王子様は絵の中に
「……いや、何の冗談ですか?」
考えるよりも前に口からそんな言葉が転がり出た。
自分よりはるかに高貴な方の邸宅にいるということも、今が一世一代の縁談の真っ只中だということもすっ飛んだ。
これは夢のような縁談話だったはずだ。おそらくは私と同じくらいの年頃の女の子なら誰でも一度は夢見るだろうほどの素敵なお話。文武両道の才子と名高い正真正銘の「王子様」との婚約。……今日は、記念すべきその顔合わせのはずだったのだけれど。
婚約者殿は現れず、代わりに私の目の前には何故か大きな絵が置かれていた。
この部屋に案内してくれた「王子様」の側近を名乗る男性を見上げる。にっこりと意味ありげな笑みを返すだけで、彼は何も言わない。何それ、怖すぎるんですけど。気分を害していなさそうなだけ立場的には助かったのかもしれないけれど、それはそれとして!
得体の知れない不安から逃げるべくこの部屋の扉を開けてくれたメイドさん二人を振り返ると、さっと目をそらされた。二人ともにだ。こんなことってあるだろうか。
あー、よし、落ち着こう。落ち着け、私。こういうのは慌てたら相手の思う壺なんだから。いやもう、何と戦っているのかさっぱり不明だけれど。
深呼吸をして、状況をもう一度見直す。部屋に入ったばかりのところで立ちつくしたまま見渡すかぎり、この部屋に私と、案内してくれた男の人と、メイドさんたち以外に人影なし。机の下とかにも居ないと思う。気配察知の術でも身につけていればよかった。
そして人影の代わりに、等身大だろう大きさに描かれた、「ソファに座った貴公子の絵」が壁にかけられている。それはちょうど、部屋のソファに向かい合うような感じで。というよりも、一つしかないソファが壁の絵に向いているわけで、なんとも言えない奇妙さがある。
(普通、応接間のソファって向かい合って二つでしょう?)
この場合、主人と客人が隣り合って座ることになるの? 距離近すぎない?
そもそも視線も全く合わない。壁にかかった絵を見ながら話す? 同じ趣味を共有するため……とか、考えかけてすぐその説を頭から追い払う。それは無理あるって。
うーん、そういえばこの絵の人、すごい綺麗。
現実逃避が過ぎてそんなことに考えが走る。白っぽく光って見える金髪に春の夜明けの空を閉じ込めたみたいな薄紫の瞳、腕のいい職人が作った人形みたいに整った顔立ち、どれをとってもまるで王子様みたいな──いや、王子様なのでは?
よく考えてみたらここはその王子様の別邸なわけで、飾られている絵が肖像画である可能性は十分にある。ありすぎるぐらいに。だとしたらしたで、こんなに大きな自画像を応接間にどどんと置く感性はどうなってるのかと聞きたくもなるけれど。でも、ありえなくは、ない。
頭の中でなんとか会ったことはないなりにこれまで得た「リュクトール王子」の外見情報をかき集めていると、斜め上から声が降ってくる。
「それではアネット様、私どもはここで。あとはごゆっくりご歓談ください。……リュカ様も、お遊びはほどほどに」
「はい?」
さっきの「なんの冗談ですか?」に対する答えも結局返してくれないまま、王子様の側近さんはさらなる爆弾を投下して恭しく礼をする。そしてぽかんとするしかできない私を置きざりにして、きびきびとした動きでそのまま部屋から去っていってしまった。
「えっ、ちょ、ちょっと、あの!?」
追い縋ろうとする前に、無情にドアが閉まる音がする。やけに大きく響いた気がした。
隙間が閉じる寸前の、若干申し訳なさそうな、哀れむようなメイドさんの表情がやけに引っかかるというか、本当に意味がわからなかった。
考えられることその1・私は試されている。
実はこの部屋のどこかに覗き窓でもついていて、私が王子の婚約者にふさわしいかどうか試されているとか。だとしたら私はこの時点でどのくらい減点されているんだろう。考えるだけで恐ろしすぎる。
けれど、さっきの側近さんの言葉が気にかかる。まるでこの部屋にもう一人いるかのように、そのもう一人にかけるような調子で言い置いていた。でも、改めて見回しても私以外に人はいない。
考えられることその2・側近さんがおかしい。あの人にはこの部屋にすでに誰かいるように思えている。……いや、それってとってもやばい人なのでは。今日会ったばかりの人にとんでもない疑いをかけてしまった。そもそもそのテのやばい人なら、側近が務まってるはずもないか。没。
考えられることその3・私がおかしい。急なお見合い話のプレッシャーで頭がおかしくなり、そこにいる王子様が絵に見えている。さっきよりはありえそう。だとしたら私は早急に頭のお医者様にかかるべきだけれど、さすがにそんなことはないと思いたい。よって没。
考えられることその4・本当に王子様はもうここにいる。でも姿は見えない。それか、私に見えてないだけで側近さんには見えている。メイドさんはどうだろう? 見えているのか、いないのか。私に向けたあの視線の意味は一体なんなんだろう。
……まさか、幽霊、とか?
