○331日前
夏休みの一週間はあっという間に過ぎ、新学期が始まってしまった。私は体育館にいて、壇上では校長先生が始業式の挨拶をしている。でも私の後ろにいる子は宿題のプリントを写させてもらっているし、隣のクラスの列では海外に旅行に行った子がお土産を配ったりして、誰も聞いてない。
今校長先生は、夏休み前自分の言った話を覚えているか問いかけているけど、たぶん誰も覚えてないだろう。
私はといえば、夏休みに兄にしていたことを友達のゆかりちゃんに話していた。
楽しんでくれると思ったけど、渾身のドミノ建築について聞いた彼女はおろおろと顔を青くする。
「舞ちゃん……、お、お兄ちゃんのこと嫌いになっちゃったの?」
ゆかりちゃんは纏く巻かれた髪を揺らし、首を傾げた。真っ白で愛くるしい顔立ちも相まってお人形さんに見える。
「ううん。お兄ちゃんのこと喜ばせたくて」
「えぇ〜誤解されちゃうよぅ……、部屋中にドミノ置くなんてどう考えても嫌がらせだよぉ」
「大丈夫大丈夫。毎日ドミノじゃないよ? 飽きないように工夫もしてあるから。木魚とかバンジーもしたし」
両親に外出禁止令が出された私は夏休み最後の一週間、あの手この手で驚きを提供し続けた。一日目には家全体を用いたドミノ倒しを作ったし、翌日は段ボールで迷路を作った。三日目は大きな穴を掘った。落とし穴でも掘ろうかと思ったけど、いくら万全に作っても人の作るもの。危険は伴う。だから見た目のインパクトを重視した。
「答えになってないよぅ……それに木魚って私のお父さんがいつも叩いてる奴だよねえ? すごくうるさいやつだよぉ。っていうかお父さんが舞ちゃんうちに来てたって言ってたけど、まさか……」
「うん! 古いやつ貰ったんだ!」
ゆかりちゃんの家はお寺で、お父さんはお坊さんである。私は家で突然木魚の音がしたら驚くと思って、こっそり家を抜け出し、木魚を借りる為にゆかりちゃんの家に行ったのだ。そうしたら古くなった木魚をくれたから、叩く棒を三本束ね通常よりも音が大きくなるような細工をして兄の部屋で打ち鳴らした。
「近所迷惑になっちゃわない? お母さんに怒られなかった?」
「大丈夫! 防音処理はばっちりだよ」
「じゃあバンジーって何……?」
五日目は庭にいる兄めがけて二階のベランダからバンジージャンプをした。しっかりと、兄にぶつからないよう計算したうえで。そしてあり得ないかもしれないけど、万が一兄が助けに入ってもぶつからない位置をきちんと見極めた。
そうして、兄に注意を受け部屋に戻ったふりをしてまた一階に降り、家中にあったペンをカラフルに顔に塗りたくって、二階のベランダにいる兄の元へ家の配管を伝って向かったのである。
「バンジーはバンジーだよ。でもそれが原因で夏休み最後の日はずっとお母さんの手伝いさせられてさ……」
「昨日やっとお母さんとお父さんに怒られてたんだね……私のお兄ちゃんがやったら丸刈りにされてるよぉ……」
七日目である昨日は両親に全部ばれて何もできず終わってしまった。もうやらないと約束したけど、やらないのはドミノや迷路、バンジーにフェイスペイント、木魚を鳴らしたり配管を伝うことだけだ。他はする。
「あ、お兄ちゃんだ」
校長先生が長い話を終えると、生徒会長のことばの番になった。サイコパスだけど優秀で気さくな兄は、生徒会選挙で大多数の人間から推薦され学校の代表も任されている。
「生徒会長の黒辺誠です」
さっき校長先生が立っていたところと同じ場所に、今度は兄がマイクを持って立った。皆校長先生の話なんて何にも聞いてなかったのに、兄を前にさっと顔を向け始める。宿題をしている生徒も、手を動かしてないと間に合わないのに顔を上げていた。
「八月の夏休みが終わって、九月に入りました。早速ですが生徒会からのお知らせです。十月の頭に、毎年行っている幼稚園での朗読会があります。参加を希望する生徒は生徒会役員に申し出るか、今日の放課後開かれるミーティングに参加してください」
この学校で生徒会に入ることは、ボランティア活動の参加が義務付けられることと同じだ。皆がやりたがらないから、元々委員をやるような熱意のある生徒にしてもらおうと学校側は考えるらしい。昨年から生徒会に入っている兄も、ボランティアをしに家を空けることが多かった。
