悪い予感
リュクトール視点のお話です。
『よし。ではやはり、リュカの代わりに夫役を演じてくれる人間を用意させよう!』
唐突に訪ねてきたヴァルがもたらした、唐突でしかない提案。
せめて夕食のときまで考えさせてほしいと頼んで、僕は答えを保留にした。
それから、少し兄弟で話をつけたいと言ってアネットを部屋に戻らせた。彼女も戸惑っていたようだし、猶予を作ったのは正解だったんじゃないかと思う。
はっきり言ってヴァルは勝手すぎる。
偽装結婚を疑う連中を黙らせるため、僕の替え玉を用意して盛大にお披露目をする――。
悪夢としか思えない提案だった。
ヴァルの言い分は分かる。
ヴァルやマルクに比べれば僕は顔が知られていない。他人に演じさせることで起こる違和感は、彼らに比べれば誤魔化しやすいものかもしれない。
ただ。
「……仮に想像してみて欲しいんだけど、ヴァルは自分の婚約者が自分のふりをした別の人間と仲睦まじく振舞ってても良しとするの」
「嫌だな」
「自分が嫌だと思うことを僕にしないでくれる?」
即答で断言できるぐらいなんだから言わないで欲しい。と目で訴えると、ヴァルは悪びれもせず首を振った。
「嫌だが、それとこれとは別だ。このまま疑惑を放置するのは良くない」
「……偽者だとバレたときの危うさは? 考えてるの」
「何もしないよりは確実に良い」
涼しい顔をして紅茶を啜っている。
面倒だなあ、と僕は思った。
面倒だけど、僕に選択権と呼べるほど強いものはない。
(外で動ける体がないから……違うか、こうなる前からそうだった)
いつからか、パーティーには出ない方が良いと言われるようになった。
パーティーだけでなく、スポーツの観戦や庭の散策にも。
学校も、家庭教師で十分だと誰かが言った。
別にそれに不満はなかったし、今でもない。
王位にも興味はないし、ヴァルがやりたいならやればいいと思う。
大人しく人前に出ない次男をやっていれば命を脅かされることもなく平穏に暮らせるっていうなら、大人しくするまでだ。
僕はそういう方針で生きてきた。
「……でも、嫌だなあ、やっぱり」
呟くと、額縁の向こうのヴァルが片方の眉を上げた。
ヴァルと僕の顔はそれなりによく似ているから、まるで鏡を見ているような気分になる。けど、違う。
「僕は嫌だよ。その作戦」
「リュカ。これは感情で決める問題では」
「わかってる。悪い噂を否定しなければ父上の不利益にも、兄上の不利益にも、マルクの不利益にもなる。当然僕の不利益にもなるし、アネットやその実家にも迷惑がかかる。誰も得をしない」
僕と関わりのある全ての人を順番に思い浮かべる。本当に誰も、一人も得をしない。
「そして噂を払拭するための手段は、今や僕が堂々と姿を見せる以外にない。他は大した効果がないだろうからね」
「よく理解している。……では何か? その絵の中から出る算段が立ったのか?」
ヴァルは落ち着いていた。
僕が我儘を言い出したのに対しては意外そうだったけど、そんな反発を受けても落ち着いた態度を崩さないのは彼の中での決定が揺らいでいないからだ。
指摘を受けて口ごもったのは、むしろ僕の方だった。
「……いや……それは」
「厳しいことを言うが、あまり長くは待てない。陛下は一刻も早くあの不名誉な噂に対処することを望んでいる。私は今回ここで話をつけてアネットを城に連れ帰るつもりで来たんだ」
目を瞠る。
これは突拍子もない提案ではなく、練った上で動かされた計画だったらしい。
僕の代役云々は半ば思いつきかもしれないけど、アネットを利用してうるさい勢力を黙らせようという腹積もりはあったに違いない。
「ヴァル」
唇を噛んで、また開いた。
「僕がここから出られるか、アネットを引き渡して代役を受け入れるか。そういう二者択一だろ」
「ああ」
僕は怒っているんだろうか。
とにかくヴァルの決定が気に食わないのは確かなんだけど、一方で反論しきれない自分の及ばなさも理解している。
(……違うな、悔しいのか)
何を悠長にやっているんだと、ヴァルに言われるまでもなく自分が一番思っている。自分で思っていることを指摘されるのが悔しい。
保身を図りたいのは何も父上たちだけじゃない、僕もだった。
自分の立場が危うくならない範囲で。
王子として、良き領主としてわきまえた範囲で。
アネットに嫌われない範囲で、数少ない手放したくないと思うものたちを手放さない範囲で動こうとすれば、当然制約がつく。
それが僕にとっての枷であり、弱味だ。
「城から消えたエレーヌ・デラについては、最近また少しずつ情報が出てきてる。アネットが協力してくれたから。何も進歩がないわけじゃない」
結局負け惜しみじみた言葉を吐くことになって、情けなかった。
報告は常に上げている。僕の動向は把握されている。それでヴァルも僕が彼の提案を呑まざるを得ないことを前提にしているんだろう――と、思っていた。
「ん? そうなのか。なら、希望が全く見えないということでもないんだな」
