厚みのない婚約者殿
「突然倒れるからびっくりしたよ。驚かせてごめんね、アネット」
「……今にももう一回ぐらい気絶したい気分ですけどね……」
「それは困るな」
椅子の背もたれに立てかけられた額縁の中で、リュカは楽しそうに笑う。こっちは全然朗らかに笑っていられる状況じゃないんですけれども。天井を仰ぎ、視線を戻す。残念ながら現実は続いていた。
「……それで、どうしてリュカはそんなところに?」
どこまで言葉遣いを崩していいのかわからないのでぼやかしながら問いかける。愛称で呼ぶように強制してくるし、この態度だし、おそらくそれなりに崩しても怒られないんだろうけど……一応、念のため。
今部屋に誰か入ってきたら確実に私は頭がおかしい人と思われるんじゃないだろうか。しっかり覚醒した頭で見てもなお、額縁に納められたキャンバスに油絵の具で描かれた精緻な肖像画が喋っている現実は変わらなかった。裏返してみたい衝動に駆られるけれど、そんなことをしていいのかわからないし多分得るものなんてないだろう。
リュカはなんだか珍しい動物かなにかを見るような様子で、意外そうに口を開いた。
「ふぅん、君案外適応能力高いんだね。もう少し状況を受け入れるのに時間がかかると思ってたんだけれど」
「……受け入れなかったところで現実は変わらないので……」
そろそろ現実逃避にも限界がある。どこか遠くを見たい気持ちを押しとどめて、私は説明を求めることにした。厚みのない婚約者なんて前代未聞すぎる。なんだってそんなことになったのか、それを聞かないことにはこれからどうするにしても落ち着かない。
「アネットは魔法って信じる?」
「……信じてなかったですけど、それが理由なら信じますね」
怪談は苦手だけれど、そういうものがあるのだと示されてまで頑なに信じないほど強情なわけでもない。
「ならそれが理由だよ。混乱を生むから公にはされてないけど、この世界には魔法って呼べるものがあるんだ。使う人は少ないし、使われる場面も少ないけれどね。だから全然知られてない」
「じゃあその数少ない場面が、今の状況?」
絵になる魔法なんて、あまりにも用途不明な気がする。私が首を傾げていると、リュカは答える代わりに扉に視線を送った。少し遅れて、ノックの音がする。
「いいよ、どうぞ入って」
「えっ」
私よりも早くリュカがノックに答えた。寝起きの私のことも気にしてくださいよ。……まあ、この屋敷も部屋も彼の持ち物なわけだし、主に決定権があるのは確かにそうかもしれないけれど!
失礼します、とリュカよりもいくらか低い声がして、扉が開く。どこか遠慮がちに入ってきたその人は、例の私を案内してあの応接間に置き去りにした人物だった。
「あ、ええと、側近だって言う……」
「レクバート・リューズです、アネット様。気がつかれたようで何よりです。先ほどは失礼いたしました」
「先ほど……」
「リュカ様が何か企んでいるのに気がついていて、二人きりにしてしまったことです」
あ、一応当人にも罪悪感はあったんだ。などと少し失礼かもしれないことを考えながら私は気にしていないと社交辞令で返す。リュカはというとどこかふてくされたような顔をしてレクバートさんを見た。
「企んでるとは人聞きが悪いな。少し彼女を試そうと思っただけだよ」
「同義では?」
ぴしゃりとレクバートさんは言い放ち、けれどリュカはそれに気分を害した様子でもない。気のおけない関係というやつなんだろうか、さすがは側近。
レクバートさん、落ち着きがあるせいかびしっと服装が決まっているせいか随分と大人に見えるけれど、かといっておじさんというわけでもなかった。領主の補佐に上り詰めるにはとても若い。兄と慕っても良さそうなぐらいだ。
私が感服していると、リュカが絵の中からレクバートさんを指した。さっきから表情がくるくる変わるだけでも驚きなのに、ポーズまで変えられるとは。魔法ってすごい。乗せられた絵の具が滑らかに動いて、じっと見ているとまるで少しぼやけた鏡みたいだった。
「そうそう、ここまでアネットを運んだのは彼だよ」
「えっ、そうなんですか。ありがとうございます、レクバートさん」
急いで私はその場で礼をする。こちらの方が迷惑をかけてしまった側じゃないか。
私の様子にレクバートさんは苦笑して、「仕方ないですよ」と視線を椅子に置かれた額縁に向けた。その視線に、居心地悪そうにリュカは身じろぎして肩を竦める。
「驚くのも無理もない話です。陛下への説明には半年かかりましたから」
「は、半年ですか?」
「ええ、まったく信じてもらえませんでした。おかげで当時の責任者たちの処分に時間がかかってしまって」
「兄上は爆笑していたけれどね」
目を伏せてため息をつくレクバートさんの言葉に付け加えるように、リュカは恨めしそうな呟きをこぼした。兄弟不仲とか噂じゃ言われていたけれど、この様子を見るとそうでもないんだろうか。なんとなく私と兄さんみたいな距離感を感じなくもない。
断片的な情報を総合するに、リュカがキャンバス上の絵になったのは昨日今日のことではなさそうだ。……まあ、それなら、まったく姿が目撃されないのも納得が行く。
「それで、話は戻るけど……僕がこうなったのは今から3年前になるかな。使用人に紛れ込んでいた魔女に魔法をかけられてこのざまだ」
「……魔女?」
「そんなおとぎ話みたいな、って思ったでしょ」
