剥がれた絵具の下
アネット視点に戻ります。
「……ット様、アネット様。何か考え事ですか?」
とんとんと肩を叩かれて、我に返った。
メリルが櫛を持ったまま、鏡の中の私を見て首を傾げている。
ドレッサーの横に出したテーブルの上には、数種類の髪飾りが並んでいた。
「ごめんなさい、メリル。なんの話だったかしら」
「ですから、夕食の席につけていかれる髪飾りはどれがお好みでしょうか、と……」
「あー……これとか?」
私はその内の一つ、淡いクリーム色の花の飾りがついたものを選ぶ。
メリルはそれを取りやすい手前に置いてから、また私の髪を梳き始めた。
「何をお考えになっていたんですか? ひどく難しそうなお顔でしたけど」
「ええと……リュカのことで」
「まあ」
「あの、メリル、多分あなたの想像しているような悩みじゃないわ」
いわゆる恋バナを望んでいるのであろうメリルには申し訳ないが、そういう感じではない。
ではどんな、と言いたげなメリルに、どうしようか悩んでとりあえず簡単に説明してみることにする。
「リュカの代わりになる役者さんを雇うっていう提案をヴァルサスさまにされたの。私とその人で王都まで行って、仲の良い夫婦であることをたくさんの人に見て貰おうって」
「……あぁ」
心なしか落胆している気がするのは気のせいだろうか。
メリルのことだから面白い話ではなくてがっかりしているという可能性が捨てきれないのがなんとも言えないところだ。
「そうすればリュカが健在で、結婚の話も事実だって皆に信じてもらうことができる。それはわかるのよ。だけど……」
提案を受けたときのことを思い出す。リュカもまた私と同じように驚いて、すぐに答えを出さなくていいようにヴァルサスさまに頼んでくれた。
私を応接間から帰したあとも何か兄弟で話しているようだけれど、その話題はきっとあの提案についてだろうと思う。他にない。
「……どこの誰とも知れない偽者と夫婦を演じるのは躊躇いますか?」
「そうね、そういうことなのかも。知らない相手と婚約話が持ち上がったときはここまで気にしなかったんだけど、知ってる人間の偽者だからかしら……」
なんとなく、耳に手を遣った。そこには今真珠のイヤリングがついている。まだリュカに貰ったものは見つかっていないから、その代わりだ。
「リュカが早く元に戻ることができればね……あの魔法をかけた人が見つかって解いてもらえればいいんだけど、見つかりそうで見つからないわね」
「そうですね」
「提案、受けるしかないのかしら……」
ため息をついている間にも、メリルは器用に私の髪を編んでいく。
「メリルはどうしてリュカは絵にされたんだと思う?」
「ええ? 恨みがあったとか……?」
「かけた相手の行方とか目的を考えるなら、まずは動機から考えていくのがいいと思うの。だって、例えばリュカを絵にして飾るのが目的とするなら、持ち去らなかったのは変でしょう?」
「……なるほど。アネット様、頭いいですね」
「というか、使わざるを得ない状況というか……」
目を逸らす。なんだか気がついたら実家にいたときと同じような状態になっているような気がしなくもない。やっぱり私は考えを巡らせずにいられない性格なのかも。
「……うーん、そうですねぇ」
メリルは唸った。それから、推理には向いていないんですけどねぇ、と前置きして口を開く。
「好きな人が永遠に誰のものにもならない姿にしたとか」
ぞくりとした。
メリルは平然とした顔で作業を続けている。ごく自然に出た考えのようだった。
「……メリル、なかなか怖い発想をするじゃない」
「恋愛小説だとよくありますよ。アネット様にもよろしければお貸ししましょうか?」
「いえ、遠慮しておくわ……」
メリルが普段何を読んでいるのかは気になるところではあったけれど、知らないほうがいい世界のような気もする。
深くは考えないでおこう。なんだか怖い。あとレクバートさんがちょっと心配になる。
「だって、求めて拒絶されるよりも、確実に眺めていられる方がいいじゃないですか」
「確実に……」
「一番近くで眺めていられるのが決まっているのなら、それは恋人とも同じでしょう? それだってとても幸せなことだと思うのです……邪魔者がいないなら」
「……メリル?」
髪に触れる手が止まり、私はわずかにメリルを振り返る。飾りをつけるのかと思ったけれど、違った。
そこで目に入ったのは──短剣を振り上げるメリルの姿だった。
「あんたが消えれば」
頭が危険を訴える。
その言葉を聞き終わるか聞き終わらないかのうちに、私は思い切り体重をかけて椅子を横倒しにした。
半ば転ぶようになりながら私の体はその場から逃れ、それと同時に一瞬前まで私がいたところを銀色の刃がすり抜けていった。
「メリル!? 一体どこからそんなものを……」
「もう時間がないのよ。死んで貰うしかない」
「メリル!」
話しかけてもまともな応答がなされそうにない。というか、今のメリルは明らかに正気ではなかった。
首を傾け、瞬きもせず、表情は固まって動かない。なのに、壊れた人形みたいな動きをしながら、彼女は短剣を振り回して私に迫る。
(少なくとも、説得は無理そう……!)