「……え、知らないの?」
拍子抜けしてしまった。
ぱちぱち何度か瞬いてヴァルを見つめていると、ヴァルもまた瞬きながら僕を見つめ返してきた。
「知らないな。報告を読んだ覚えがない」
「……。そう……なんだ」
全部知られていると思っていただけに、急に力が抜ける。
それと同時に、ある疑いが生じた。
「あのさ、もしかして僕がこの三年間何もできずに過ごしてたと思ってたりする?」
「思うように動けていないのだろうなとは思っていた」
「……」
本当に何も報告が行っていなさそうだ。それか、報告が正しく伝わっていないか。
ヴァルがよく直接話に来ることを正直ちょっと冷めた目で見てたけど、彼の方が正解だったのかもしれない。
「その反応、私の与り知らないところで、実はもうほとんど解決に向かっていたりするとかか? それなら願ったりなんだが」
「……まあ……機を窺いながらゆっくり、なんてことはやめようかなと今思ったよ。ちょっと出てくる」
ため息交じりに立ち上がると、ヴァルが視線で「どこかに行くのか」と訴えかけてきた。
「夕食まであとどのぐらいかかるか聞いてくるよ。アネットにも身支度を整える時間を教えないといけないし……ヴァルの提案についての相談もしたいし」
「わかった、私は案内があるまで待っていよう」
また紅茶を啜っている。
ティーポットは置いてあるからなくなれば勝手に飲むだろう。
ちらと横目で「次」の額縁を見て、そこへ向けて歩き出す。
僕にとっては扉も鍵もある意味無意味だ。もしかすると距離も現実のものとは異なっているかもしれない。確かめる術はないけど。
(……もう、あまり不満はないとか言ってられないな)
* * *
厨房に向けて歩いていると、前方から一人のメイドが歩いてくるのが見えた。メリルとは別に雇っている、一応僕の存在を知っている人間だ。
ただの絵画のフリは必要ないか。そのまま歩くついでに少し労いの声をかけるぐらいはしようかなと考えていたら、向こうからこちらに気づいて寄ってきた。
「リュクトール様」
「ああ、ご苦労さま。何か用?」
「差し出がましい真似かもしれませんが……アネット様にお渡しする前に、お伝えしておいた方が良いのではないかと思いまして」
何かを布で包んで運んでいるところだったらしい。しかもアネット宛て。
それを僕に先に伝えるって何なんだろうとは思ったけど、開かれた包みの中を見て驚いた。
イヤリングだった。
僕がメリルを介してアネットに贈ったものだ。
それが、何か重たいものを叩きつけて砕いたみたいに割れていた。
「……これ、どこで」
「先ほど、廊下で。どこかで失くしてしまわれたそうで、ずっと探しておられたんです。旦那様に貰ったものだからと。何事もなく戻ればよかったのですが……」
本気で僕とアネットのことを気遣ってくれているとわかる、潜めた声だった。
アネットが何かを探していたのは知っていた。イヤリング、贈ったはいいけれどつけてくれてはいないんだなとも思っていた。こういうことだったんだ。
「どうか責めないで差し上げてください」
僕が険しい顔をしているのを腹を立てているとでも思ったのか、彼女はそう訴えた。
責める気はない。わざと失くしたなんて思っちゃいないから。
そこが問題だった。
「……ありがとう。叱るつもりはないよ。あのさ、そのイヤリングもう少しだけ預かっておいてもらえないかな」
「もう少しだけ……ですか?」
「壊れたって知るとアネットがもっと気まずい思いをするだろうし。僕がうまくやるから、話がつくまでまたどこかに行ってしまわないよう大切に持っていて欲しいんだ」
しっかりと目を合わせて真剣に訴えかければ、ややあって頷きが返る。
そうしてお仕着せのエプロンのポケットの中に布に包まれたイヤリングが仕舞われるのを見届けて、僕は彼女と別れた。
行き先を変えることにする。厨房よりも先に、アネットの部屋へ。
(嫌な予感がする)
拾ったメイドはアネットの心情を慮るのが先に来て気づいていなかったようだけれど、あのイヤリングは明らかにわざと壊されていた。
そもそも、いくらイヤリングが小さいと言っても失せ物が長らく出てこないことがおかしい。この屋敷はそう広くないし、さらにアネットの行動範囲と言えば限られるし、人の出入りも少ないのに。
だからアネットは自分のうっかりか、あるいはお化けがどうこうとか考えているんだろうけど……一つ可能性が抜け落ちている。
(なくしたんじゃなくて、なくなった可能性もあるんじゃないかって疑ってた。盗まれたか、隠されたか……どっちにしろ良くない)
足を速め、遠いアネットの部屋の絵のあるだろう場所へ急ぐ。
アネットが頑なとはいえ、あの夜無理やりにでも問い詰めておけばよかった。
「……ああもう、後手だ!」
苛立ちが口を衝いて出た。
屋敷の人間を疑いたくなんてなかったけど、なくなったものがさらに壊されて見つかったとなれば。
――僕の悪い予感は、嬉しくないことに的中してしまったってわけだ。