そんなおとぎ話みたいな話があるんだろうか。私は頷いてリュカを見た。レクバートさんが私の前にテーブルを動かしてきて、部屋に持ってきたらしい何枚かの書類と一枚の人物画をその上に広げる。
書類の一番上に、雇用契約書と書かれた紙があった。少し褪せたそれはどうやら王宮の洗濯係としてその人物を雇うという内容で、庶民となると識字率がそこまで高くないこの国においてはぱっとみて珍しいと思うほどにしっかりと整った字で「エレーヌ・デラ」と署名がしてあった。横に並べられた黒髪の少女の似顔絵は、つまりこれがそのエレーヌということらしい。
「一応聞いておきますが、アネット様。この名前や顔に覚えは?」
「ないと思いますけど……このサインは、その人が書いたんですか?」
雇用担当の人が代筆した、というもしもの可能性を考えて確認する。基本的に契約書の類は本人の筆であるものだし、字が書けない者相手であっても横に見本をおいて真似させるなどしてなんとか自筆を得るものだけれど、例外的に後見人が書く場合も一応は存在する。本当に稀な例だけれど、手が不自由な人や病気で寝ているような人にまで自筆を求めるようなことはさすがにないからだ。
ただ、レクバートさんの答えはその可能性を否定するものだった。
「彼女の自筆です。学に長けた娘でした」
「……行方不明なんですか?」
うちの領内にこんな子が訪れていたなら、印象に残っている気がする。茶髪茶目か茶髪に碧眼、たまに金髪ぐらいの容姿が溢れているこの国では、はっきりした黒髪はかなり目立つだろう。ちょっと赤毛が入ったぐらいの私だって目立つんだから。その上頭もいいとなれば噂になってもおかしくはないし、何か手続きをしたならばそういう書類に目を通す手伝いをやっていた私は覚えているはずだ。
「そうですね、消えました、彼女は。リュカ様が絵画になったその朝に」
「……それで、犯人……」
レクバートさんに示されて、私はテーブルの上の書類を取る。一枚目の雇用契約書をめくると、2枚目以降にはエレーヌ・デラという洗濯係の少女が何をしたのかが報告書のように連ねられていた。
口で話すとまとまりがなくて長くなるから、すでにまとめられているものを持ってきてくれたのだろう。リュカとレクバートさんは、私がそれに目を通すのを待っているようだった。確かに、こうしてもらえたほうが早いといえば早い。人に説明しづらい状況に置かれたリュカたちなりに、これまでの経験から編み出した方策なのかもしれない。
要約すると今から3年前のある秋の日、リュカが目を覚ますと一枚の絵画に自分の体が収まっていた。それが事件発覚の瞬間で、誰も——リュカ自身さえ何が起きたのか知らないという。エレーヌの魔女扱いは完全に状況証拠によるものだ。
魔法の存在はさっきリュカが言ったように一部の人しか知らない。もしかしたらうちの父や兄は知っていたかもしれないけれど、私にはそんな話一言もしてくれなかった。
そんな事情で、もともとあまり公の場に出なかったリュカはいよいよまったく姿の見えない王子になったというわけらしい。
「今回はこちらの都合で婚約を急いでしまい、申し訳ありませんでした」
「あ、そうだ。何か状況が変わったんですか?」
申し訳なさそうなレクバートさんに、せっかくなので聞いておく。父も母も喜んでくれたものの、なんだか急かすような話の進み方に家族揃って首を傾げたものだった。
「マルクに縁談があったんだよ」
リュカがそこで口を挟んだ。
マルク王子、というとこの王国の第三王子で、リュカの弟にあたる。今は9歳だったかな。王太子として限られた場でしか謁見しない第一王子と出られない理由のある第二王子に対して、巻き毛の可愛い第三王子はちょこちょこパーティに顔を見せたり侍女と城下に遊びに行っているようで人気が高い。一番親しまれてるんじゃないだろうか。
9歳で婚約かあ、とも思ったけれど、よくよく考えるとたいして珍しくもない話だ。主に私に縁がなかっただけで。
「詳しくは僕も知らないけど、どうも外国から。今後は他の国との関係ももっと大事にしていきたいって父上は前に話していたから、多分この縁談を逃したくないんだ」
「……それとリュカの結婚と、なんの関係が?」
「一応僕は兄として存在してるから。先方がマルクを熱烈に気に入ってるってわけでもないみたいだし、そうしたら僕を飛ばしてあの子の婚約が決まるのは不自然でしょ?」
「なるほど」
つまり大人の事情だ。
こちらから婿入りするにしてもリュカは動けないし、来てもらうにしろそもそもこの状況を他国に知られるのはまずいかもしれない。それで先になんとかリュカの縁談をまとめて、継承権の話もクリアにして、だから第三王子となんですよー、と胸を張って言えるようにしようというわけ。苦し紛れではあるけど、他に手の打ちようもない。
ちなみに確か最重要の王太子殿下はもうずいぶん前から政治中枢を担う公爵家のお嬢様と婚約済みだ。
「確かに私なら都合がいいですもんね」
「うん?」
「父が最近大きな功績を挙げたっていうきっかけもありますし、自然に見えるでしょう?」
「ああいや、それもそうなんだけど」
それだけじゃないよ、とリュカは言った。
「僕、お淑やかな子苦手だから」
「どういう意味ですかそれ」
「そのまま」
「ちょっとっ」
どうせ私はお淑やかじゃないですよ。まったく。
これから、私この人と上手くやっていけるんだろうか。一抹じゃ済まない不安を抱えながら、私は精一杯リュカを睨め付けた。額縁の中の彼はずっと笑っていた。