重ねた絵の具のように
合流して以降、ずっとリュカは不安げだった。ヴァルサスさまと私が何を話したのかが気が気でないらしく、ちらちらとこちらを見てくるのがなんともわかりやすい。
一方のヴァルサスさまはすっかり私に対して「お気に入り」の印を捺したのか上機嫌で、それもそれで対応に困った。
『何か困ったことがあればなんでも言いなさい。……そうだ、先程話したことは内密にね』
などと言うものだから、リュカには余計な不安を与えまくっていることだろう。大丈夫、何故か気に入られただけです。
そう言ってしまえば済む話ではある。……のだけれど、第一王子じきじきの「内密」願いを蔑ろにすることもできず、私は教えてやれずにいた。
「……不倫じゃないよね?」
じとり、と湿ったような視線が頭上から降ってくる。お決まりの無断侵入——私の寝室のベッドの上に掛かった額縁から、リュカがこちらを見ていた。大変にいじけた顔をしている。
「当たり前でしょう。なんでいきなりそんなことになるの」
「ヴァルが二人だけの秘密とかなんとか散々言って煽るせいだよ。信じてるけど、まさかそんなことになったら……」
「向こうは向こうでご自分の恋人に夢中みたいだからそれはない」
とんでもロマンティストだと発覚した義兄は、あのあと私以上に自分の惚気話を披露してくれた。まあ私の方に弾がないんだからそれは必然なんだけど、それにしてもあちらの弾数が多すぎる。あれだけ仲睦まじいならうちの国の将来は安泰でしょうね、はいはい。ちょっと胸焼けしそう。
「じゃあ何が秘密なの?」
「仲良くなったことじゃないの? 勿論浮気じゃないけれど。流石リュカの兄って感じがしたわ」
「それどういう意味?」
「人を煙に巻くような物言いで自分の好きなように話を進めるところとか」
「……わかった、とりあえず褒め言葉と受け取っておくよ」
それは肯定的に取りすぎじゃないだろうか。恨み言でもあったのに。
澄まして額縁に頬杖をつく彼に、私は一つ補足をする。
「でも少なくともリュカはそれだけじゃないわよね。最近わかってきた」
お世辞、もといご機嫌取りではない。どちらかと言えば意趣返しのつもりで、私はそう言った。
「それだけじゃない?」
ぴくりとリュカが眉を上げる。昼寝から覚めた猫みたいだった。
「なんというか、貴方はなんだかんだで誠実なのかもしれないと思ったの」
「……誠実? 僕が?」
「そう」
「さっきの言葉と矛盾してない?」
リュカの指摘はもっともに聞こえた。確かに相反するような表現かもしれない。それでもそれは矛盾しないと私は思う。捉え難い抽象画みたいに絵の具を塗り重ねたその下に、確かにその誠実さはあるような気がするのだ。
「誰も見たままが真実とは限らないわ。リュカも一見ふざけてるのかしらって思うときがあるけれど、総合的に見たらそこまでふざけてない」
「……何だそれ」
ふい、とリュカは顔を背けた。繊細な筆致で描かれた金の髪の隙間から、淡い紅色に色付いた耳が見えた。
(なんだ、わかりやすい)
絵だからかもしれないけれど、少し面白かった。
はっきりとした根拠があるわけではないけれど、少なくとも今の私に嵌められているかもしれないという不安はない。不審な事情しか漂ってなくとも、今のところ私のために色々してくれているのは間違いなさそうだから。
「私、貴方のこと結構好きよ」
「結構。結構ね。そこは嘘でも愛してるって言ってくれない?」
「それこそリュカに対して誠実じゃないけどいいの?」
「良くない」
顔は背けたままちらりと私を見て、彼は口を尖らせた。
「良くないけど、やっぱり君はいつまで経ってもつれない。それも素直に受け取れないな」
「いつまで経ってもって……」
まだそう言われるほど長い時は過ごしてないと思うんだけど、何を言っているのか。そういうのは十年来の仲とかになってから言って欲しい。……そんな長い付き合いになってまでこんな調子なら、それも問題か。リュカは言葉が足りなさすぎる。
「私の隠し事は気になるって言うくせに、自分の隠し事は何ひとつ教えないのね」
ベッドの上に立ち上がって、絵の中の彼と目を合わせた。行儀としては褒められたものじゃないけど、こうでもしないと高さを合わせられない。私がそんな行動に出るとは思ってもみなかったのかリュカはぱちくりと瞬き、私はさらに挑発するように目を細めてみる。
「明日正式に婚姻を認めてもらうわけでしょう? ひとつぐらい隠し事を打ち明けてくれてもいいんじゃない? そうしたらちょっと私の心も変わるかもしれないわ」
「良くない方に変わるとか言わないでよ」
「突然悲観的にならないで!?」
少し駆け引きに出てみようかと思ったのに凄い勢いで引いて行かれて戸惑ってしまった。ああもう、そういえばこれも謎のひとつだった。
口を開けばいくらでも弁の立ちそうなリュカが、唐突にしおらしくなる条件。つまり私が彼を嫌う嫌わない云々である。
(そんなに好かれるようなことをした覚えはないんだけど……かと言ってそういう”フリ”でからかおうとしている感じでもないし)
これは本当に、手掛かりのない謎だ。何が彼の琴線に触れたんだろう。
「……心配せずとも第一印象より悪くなることはそうそうないと思うわ」
「えっ、もしかして僕相当危ない綱渡りしてた?」
「絵になりすまして脅かしてくる人に良い印象を持つ方が難しいんじゃない?」
「うっ……」
初対面だから私の苦手なことを知らなかったという情状酌量の余地はあるとはいえ、それでも初対面の人にやることか? という話である。特に私、がちがちに緊張してたのに。
それを知った上でもう一度やるぐらいのデリカシーのなさを見せつけてきたら流石に考えを悪い方に改めるけれど、そういうことじゃない隠し事には比較的寛容に対応できるつもりだ。できるようになってしまった。自称するのもなんだけど、今の私の懐の広さは大陸レベルに違いない。
「……じゃあひとつだけ」
リュカが長く息を吐き出す。何を言うか吟味しているようだったから、私も何を言うのかと僅かに緊張してその時を待った。
「僕は君のことを信頼している。言葉では言えないこともわかってくれるはずだって。これは真実だよ」
「言葉では言えないことって……」
だからそれを聞きたいのって言おうとして、私は彼の真剣な眼差しが僅かに下に向けられていることに気がついた。顔自体はまっすぐこちらを向いているのに、なんだかそれは不自然だった。
つられて下を見て、すっ、すっとちらつく彼の指先に気がつく。何かを描いているような動き。私の視線がそちらに向いたことを確認して、彼は指の軌跡でこう綴った。
【いまは まだ】
肩を竦め、彼が首を振る。読みとった文章はひどく短いから、多分間違いはないはず。でもその意味がわからない。結局教えてくれないということじゃないか。
(……言葉、指文字、ジェスチャー……)
どうして彼は三つの表現を使ったんだろう。それは今までの話の中身からすれば不自然な動きだ。普通に考えて、誤魔化すにしてもそんなまどろっこしい手段を取る必要はない。
「……言えないこと?」
「……」
リュカは何も言わなかった。肯定もしなかったし、否定もしなかった。
(口に出せない……話せない? それも何かの魔法……というよりも……言葉にするとまずい状況?)
それってなんだろう。まるで監視でもされているみたいだ。ここには私と彼しかいないはずなのに。
ふっとリュカが笑んだ。けれどその眉の間には少し皺が寄せられていた。