考えるや否や、私は部屋から飛び出していた。
父と兄からもしも何かに巻き込まれたときに、と色々な話を聞かされたし手ほどきもされた。それらは実際に二人が見聞きした社交界のトラブルであったり、ごたごたした男女関係のあれこれから、財産関係のバトルなどなど……とまあそこはどうでもいいのだけれど、とにかくいくらかのパターンは頭に浮かぶ。
さすがに何が起きているのかまでは把握しきれていないけれど、正気を失った人に襲われた場合の対処法は「とにかく、距離をとる」だ。そうだったはずだ。
問題は、それを思いついて考えるのと実行に移すのとではまた違った難しさがあるということだけれど。
(普段着ならまだしも、正装では大きな動きもできないし)
叩き込まれた護身術も制限されるし、何より走りづらい。それがもどかしかった。
「誰か! いないのっ、助けて!」
できるだけ大きく声を張り上げる。
こういうときは恥ずかしいとか思っていてはいけない。淑女が大声なんて、という恥は放り投げて叫ぶのが一番助けが来る可能性が高い。
けれど一向に誰かが来る気配はなかった。
(誰もいないなんて。そっか、夕食の準備の方に行ったってこと──)
ただでさえ人数の少ない屋敷だというのに、今はヴァルサスさまを迎えての夕食会の準備中。厨房やホールまで走り切らないと、人はいないかも。
「……っ」
靴を脱ぎ捨てて裸足になる。
重たいドレスに着替えてしまったのがしんどい。おまけに、以前は簡単に引き離せていたメリルは今や別人のような身体能力で私に迫っていた。
近づかれて、伸びてきた手に捕まりそうになる。
フェイントをかけて反対方向に逃げることでなんとかやり過ごすけれど、それはただ時間を引き延ばしているだけだった。そして、伸びた追いかけっこの時間は私の体力を削り、メリルに味方をする。
(こんな格好で、鬼ごっこなんて、無理がある)
弱気を振り払おうとぎゅっと目を瞑った瞬間、思い切りドレスの裾を踏んづけて前のめりになる。バランスを立て直すこともできず、私はそのまま地面に倒れ伏した。
「あっ……」
「追いついた」
元々大して離せていなかった距離は、あっという間に埋まる。
私の上にかかった影はメリルのものだった。鬼ごっこはおしまいだ。
「手間取らせやがって。あんたが消えてくれれば」
「メリル──いえ、エレーヌ……?」
「消えてよっ」
メリルと話している気が全くしなかった。
表情や言葉遣いだけの違和感ではない。短剣を握りしめて私を見下ろすのは、爛々とした嫉妬の炎を目に湛えた──誰か他の娘だ。
「アネット!転がってでもいいからそこから離れて──離れろ!」
声が響いて、反射的にその場から飛び退く。
次の瞬間、倒れてきたのは廊下に飾られていた甲冑だった。それは見事にメリルの後頭部に直撃し、彼女はその場に倒れる。
大きな音がして甲冑はその場にばらばらに散らばり、その真ん中に動かなくなったメリル。事件現場だ。見た感じ、血は流れていないようだけれど……。
とにかく、私はそれをやっただろう人の方を見た。
「……リュカ」
振り向くと、背後にかかっていたのは一枚の大きな油絵。
リュカが、肩を上下させてこちらを見下ろしていた。その足元には現実と同じように、銀色の甲冑が倒れている。
「怪我はない? こっちに来て、見せて」
リュカは床に尻餅をついたような体勢になっている私を少しでも見ようとしているのか、屈んでぴったりとキャンバスに手をつけた。
わかっている。彼はその布の隔てたところから、こちら側に来ることはできない。だから私は、よろよろと立ち上がって彼の方に歩く。
「大丈夫、転んだけれど大したものじゃないわ。それより、メリルは……」
「あの甲冑、そんなに重くないやつだよ。たんこぶくらいはできるかもしれないけれど……」
メリルがうぅ、とうめき声を漏らす。駆けよろうとしたら叱責が飛んで来た。
「馬鹿っ、気がついたらまた襲われる可能性もないわけじゃないでしょ」
「そ、そうでした」
「アネット、そのまま走ってヴァルのところに行って。まだ応接間にいるはずだから」
「ヴァルサスさまに!?」
「メリルは僕が見てる。だから行って、アネット。次に君がメリルに見つかって、周りに助けられる人がいなくて、僕が動かせるものも何もない状況になるのが怖い」
矢継ぎ早にリュカはまくし立てて、私を急かす。少しだけ悩んで、私はまた走り出した。
もうとっくに息は切れている。速度もさっきよりは落ちた。髪は確実にぐしゃぐしゃだし、ドレスも踏んづけるわがむしゃらに走るわできっと見せられた格好ではない。でも、そんなことを言っている場合じゃない。
(──早く──)
伝えなくては。
わけもわからないまま、私は走った。