○313日前
兄が事件に関わっているかもしれない。そんな私の不安をよそに、先週の休日ゆかりちゃんと岩井と家で朗読会の作業をしたことで無事課せられたノルマはクリアした。
でも浮かれた私を現実に引き戻すが如く、兄は昨晩もふらりと深夜家を抜け出しどこかへ行った。
尾行しようと思ったものの、兄が出かける時間帯は十五分ほど。追うだけならまだしも追って兄より前に自分の部屋に戻ってというのは難しい。今日の放課後委員会があることも関係して、中々気が重かった。
「おい、なにぼーっとしてんだよ」
兄の深夜散歩について机に伏せて考えていると、軽い音とともに丸めたクリアファイルで頭をはたかれた。私にこんなことをする奴は一人しかいない。わざわざ休み時間に教室に入ってきた岩井のわき腹を親指で一突きすると奴はあっさり降参した。
「わわわ、喧嘩はだめだよぅ」
「正当防衛だよ」
「どう見ても過剰だよぉ〜」
ゆかりちゃんがおろおろしながら私と岩井の間に立った。
「だってわざわざ教室まで来て叩きにくるんだもん」
「だけどね、言葉で示そう? 岩井くんだって駄目だよぅ。舞ちゃんの机ゆするとかやり方はあったよ……?」
「でもこいつがこんなんなってるのなんて中々無いだろ。ただでさえ最近は兄ちゃん兄ちゃん言わなくなったし」
「ああ言えばこう言うしないでよぉ。確かに舞ちゃん最近ちょっとわんぱくだけど……」
私は最近、学校に到着してからあらゆるタイミングで兄の前に姿を現している。
授業のときに移動があると、必ず兄の教室の前を通り、兄だけがこちらを見ているタイミングを見計らって頭に矢が突き刺さった帽子を被ったり、突然ブリッジを披露したり。そんな行動が周囲の目に留まらないわけがなく、私は早々に夏休み明け奇人と化した扱いを受け、ゆかりちゃんや岩井を除いた生徒からは「ちょっとどう接していいかわからない」みたいな状態だ。手負いの獣みたいにされている。
「黒辺さぁ、兄ちゃんになんかされたの?」
「なんで」
「だってお前兄貴見るたびに威嚇してんじゃん」
「威嚇じゃないよ、驚きの提供してるの。毎日楽しくなるように」
首を横に振ると岩井は私を怪訝な目で見た。私も見返す。
「っていうかなんで岩井は当然のようにこのクラスに……」
「ちょっといいか。通学路で星見伏の辺り通ってる奴いないか?」
焦った様子の先生が教室に入ってきた。今は休み時間だというのに緊迫とした空気が教室に流れる。星見伏は学校のすぐそばだけど、裏手にあって周りも山! って感じだから通学路にしている人は少ない。廊下の窓からは今も星見伏の森の木々が見えているし、何なら手だって届きそうだ。
「鈴木ってその辺りじゃね」
「違えよ俺は香良町だっつってんだろ」
「おいふざけるな。いないんだな?」
先生のいつにない迫力に教室がしんと静まる。皆が顔を見合わせている間に、先生はぱっと廊下を走っていく。
「何だろう」
「待ってて、今ゆかり星見伏で何があったか調べてみる」
そう言って彼女はピンクのカバーをかけたスマホをゆっくり操作し始めた。スマホは休み時間だけ操作できる決まりになっていて、放課後学内で使うのは禁止だ。だから皆も検索し始めているけど、ゆかりちゃんが早かったらしい。けれど彼女は中々言葉を紡ごうとしない。
「どうしたの」
「死体が出たって。女の子。手首だけ無い……」
「え」
心なしか、ヘリコプターの音が聞こえてきた。取材のために来ているのかもしれない。みんな一斉に廊下の窓へと向かっていった。教室にいるのは私や岩井、ゆかりちゃんだけで取り残されたようにただ視線を落としている。
「俺さ」
しかしすぐその静寂を断ち切るが如く、岩井が口を開いた。
「昨日の夜、部屋から」
聞きたくないと、確かに思う。しかし岩井は私を見据える。
「お前の兄ちゃんが事件現場のほう歩いてくの見えたけど」
その言葉に奇妙な納得をしながらも、心臓の鼓動が一層強くなった。なんだか足場にたっていないみたいで、なんとか踏みしめながら私は首を横に振る。
「兄はそんなことしないよ。そんな稚拙な感じじゃなくてやるとしたら……」
――もっと残酷なことをする。
そう付け足しそうになるのを抑える。でも私の直感に意味も、ましてや確証なんてどこにもない。カメラのことだってある。それに兄が何もしていなくても関わりはある気がして、とめどない不安が胸を巣食っていた。