「あれ、じゃあ舞ちゃんも今年は参加になるんだ。朗読会」
「うん……」
そして、まさか兄がサイコパスであるなんて夢にも思わなかった私は「お兄ちゃんと一緒がいい!」と生徒会の選挙に出て、副会長の座を得てしまっていた。放課後は兄を驚かせる仕込みの時間に使いたいのに、九月の放課後は朗読会の準備に充てられてしまう。
「朗読会で放課後残るの嫌だなあ」
「ゆかりイラストならお手伝い出来るけどお話するのは無理だよぅ……」
「なにか描かなきゃいけなくなったら呼んでもいい?」
ゆかりちゃんは私の問いに「勿論だよ〜」と笑って見せた。持つべきものは友達だ。ありがたい。感謝をしていると、兄はやがて説明を終え自分のクラスへと戻っていった。
入れ替わりで教育実習の先生の紹介が始まったというのに、途端に周りはざわざわして好き勝手に過ごし始める。さっきまで兄をじっと見つめていた子も、宿題の書き写しを再開した。やっぱり兄は恐ろしいほどのカリスマ性を持っているのだ。成績も優秀だし誰とでも分け隔てなく接することができる。兄を慕うものは多いのだろう。
漫画では、高校一年生で惨劇を引き起こして命を絶ってしまうけど。
でもそこで惨劇を引き起こさず生きていたら、きっとすごい人になるのかもしれない。ぼんやりと兄の未来を想像しながら私は始業式を終えたのだった。
◇
結局、私の予想は的中する結果となってしまった。放課後の生徒会ミーティングで配られた朗読会のスケジュールの紙には、週に三回放課後集まって朗読会の練習に参加する旨がのっていた。
前に立つ兄の説明を聞きながら、うわ、と声が漏れ出そうになるのを耐える。教室の廊下側には生徒会顧問の三淵先生の隣に、始業式で紹介されていた先生……確か野島という先生が立っていた。三淵先生は皆におじいちゃんと呼ばれるくらい年老いた先生で、教育実習に来た野島先生は女の人だし若々しい。
対照的な二人を横目に見ていると、横からつんつんシャーペンで突かれた。振り返ると、隣のクラスで生徒会の会計をしている岩井がこちらに怪訝な目を向けていた。
「お前今日どうしたんだよ。ドッペルゲンガーか何かか?」
「は?」
「いつもお兄ちゃんお兄ちゃんってべったりのくせして、今日はそんな怠そうで」
岩井の言葉にああ、と頷く。確かに私は夏休み前まで兄にべったりだった。学内でも学外でも「お兄ちゃん」とついて回っていた。でももう兄を慕う時代は終わったのだ。
ただ従順に追いかければ、私は最終的にミキサーにかけられるくらい凄惨な状態でお葬式にお出しされてしまう。これからはきちんと距離を取り、愛想の代わりに驚きを提供する時代だ。
「夏のせいだよ」
「はぁ?」
「そこ、今は説明をしてるから静かにして」
兄がすかさずこちらを注意する。岩井のせいで怒られてしまった。これで妹へのストレスが溜まって私が予定より早くミキサーにかけられたらどうするんだ。視線で岩井に抗議すると、彼はすまなそうにした。気を取り直して兄の説明を聞いていると、廊下側の壁に立っていた野島先生が「ちょっと」と手を挙げる。
「先生思ったんだけど、今年は少し去年と違ったことをしてみない? 毎年毎年同じなら、やっぱりいつかは新しいことに挑戦したほうがいいと思うの」
「例えば」
「それはちょっと思いつかないけれど、でもほら、こういうのは皆で意見を出し合って決めるものじゃない? まだたっぷり時間はあるわけだしっ。ねっ?」
野島先生の言葉に兄は「そうですね」と短い返事をした。そしてこちらに顔を向ける。
「では、毎年朗読をしていましたが、今回は何か新しいことに挑戦しようと思います。何か案はありますか?」
兄の困ったような問いかけに、皆は考え込んだ後ちらほら手をあげていった。「朗読劇とか」「効果音をつける」などの意見が出てほっと安堵していると野島先生の顔が曇る。
「なんか、普通過ぎないかしら?」
「では、どういうものがいいんでしょう……?」
「もっとこう、皆があっと驚いて……見ていたら嬉しいわくわくするようなものはない?」
また、ぽつぽつ意見が出始める。でも野島先生がいい顔をしない。
「もっと皆やる気を持ちましょうよ! 皆で考えれば良い案が浮かぶはずよっ!」
