王太子殿下の秘密(前編)
今話から新章になります。
一週間が経った。
さて、この地における私の仕事はというと、リュカの仕事の手伝いが主だ。なんだか実家にいたときとたいして変わっていないような気もするけれど、分からず屋の兄と違ってリュカは真面目なときは真面目なので喧嘩になることは全然なかった。
レクバートさんももちろんリュカの側近として色々な仕事をこなしているものの、一人でやれることにはやはり限りがある。主人の手足として外交的な役回りをしたり領内の巡回をしたりと日々忙しそうだ(この間の森の一件で駆けつけてくれたのも、そんなパトロールの最中だったかららしい)。
そんなわけで、私が申し出て分業制で領主のサポートをすることに相成った。と言ってもほとんどはリュカから「おつかい」を受けているようなもので、例えば蔵書を持ってくるとかめくってあげるとかそんな手伝いだ。
身動きのとれない状況、それに年齢としてもまだ一人で領地の運営を回すには早いと思われる若さ。人の手を借りつつもそれをこなしているのだから、彼はやはりその性格こそ子供っぽいけれど有能な人だった。
今日も執務室でリュカからあれこれ指示を受けながら、代筆をしたり彼に見えるように書類を持ってあげたりする。なんとなくこの作業にも慣れてきた。
今日の作業はこのスピードならいつもより早く終わるかな、なんて考えながら書類に目を通すリュカを眺める。じっと見ているとわかるのだけれど、彼は結構読むのが早い。右から左へ瞳が動いているのを見ているのは少し面白かった。
「リュクトール様、アネット様、よろしいでしょうか」
扉が叩かれて、メリルの声がする。
リュカが私に目配せしてくる。どうすると視線で問われても特に開けられて困ることがあるでもなかったので、「どうぞ」と私は返した。
「失礼します。事前には何も伺っていなかったのですが、そのう……」
「何かあったの?」
入ってきたメリルの声がいつもよりも焦っているように聞こえたのもあって、私は首を傾げながら彼女を促した。メリルは困ったように眉を下げる。
「たった今……ヴァルサス殿下がお見えになられて」
「……い、今!?」
はい、と申し訳なさそうにメリルが頷く。
いや、ヴァルサス殿下って言ったら第一王子、王太子殿下、すなわち次期国王。そしてリュカの兄だ。そんなやんごとなきお方がなにゆえこんな突然。はっ、突然だから意味があるのか。これは抜き打ちテストってやつなのだろうか。
混乱する私の一方で、リュカが呆れた風にため息をついた。
「またか」
「はい、そのようで……」
違った。日常茶飯事だったらしい。
「今回もどうせ行商に偽装して来たんだろう? 毎度毎度近衛に心配をかけて。我が兄ながらよくやるよ、まったく」
「えっ、つまりお忍びってこと……?」
「公務に支障のない範囲だとか本人は言い訳するけど、困った王太子だよね。父上が知ったら怒りを通り越してそろそろ泣いちゃいそうだ」
それって果たして「困った」で済ませて良いものなのか。リュカの父君——つまり国王陛下に無断で国内をうろうろする王太子。思っていたよりずっとこの国の王室はゆる……奔放なのかもしれない。その上絵画にされた第二王子、他国との縁談が進行中の第三王子を抱える陛下の心中は穏やかではないだろう。
「どういう方なの?」
諸事情あって幼少期以来あまり社交界に出ることがなかったから、私は国内の貴人にとにかく疎い。調べても全然情報の出てこなかったリュカは特殊だけど、それ以外の方々についてもけしてよく知っているわけではなかった。おまけに王太子殿下ともなればそもそも会える場が限られる。
リュカは少し考えるそぶりを見せてからにやりと笑った。
「一言で言うと食えない男。天才。はっきり言って無断で出歩いてる最中に仮に襲われても撃退できるぐらいには強い。僕は苦手だ」
「……な、なんか……会うのが恐ろしくなるようなことを並べるじゃない……」
「ヴァルを紹介しようとするとこうなるんだよ」
あ、愛称で呼んでるんだ。苦手とは言うけれど、それなりに親しくはあるのかもしれない。そう考えると今のはある意味憎まれ口であって、そこまで緊張しなくても良い……? いやいや。
リュカとメリルはじめ屋敷の人たちは慣れているかもしれないけど、これはお義兄様とのファーストコンタクト。 ……あぁ、余計緊張してきた。
「アネット、固まってる」
「そりゃ緊張もするでしょう……しかも心の準備もせずいきなりよ?」
「あはは、ごめんね。うちのヴァルが急に来たりなんかするから」
「笑い事じゃない」
恨めしくリュカを睨む。こっちの気も知らないで。リュカに会うとき以上に緊張するじゃないか。
「その調子だとアネット、父上に会う時にはまた倒れるんじゃないかな」
「人をなんだと思ってるんですかねっ、否定できないけど!」
そう。実は私はまだ陛下にもお目にかかったことがない。というのも本来なら真っ先に会うことになるだろうに、なまじリュカの状況が特異なため謁見の場を設ける機会が一切なかったのだった。
「何も一人で放り出すわけじゃないから、安心して。メリル、ヴァルは今どこ? 応接間?」
「はい、そちらにご案内いたしました」
「わかった。じゃあ行こっか、アネット?」
気楽な様子の言葉だったけれど、リュカが私を見る目には有無を言わさぬ雰囲気があった。絵なのに。いやむしろ絵だからこその迫力か。
やりかけの仕事道具を全て片付けて、大切な書類は金庫に仕舞う。執務は一旦中断。何をおいても、高貴な来客の応対が優先事項だ。
応接間と言えば、私がリュカと初めて会った例の場所だった。
屋敷の中でも一番大きな額縁が——リュカの全身を映せる額縁が、来客用のソファと向かい合って置かれた部屋。あの時は私が気絶してしまったせいで早々に場が別室に移ったけれど、思えばあれはリュカと来客が対面して語り合える部屋の構造だったわけだ。
そんな応接間に、未だ心の準備はできないまま私は向かうことになった。メリルの案内で歩く間、ずっと心拍数は上がりっぱなし。一方のリュカがいつもの軽い足取りで廊下の絵を渡ってついてくるのに、少しだけむかついた。