(いやいやいやいやいや、ないないないないない)
ぶんぶん首を振ってぴんと姿勢を正す。そんなことない。まず王子を勝手に殺してしまった。この頭の中を誰かに覗かれたらもれなく不敬と怒られるどころじゃすまないかもしれない。幽霊と結婚はない。まずそれなら縁談が出ないはずだし、家族が許すとは思えない。そのはず。
幽霊話は昔から苦手だった。けれど苦手なものほど強く意識してしまうもので、一度考えてしまうとなかなか離れない。
部屋の中には私一人だけれど、滅茶苦茶に存在感を放っているリアルな大型絵画をどうしても意識せずにはいられない。正直髪の描き込みも凄ければ肌の陰影もどこか生々しいし、目とかもう、今にもこっち見そうだ。夜中には絶対に見たくない。
(お願いだから、来るなら早く来て)
考えられることその5は、側近さんが勘違いしてたか私が深読みし過ぎたかであの発言に特に意味はなくて、単に屋敷の主が遅刻していること。お願いだからそうであってほしい。
ずっと立っているのでだんだん座りたくなってくるけれど、もしも相手がこれから来るのなら先にくつろぐわけにはいかない。近くにはふかふかそうなソファが私を誘っているけれど、屈しない。部屋の妙な沈黙が居心地悪くて、私はドレスの布をぎゅっと掴む──そこで、コン、と音がした。
「……っ!?」
静か過ぎる空間で突然物音がすると耳が敏感にとらえるのは無理もない話だと思う。飛びあがらなかっただけ褒めてほしい。私はなんとか肩を思いきり跳ねさせるだけで堪え、周りを見渡した。
……けれど、何もない。
何かが落ちたりしたわけではなさそうだし、当然やっぱり人の気配もしない。
気のせいだったのかな、と前を向き直そうとした時また音がする。コン、と。さっきより大きな音だった。今度は聞き間違いでなく、それは誰かが靴でものを蹴る音らしかった。
「……な、何?」
精一杯声を張り上げて部屋の中に問いかける。誰からも返事はこなくて、部屋の中はさっきと同じ静寂に満たされた。……と思ったら、また音がする。さっきと同じ音だ。もうはっきり聞こえている。音の出どころを探そうと躍起になってあちこち視線を遣るけれど、音はしたりしなかったり。だんだんからかわれているような気がして来て、とうとう苛立ちがピークに達した私はそれに言い返した。
「ちょっと、さっきからコンコンコンコンと……何のつもり!?」
言い放つと、音はぴたっと止んだ。
その代わり、一拍おいて笑い声が聞こえてくる。ふふっ、くく、となんだか堪えるようで堪えていないような声。バカにするような感じじゃなくて、無邪気ないたずらっ子みたいな笑い方の誰かが、間違いなくこの部屋にいた。
声を追うように、私は部屋をもう一度見回して──そして、目が合った。
「ねえ君、からかい甲斐があるって言われない?」
薄明かりの朝空みたいな淡い紫の瞳を細めてからから笑う絵の中の王子様と。
カエルの王子様とか、白鳥の王子様とか、絵本ではたまに聞くけれども。
……あの、肖像画が動くとか、どんな怪談ですか。
限界突破した私の脳は、ここでぷっつりと考えるのをやめた。