野島先生の言葉に、兄含め皆から苛立つ雰囲気が出てきた。かくいう私も先生に少し苛々した気持ちになってくる。ただ文句だけ言うだけなのに意見はなくて、なんなんだろうと思っていると兄がこちらに振り向いた。
「舞、何か意見はない?」
突然話がふられ、私は勢い余って立ち上がってしまう。兄は驚く様子もなく、期待のまなざしでこちらを見ていた。
夏休みが終わるまでの二週間、池飛び込みやドミノ、迷路など数多の驚きを提供してきたから、頼みの綱くらいに思われてるのかもしれない。それか、おかしなことをしてきたのだから、こんな時くらい役に立て、とか。
「と、トリックアート、とか?」
苦し紛れにそう言うと、野島先生は「いいわねえ」と顔を明るくした。なんとなく不安な気持ちで三淵先生を見ると柔らかく微笑んでいる。兄は「じゃあそうしようか」と同意を示した。
「じゃあ、次からは制作にとりかかろう。今日はこれでお開きに……」
「ちょっと待って!」
兄の言葉を野島先生が遮る。そして「皆いいものを作りましょうね。皆が見たことのない、いい朗読会を」と微笑んだ。
わざわざ止める意味はあったのだろうか……。生徒会の役員のみんなも疑問に思っているようで、どことなく気まずい沈黙が流れる。結局何とも言えない気分のまま、その場は解散となった。
◇
もう夕日が沈み、オレンジ色の光が徐々に弱くなった住宅街を通って、兄に二の腕をつかまれる形で帰っていく。一緒に帰るのは近所で起きている連続殺人事件の犯人が捕まっていないからだけど、腕を掴んで歩くのは私が池に飛び込まないためだろう。まるで護送だ。
家族会議にかけられて以降、兄は度々母に「ちょっと舞の事、よく見ててくれない」と頼まれているようだった。しかし兄は私を監視する気配が一向にない。家に入ると基本放っておかれているし、私が部屋でごそごそしたり、トンカチで大工仕事をしていてもお母さんに言わない。注意もしてこない。
けれど兄は全く私を監視しないというわけでもないのだ。お父さんやお母さんがいる時は渋々とでもいうように監視している。だから両親の目がある時に監視し、両親の目がない時には監視をしない。
普通に考えて逆であるべきだ。でも兄的には「両親がうるさいからやってる」程度のことなのだろう。今日はきっと、池に飛び込むと服が濡れて、もれなく両親に監視能力を疑われてしまうからだ。
私は朗読会ミーティングの出来事を思い返しながら、兄に声をかけた。
「今日大変だったねお兄ちゃん」
「……野島先生のこと?」
「うん。私あの先生苦手だな」
「まぁ、みんなそうなんじゃない? ああいう先生と相性がいい生徒はいないでしょ」
兄も迷惑に思っているようだ。覚醒後の……それこそ猫が轢かれるのを目撃した冬以降の兄であったなら、野島先生は翌日遺体となって発見されているかもしれない。いつも通り公園の中を通り、池を囲うような道を歩いていると、私はあることに気付いて兄の手を後ろに引いた。
「お兄ちゃん、もう暗いし近道しないほうがいいんじゃないかな」
「どうして?」
「だってもう暗いよ?」
夏休み中ここを通るときは公園に人もいたし空は明るかった。でも今は真っ暗で、ぽつぽつと等間隔に設置された外灯が頼りなさげにこちらを照らすだけだ。木々の影は黒々として、葉っぱの輪郭も曖昧にしか見えない。
「今日は大丈夫でしょ」
「通り魔に刺されちゃわない? だって犯人まだ捕まってないんだよ」
「そう言ってルートを変えて刺されるってこともあるんだよ」
ふっと兄はこちらを馬鹿にしたように笑う。こんなに危機感が薄いのは、もしかして兄が犯人だからだろうか。
でもニュースで見る限り衝動的な犯行……みたいに書いていたし、目撃者も結構いるから違う……とは思うけど中三の時の幼い犯行だから、杜撰である可能性も……?
「じゃあ、刺されたらお兄ちゃんを恨むことにするね」
「ははは」
兄の笑い声は、相変わらず楽しそうな声を演出してるように感じる。この声が心から楽しいものに変わればいいな。できれば人殺し以外で。妥協してもらってマグロ捌くとかで。そしたらおいしいし。
私は変わらず腕を掴まれながら、護送されるみたいに家までの道のりを歩いたのだった。