魔女の居場所(前編)
ついさっきの出来事が未だ飲み込めないまま私は走って走って、応接間に駆け込んだ。
リュカが見ていてくれているとはいえ、あの状態のメリルをそのままにしておいて良いわけないのは私にもわかる。
リュカの言った通りヴァルサスさまはまだそこでくつろいでいたけれど、私のただならぬ様子を見てすぐに立ち上がった。
「何があった」
「ええと、上、上でメリルの様子がおかしくなって、リュカにヴァルサスさまを呼ぶよう言われて……」
「わかった」
何からどう話していいかわからなくて舌がもつれる。
要領を得ない説明なのにヴァルサスさまは察してくれたのか、頷くと護身用なのだろう剣の柄に手をかけて出て行こうとした。
「あの、案内します」
「いい。ここで待っていなさい。リュカは危険だと感じたからそう言ったんだろう」
「けど」
ついて行こうとする私を、ヴァルサスさまが部屋に押し込める。それから私の手を応接間のドアノブにかけさせて、低く落ち着いた声でこう言った。
「扉を閉めて、私かリュカが戻るまで開けないように」
「ヴァルサスさま!」
それでも追いかけようか迷う。
だけどついて行ったところで今何が起こっているかもよくわかっていない私ができることなんてたかが知れていて、思いとどまった。
ヴァルサスさまが行けば、事態は好転するだろうか。
リュカに甲冑をぶつけられて気絶してしまったメリルのことが心配だし、彼女が目を覚ましたときのことも怖い。
(あの子は、ちゃんと元のメリルに戻る……?)
扉をしっかりと閉める。そのまましばらく、ぎゅっとドアノブを握りしめて動けずにいた。
強く握った手の震えは、なかなかおさまらなかった。
* * *
待っている時間がひどく長く感じた。
実際のところがどうだったのかはわからない。
扉を叩く音が聞こえて顔を上げると、私が「誰?」と聞く前にもうその人は中に入ってきていた。
「アネット、大丈夫だった? 本当に怪我はない?」
「リュカ! 私こそそれを聞きたいんだけど……」
リュカは、扉を開けるまでもなく直接応接間にかかったいつものソファの絵の中に入ってきた。
駆け寄ると、いつになく厳しいものになっていた彼の表情が少し緩む。上から下まで見る限り、彼にも怪我はなさそうだ。それに安堵していたら苦笑された。
「いや、僕は平気だよ。絵なんだから」
「わからないじゃない。貴方から現実に干渉できるんだから、反対のことだって」
「うーん、針の山でも描き込まれたら別かもしれないけど。動物も植物も絵の中で本物にはならないんだから大丈夫じゃない?」
あはは、と彼が笑ってみせる。
いつもの様子でいるなら本当に大丈夫だったのかもしれない。少なくとも、私のところに来るぐらいの余裕はありそう。
だけど一緒にヴァルサスさまがいないのが引っかかって、私は彼に聞いた。
「どうなったの? ヴァルサスさまは? メリルは?」
「落ち着いて落ち着いて。メリルは保護されたし、君に危険はないから」
さっき私が襲われているところに駆けつけてくれた彼は肩で息をしていたけれど、今の彼は穏やかだ。もう大丈夫、というのは気休めではなさそう。
「保護……さっきの彼女はやっぱりおかしかったのよね? 元に戻るの……?」
「うん。結論から言うと、メリルは魔法で操られていた可能性が高い。今ヴァルとレクバートの指示で、術者を探させてる」
「この近くにいるの?」
「より思い通りに操るためには、近くに居た方がいいんだ。出口を塞ぐつもりで全ての門と戸口をしっかり施錠させようとしていたら、使用人たちが使う裏口の普段は閉めている鍵が開いてるのがわかった」
「じゃあそこから、屋敷の中に……」
「誰かのうっかりかもしれないけど、操られたメリルが手引きした可能性も高い。どっちみち、より内部に入り込みたい術者としては好都合だろ」
リュカは淡々と状況と推理を話してくれた。どこか慣れているようにも思えるのは、彼がこういう状況に遭遇するのが初めてではないからだろうか。
「だけど、もう逃げられない。僕が甲冑をぶつけた衝撃はたぶん向こうにも行ってるはずだ。ヴァルたちに手伝って貰ってすぐ逃げ道を塞いだから、あとは見つけるだけ」
時間の問題だよ、とリュカは語った。
屋敷への侵入者。メリルを操ってまで私を殺そうとしたのは、一体誰なのか。
私への恨みをまっすぐに持って襲ってきたメリルの中の誰か。あのとき感じた不気味さや恐ろしさと似た感覚に、私はかつても遭遇したことがある。
あの森で、黒髪の少女の幻覚を見たときに。
「……エレーヌなの?」
「まあ、捕まえてみないとね」
リュカははぐらかすように言って肩を竦めたけれど、積極的に否定はしなかった。
「メリルが持っていた短剣はヴァルが取り上げた。それの出どころも気になるけど、ひとまず彼女が目を覚ましてまだ操られていたとしても、もう危険はないと思う」
「……そう」
