回想、あるいは走馬灯
そもそも、なぜこんなことになってしまったんだっけ。
広いエラシア大陸の内陸部に位置するトゥイス王国の端っこ、隣国との境近くの一帯を有するタルシラート侯爵家が私の実家だ。家族構成は父と母と三つ上の兄。代々国境警備を任されてきただけあって父は絵に描いたような武人で、その後継の兄はかなりびしばししごかれている。周りからのプレッシャーも大きいんだろう。けれど妹の私はというとそうではなくて、わりと好き勝手させてもらっていた。
ただし、好き勝手できるからと言って優雅な暮らしができていたってこともない。
「なんかの間違いじゃないのか?」
嫁入りが決まったと伝えた時に開口一番兄が放った言葉はそれだった。
「残念ながら間違いじゃないです、兄さん」
「しかも相手は第二王子で、お前を嫁に取るのと同時に事実上の継承権破棄? どう考えたっておかしいだろう」
「それは私も思いました。設定上そのぐらい私と愛し合っているそうですが、そんな事実はありません」
訳ありなのは最初からわかっていた。父から聞いた「設定」は突飛すぎるし、現実に少しも即していなかったから。兄もそれを疑ってくれているものかとちょっと見直しかけたんだけど、続いた台詞はこれだった。
「いやそっちじゃない。おまえ、どうやって王子様を騙くらかした? 深窓の令嬢、ましてや王子の寵姫なんて言葉とは真逆のくせに」
「失礼な! そうなったのは誰のせいですかっ、誰のっ」
ばんと机を叩きながら兄に反論する。兄のオッドは座ったまま頬杖をついて、私より少し濃いブラウンの瞳を向けて来た。そこにまったく動揺の色は見られないというか、結局私がいくら叫んだところでこの男に悪びれる気は一切ない。
「兄さんたちが面倒ごとを全部なあなあにする性格なせいで、私や母さまが割を食ってるんでしょうが」
「そういえば粉挽き小屋の旦那さんが礼を言ってたぞ。おまえが走り回ってくれたおかげで効率が倍になったそうだ。よかったな」
「話をそらさないで!」
さらにばんばん机を叩くけれど、兄はどこ吹く風だ。
ちなみに粉挽き小屋の件というのは私が二ヶ月くらい前に受けた相談で、今年は麦が豊作だったのは良いものの今の水車のペースじゃ挽ききるのに時間がかかってしまうから良い知恵が欲しいというものだった。主食が麦粉を練って焼いたものである以上、その粉は私たちの生活にかかせない。豊作のお祝いを盛大にやったから民たちは麦粉が安くたくさん手に入ると思っている。けれどいざ粉屋さんに行ってみたら、全然加工が追いついていないというわけだった。そういう相談に乗るのも領主のつとめ。……にも関わらず、父も、兄も、この件に関してまったく役に立たなかった。
「そらしてないさ。どこの領にのこぎり持って大工仕事する令嬢がいるってんだ?」
「せざるを得ない状況だったからでしょうが!」
「だから新しい水車を買えばよかったのに、アネットはけちだな」
「そういう問題じゃないのよっ」
そう、言うなれば、うちの家系の男は揃いも揃って脳筋なのだ。当然のように近しい部下も似た発想。畑の収量が減ったなら新しい畑を拓けばいいんじゃないのかとか、的確なようで全く的確じゃない論理を簡単に言ってのけるような連中だ。そこで土壌の改良とか水路の調整とかをまったく考えてくれない。
水車の件も、そもそもは領主である父にまず相談され、それを父が次期領主の兄に投げ、兄が「なら水車小屋を増やせばいいじゃないか」などと適当に答えているのを見かねて私が引き取ったものだった。国防の関係でうちには同じ爵位の貴族よりもお金や発言力があるとはいえ、ぽんぽん使っていたらあっという間に潰れてしまう。そういう計画性ってものが父や兄にはまるでなかった。
算学ができなくても剣術ができれば人生なんとかなるってやつだ。なんとかなってるのにはからくりがあると言うのに。
(母さまや叔母さまが頑張ってるからこそのうちの領だってのに)
世間知らずなくせして力があるからだいたいなんとかなってしまう、そんな困った当主たちのブレーキ役をしているのが歴代の妻やら姉妹たちだ。経理にも目を通すし、領民の生活にもしっかり目を配っている。麦も野菜も、時期になったら勝手に生えてくるものじゃない。天気だってあらかじめ決められているわけじゃないから、それに合わせて生活だって変わる。
「質問ですけど、兄さんは今年の麦の取れ高を知ってますか」
「知らんが、食うには困らないんだろう?」
ほらこれだ。
