている間に眠りに落ちてしまい火が何かに移っても気づかない。だから細心の注意が必要なのだけれど――それでも、ミスは出る。
「大事なものだけ持って。急いで、でも焦らずにね」
「わかった」
実家からの荷物が少なかったおかげで、私にとって絶対に持ち出さなくてはならないものもあまりない。ドレスは持ち出すには重たいし、潔く諦める。となると、持っていくとして宝石箱一つぐらいか。
(悠長に着替えてなんていられないし……上着だけ着ていきましょうか)
外に出て寒くないよう夜着の上から外套を羽織って、宝石箱を手に取る。その中に、リュカからもらったイヤリングが今はないことが残念だけれど……。
(……今気にすることじゃないわ)
ふるふる首を振って、箱を持ち直した。
廊下に出ると、レクバートさんが待ち構えていた。その手にはリュカの貴重品だろうか、大きなカバンが二つ。一つからは書類がはみ出していて、私はすぐに領地運営に必要なものだろうと察した。
「アネット様。リュカ様。もう他にはありませんね」
「うん、大丈夫」
「大丈夫です。あの、外には……」
「向こうの階段を使うと火のあるところを通ることになります。あちらから行きましょう」
空いた手で彼が指したのは、私の部屋からより遠い階段がある方だった。火の近い近くないという話をされると、いよいよこれが現実だと感じて心拍が速くなる。
屋敷には燃えるものが多い。床と骨組みだけじゃなくて、布団、カーペット、カーテン、木製の調度品。そして個人蒐集家でもここまでするだろうかというほどにあちこちに飾られたキャンバスは、その全てが布と木でできている。
「……待って。リュカは? リュカはどうするの?」
恐ろしい予感がして私は額縁の中のリュカの上半身を見た。そう、今の彼は絵画なのだ。木枠に張られた布、そしてそれに塗られた絵具。
――つまり、燃える。
「心配しないで、アネット」
「そうですね、今のうちに外してしまいましょうか」
青ざめる私にリュカとレクバートさんは落ち着き払って、目配せし合った。
何の目くばせかはすぐにわかった。次の瞬間、レクバートさんがリュカが収まっている額縁を壁から外したのだ。
「これで動けるでしょ、一応」
「あ……そ……そっか、そう言ってたっけ……」
差し出されたリュカ入りの絵画を受け取って、ほっとした。
思い返せば彼を抱えて庭に出たこともあったし、彼の向きを変えてあげたこともあった。ちょっとパニックになりかけていたけれど、落ち着いてみればなんてことない。
「では、行きましょう」
レクバートさんが先に歩き出す。
ちゃんと指示に従えば大丈夫、二人は私よりも状況を理解しているはずだから。
自分に言い聞かせて、緊張で固くなる体を動かし足を踏み出した。
* * *
屋敷の外に何とか出ると、部屋にいたときにはまだ気づかなかった焦げ臭い臭いが途端に気になり始めた。
振り向いて、そこで見えたものに絶句する。
冬の夜の闇に赤く明るい炎は屋敷の窓から漏れ出して、どこがどの程度燃えているのかをはっきりと教えてくれていた。
(……念のための避難どころじゃ済まないじゃない)
なんとか宥めたつもりの心臓がまた大きく脈打ち、耳元でばくばくと鳴り始める。
使用人たちの居住区としていたところを中心に、炎は屋敷全体に回っていこうとしていた。
恐ろしくなって辺りを見回し、屋敷の周りに集まっている人一人一人の顔を確かめていく。
あの人はいる、あの人がいない……いや、向こうにいる。
水を運ぼうとする人たちの怒号に似た大声が響いていたけれど、果たして消火は間に合うのだろうか。
そんな中で、率先して周りに指示を出している人物を見つけて私は駆け寄った。
「ヴァルサスさま!」
「アネット! ……良かった、無事脱出できたようだ」
「こちらの台詞ですよ」
王太子殿下を招いている間に火を出してもしもの事があれば……考えるだけでぞっとする。
そうでなくても、知った相手に危険がなんて考えたくない。今日泊めてしまったことを一生後悔することになるだろう。
「殿下が消火の指揮を執っておられたとは。申し訳ありません」
駆けだした私を追いかけてきたレクバートさんが、深々と頭を下げる。
「たまたまするべきとき、するべきところに私がいただけだ。しかし、余所者の私では統括しきれないところもあるだろう。後の消火活動は任せたよ」
「ええ。安全な場所でお待ちください」
「それと」
ヴァルサスさまが、すっと手を差し出した。それはレクバートさんの持っている二つのカバンに向けられていた。
「その荷物は私が預かろう。領主の貴重品だろう?」
レクバートさんは一瞬驚いた顔をして、すぐに恐縮した。
「いえ! 殿下の手を煩わせずとも、うちの者に」
「どうせ安全な所に避難するんだ。無駄に人手をかけるだけじゃないか」
「それは……」
「預かろう」
半ば奪うようにヴァルサスさまがカバンを持つと、レクバートさんはそれ以上何も言えなかったようだった。相変わらず、人に有無を言わさない。
「……よろしくお願いいたします」
もう一度深く頭を下げてから、レクバートさんは周りの状況を把握するべく走っていった。
荷物をしっかりと抱え直しつつ中に入っている書面を確認しているヴァルサスさまに、私はこわごわと問いかける。
「……ちゃんと、消えるでしょうか」
「難しいだろう」
にべもなく返された。
素人目にも、こんな光景を見ればなんとなくわかるんだけど……それでもすぐには受け入れられなかった。ここに来て今日まで過ごした屋敷を失うなんて。
「それでも、逃げてきた者たちが話していた。幸いにも使用人は全員安否が確認できているそうだ、もちろん、保護下のメリル・ルーも」
「本当ですか!?」
「彼らの噂話が正しければ。もちろん彼らも必死だろうから、きちんと確認の上だろうが」
「そうですか、良かった……」
気休めでいい加減なことを言っているようには見えなかったし、彼の言葉にはある種の重みがある。それは緊張し通しの私を少し落ち着かせてくれた。
ほっと肩の力を抜く私の耳に、ヴァルサスさまの低い声が入る。
「それより、私が気になっているのは我が弟のことなんだが」
「……え?」
その問いはまっすぐに私の心臓を刺して、冷えさせた。それに十分なだけの恐ろしさを纏っていた。
「あれは、そこにいるのか?」
すっと、彼の目が私の胸に向けられる。
違う。私の抱えた、額縁にだ。
追うように視線を下にして、私は呆然とした。
「……リュカ……?」
答える声はない。
大切に抱えて降りてきた絵の中には、赤い花が一輪描かれているだけだった。