もし暴れても、何も凶器を持っていなければ人を傷つけることはできない。メリルは屈強な騎士ではなく、ただの優しい女の子だから。正気なら誰かを襲おうなんて、絶対に思わないような……。
「どうして、メリルが……」
言いかけて、自分で答えに気付いた。
私を殺すことが目的だったのだろう相手がメリルを乗っ取ることにした理由は、きっと私の一番近くにいるからだ。
「それなんだけどね、アネット」
リュカは違う答えを持っているようだった。
「短剣のほかにも何か危ないものを隠し持っていないか調べて貰ったときに……気になるものが出てきた。赤い石のついたペンダントだ」
覚えがあった。
少し前、亡霊の話をして私を怖がらせたときに、メリルが服の下に着けていたものだ。
大切なものは肌身離さず身に着けておいた方がいい、という話とともに。
「一部の鉱石は魔法を使うときの目印に使われることがあるから、念のためそれも没収して安全な場所に保管して貰ってる」
「ペンダント……それがまさか、呪いのペンダントだったって言うの?」
にわかには信じがたかった。ぱっと見ただけだけれど、そんな禍々しいというか、いわくつきのものには見えなかったのだ。
リュカは首を振った。
「分からない。ただ、レクバートの話だとそれはこの間僕が君への贈り物を探して貰っていたときに露店の女から買ったものらしいんだよ。今思い返すと、顔を見せない怪しい女だったって。それがもしかしたら……」
「……操るためのものだった。屋敷の中に上手く入り込んで私を襲うのに使われた可能性があるってことね」
「そういうこと。あくまで可能性だけど。とりあえず、その店についてはあとで調べさせるつもりだよ」
メリルが悪いわけではなく、買った場所が悪いということ。屋敷に出入りする人間に買わせられればそれでよかったのかもしれない。
……とそこまで考えて、今何気なくリュカが言った言葉を頭から思い返す。
私への贈り物を買ったときに、買ったもの。
「ちなみに、なんだけど。私が貰ったイヤリングもその……店で?」
「多分ね」
あっさり肯定された。本当に同じ店らしい。
「ああ、君は大丈夫だと思うよ。もう手元にはないんだし、もし何か仕掛けられてたとしても力を失ってるはず」
「そう、良かった……ってリュカ、そこまで知ってるの!?」
これまたあっさり答えるものだから普通に安心しかけたけど、どうして彼が私の手元にイヤリングがないことを知っているんだろう。あんなに必死に隠したのに。
「君が僕からの贈り物を失くしてこのところ探してくれてたことでしょ? 怒ってないよ、むしろ一生懸命探してくれてたって知って嬉しかったな」
「怒ってな……いのは良かったけど、どこで知って……」
「拾ってくれた人が気を利かせて僕に説明してくれたんだ。あ、誰が拾ったかは教えないよ」
知ったところで問い詰めに行ったりする気はないものの、聞いたらあの人がと意識してしまいそうなので彼の判断は正しい。私もそこには深入りしなかった。
「そう、なのね。それで今はどこにあるの?」
「保管してもらってる。メリルのペンダントと一緒で、証拠品になるかもしれないしね」
あれだけ頭を悩ませたことがこんな形ですんなり解決してしまって、私はそれ以上何も言えなかった。いいのかしら、いいえ、解決したからいいんだろうけど。
「今わかっていることはこのぐらいかな。とにかく、今はメリルを操った犯人が捕まるのをここで待とう」
「ここで?」
何もできることはないとはいえ、助けを求めるだけ求めて待っているだけというのも落ち着かなかった。けれどリュカはそんな私の内心を見抜いてか顔を険しくして、びしっと人さし指を立てる。
「そうだよ。向こうは君を狙ってるんだから、下手に動かない方が居場所を知られないで済むだろ。ましてや部屋に帰すなんて見つけてくださいって言ってるようなものだ」
「そ、そっか。なるほど……」
叱られている内容はまっとうなもので、私は唸りながらも納得するしかなかった。むやみに動くなってことだ。私もさらなる迷惑をかけたくはない。
「それに、ここなら僕も色々攻撃ができそうだからさ」
ふっと微笑みながらリュカは意味ありげに応接間を見渡す。
つられてその視線を追った私は、その意図を察して凍りついた。
応接間の壁には、リュカが客人と自然に対談できるよう特別に大きい絵が掛けられている。
そこに描かれているのはソファに、テーブル、花瓶、壁に掛かった飾りの剣、などなど——。
大きなキャンバスの中でなら彼も存分に動けるだろう。攻撃に使えば威力の大きそうな家具全てを動かすことができるリュカが言う色々を想像して、私は身震いした。
「……頼もしいわ」
「でしょう。安心していいからね、アネット」
ええ、と答えながら出来るだけリュカがその力を使わないで済むことを祈った。
魔女が捕まった、という報せを携えてヴァルサスさまが戻ってくるまで、それから半刻。