父に似て筋骨隆々、剣術の腕も弱冠20歳にして歴戦の将たちにひけを取らないとかなんとか、よくわからないけど幼い頃から何度もことにつけ表彰されている兄はとにかくよくご飯を食べる。出されたものは残さず平らげるし、おかわりを求めても出てくるぶんは全て食べていいと思っている。
食べ物は無限じゃないんだから、次の収穫期までの配分とか、もしも次が不作だったときのことも考えてやっていかないといけないのに。特に父が武勲を挙げる度に少しずつ拡張されていく領土は、確実に養うべき人数を増やしている。
「必要なところにはお金をかけるべきだと思いますけれど、二つ返事でなんでもかんでも買って解決するのはやめましょうねって話です。水車だって直したら解決したでしょう」
「ああ、おまえはすごいよ」
「そう思うなら兄さんも気をつけてってば」
水車の馬力を増やすのにはじめ考えたのは流れる水の量を増やすことだった。でも、共用の水路を変えるためにはあちこちに話を通す必要がある。こちらに流れるぶんどこかに不利益が出ることだってありえるのだから。それで交渉を試みて、無理だと思ったから私は作戦を変えた。
つまり、今ある水の流れをもっと効率よく回転に繋げられる設計に水車の方を変えればいい。昔家庭教師をしてくれていた人を頼って相談したり、自分でも小さな模型を作って実験したりして改良型の水車を作った。
と言っても板の大きさと角度に修正を入れただけのものだから、もっと専門的な知識がある人が見たら大したことのない改造かもしれない。それでも兄の対応よりは遥かにマシだったと自負している。
「私が嫁に行ったら兄さん、どうするの?」
「どうもしないさ。それよりおまえは猫かぶれるかどうかの心配をしろよ。下手したら首が飛ぶぜ」
「……兄さんなんて早々に禿げて領民のお笑い種になってしまえ」
「妙な呪いをかけるな、アネット!」
慌てたように兄は生え際に手を遣り、私はふんっと鼻を鳴らす。昔父の執務室にある歴代当主の肖像画を見ながら兄をからかってやったことがあるけれど、かなり気にしているらしい。現に最近父も髪が薄くなってきているようだし、家系だ。
「まだ母上の家の血が濃いかもしれないじゃないか、ほら、顔は伯父上に似てるって言われるし、ほら……」
自己暗示でもするように兄はぶつぶつ呟いている。考えてみると怪談話とか迷信に弱いのも家系かもしれない。あり得ないとは思っていても、どうしても気になってしまうのだ。今回はそれを利用して兄にダメージを与えてやったわけだけれど。ふん。
……とまあ、こんな感じで、私の人格形成はだいぶ市井寄りというか、実際市井寄りだ。
小さいころからあちこち相談事の解決のために走り回っていたのもあるし、女きょうだいはいないし屋敷内を出入りする人も男性が多かったからおしとやかなお嬢様像というのを学ぶ機会がなかったというのも大きい。兄とは昔から口論が絶えないし。仲はまあ、言うほど悪くはないと思うけれど。
何よりも私のコンプレックスは、煌びやかな社交界にまるで向いていなかったことだ。肌はそこまで白くないし、脳筋一家の弊害で言葉遣いが粗野な自覚もある。兄との口論に勝つのに仕方なかったとは言い訳にしかならない。出しゃばらずに何も知らずに、ただたおやかにそこに佇むのが是とされ、陶器みたいな綺麗な肌と華奢な体躯を持つ他家の令嬢の皆さんとは別の生き物に生まれたとしか思えないというか。
それに加えてまだ何も知らなかった幼少期にある「やらかし」をしてしまってからというもの、私はそういう場に居づらくて仕方なかった。家のために必要なら出るけれど、できるなら避けて過ごしたいのである。
「……じゃあ私は引っ越しの準備に戻りますけど、元気にやってくださいね、兄さん」
ある程度はすっきりしたので、ふーっと息を吐いて私は兄に一礼する。本当に困った状況に陥るなら肉親として助けてやりたいけれど、私はもうすぐタルシラート家の人間からは実質的に外れる。なんだかんだ、毎日のように顔を合わせられるのはこれが最後かもしれない。そう考えると人間感傷的になるものなのか、私も兄もなんだか神妙な顔をして見つめ合った。
「まあ……せいぜい、ふてぶてしく生きて幸せになれよ。アネット」
「……」
普通に言ってくれれば良い言葉に、余計なことを加えるのがオッド・タルシラートという人物だ。17年も妹をやっていればわかる。だから私はこめかみに青筋を立てるのを今日はやめにして、ため息ひとつで済ませた。
突然降って湧いた美味しい話の真意はわからないけれど、私は私で満足いく人生を勝ち取ってみせる。この何かと腹立たしい兄をぎゃふんと言わせられるぐらいに。
そんな目標を胸に、私は婚約者殿の暮らす領地へと向かうことになった。