「太陽の冠」(2)
神殿を出て南東に下ると、高く切り立った山脈と深い森に覆われた渓谷に守られるようにして家々が連なっている。レクタの町だ。
町並みは素朴で温かく、小さいながら宿屋もあった。この町から聖女が出たということもあって、神殿に行けない巡礼者たちがここの教会を訪れるのである。偶然ではあるがその教会こそがティキの実家だった。
「ただいま、母さん!」
息をはずませて満面の笑みを浮かべ、ティキは教会の二階にある母の部屋に飛び込んだ。
「ティキ……? どうしてここに? クレス様のお世話はどうしたんだい?」
ティキの母ネリは、簡素な木のベッドからゆっくりと起き上がろうとした。
ティキはそれを慌てて手で制し、母親の枕元に身体を滑りこませる。
「少しお暇をいただいたの。母さんについていてあげなさいって。」
ティキは自分の元気な姿を見せようと母の傍らに頬杖をつく。
「そうかい。クレス様がそんな風に……。ありがとうね、ティキ。」
「いいのよ。それより早く元気になってね。」
母の優しい笑顔。以前より少しやつれた感じがする。ティキは涙が出そうになるのをごまかすように、ベッドに顔をうずめて母の温もりを感じていた。
ネリは優しい娘の髪を優しくなでると、もっとよく顔を見せてというようにティキの頬に手をかけ、心配ないよと頷いた。そして娘の成長と女神クレスの加護を心の中でひそりと喜ぶ。
「久しぶりに町に帰ったんだから、みんなに挨拶しておいで。
宿屋のエラルも喜ぶよ。」
少し落ち着くとネリはそう促した。
「でも久しぶりに帰ってきたから、今日は夕飯の支度に力入れたいと思ってたんだけどな…。」
「せっかくの聖女様の帰郷なんだから、私だけ恩恵を受けちゃもったいないよ。」
くすくすと笑う母につられてティキも微笑む。
「わかったわ、母さん。皆に挨拶してくるわね。
帰ってきたら久しぶりに料理に挑戦!」
母の方を向いたまま悪戯っぽく微笑むと、くるりと一回転し、ポニーテールを揺らす。足取りも軽くティキはネリの部屋を後にした。
ティキは部屋を出ると少し寂しげな顔をし、溜息を小さくついた。階段を降り、礼拝堂に向かう。簡素で温かみのある礼拝堂の壇上には、修道服に身を包んだティキの祖母、マザーがいた。
「お帰りティキ。お前が帰ってくるとネリも嬉しいだろうよ。
今回はゆっくりできるのかい?」
ティキは少し困った顔をして微笑むと、心配そうな表情になり祖母に尋ねた。
「お母さんの様子はどうなの? おばあちゃん。」
「……いつもの発作なんだけど、今回はあまり良くないんだよ。
クレス様にも治せないと言うのだから、後はお前がネリを元気づけてやるしかないね。」
「……。」
母ネリの病は心の臓の病であった。ティキが幼い頃からあまり外に出ることはできず、寝たり起きたりの日々を送っていたのである。
〝聖術〟というものは怪我や妖しの除霊などには効果があったが、
寿命という運命に関係する病や老い、死については、聖術で抗うことはできない。
その理は、たとえ神といえども覆すことはできないものだ。
教会の外にはいくつもの墓標が並んでいる。ティキが幼い頃亡くなった父もそこに眠っている。
ティキは膝を折り、両手を胸の前で組むと静かに女神クレスに祈りを捧げた。
法力を与えられ、女神の分身ともいえる彼女は、母の病が祈りによって治ることはないとわかっていても、祈らずにはいられなかった。優しい母の笑顔を少しでも長く見つめ続けられるように。
やがて、ティキはゆっくりと立ち上がると祖母に微笑みを見せた。
「おばあちゃん、ちょっと町の人たちに挨拶してくるわね。
その後で久しぶりに夕食を作ってあげるわ。」
そう言い残すとティキは外へと小走りに出て行った。
マザーは孫の背中を切なそうに見つめ、送り出す。そしてゆっくりと振り返ると天井高く飾られた女神の像に目を向けた。
小さなため息をもらした彼女はゆるゆると手を組み、祈りを捧げるために頭を垂れる。
「ティキ……、お前は強くて優しい子だね。
クレス様、どうかあの子に幸せと安らぎをお約束ください……。」
町に出るとティキを見かけた町の人たちが嬉しそうに口々に声をかける。
買い物途中の道具屋のおかみもわざわざ寄ってきて、
「おやティキちゃん。神殿のお勤めはお休みかい?」
と問うた。
「ええ。母が体調を崩したというので少しお暇をいただいたんです。」
「そうかい。クレス様は本当に優しいねえ。
うちの主人なんか毎日お客さんに
『この町からクレス様に使える聖女が出るなんて、俺も鼻が高いよ。』って、
まるで自分のことのように自慢してるんだよ!」
「あら、ティキ! 帰ってきたの?」
「お帰り! ティキ姉ちゃん!」
会話で足を止めたティキの周りに、あっという間に人の輪ができる。
この町は温かい。人々も温かく優しい。ティキはこのレクタの町が大好きだった。
「ごめんねみんな。私、他にも挨拶するところがあるから!」
もっと話していたかったが、時間には限りがある。ティキは町の人たちに手を振ってまた走り始めた。
町の入口辺りで道を右に入り、角にある家に入っていく。
扉の右上、古びた真鍮の看板には宿屋のしるしが彫られている。扉が開くとカランカランとつるされていた鐘が乾いた音を響かせた。
中のカウンターにはぷっくりとした丸顔の中年女性が煙管をぷかぷかとふかしていた。宿屋の女主人のカエラだ。
鐘の音に気づき、旅人を迎えようと扉の方にやや無愛想に向き直った彼女だったが、珍客の来訪に気付いて一瞬固まり、次の瞬間相好を崩した。
「おやティキちゃん! 帰って来たのかい?」
「お久しぶりです、おばさま。」
「エラルなら上にいるよ。顔を見せてあげておくれよ。」
ニヤニヤしながらカエラは天井を煙管で差したが、ティキにはその意味深な笑いの意味はわからずきょとんとしている。
「早く行ってやっておくれ。
あの子いつもティキちゃんのことばかり心配してるんだから。
自分のことだってまだ半人前なのにさ。」
「あ、はい。じゃあお邪魔します。」
ティキは二階への階段を上がっていった。カエラは再び煙管をひとふかしすると溜息をついた。
「あれじゃあまだまだだね……。エラルも何やってんだか。」
ティキは二階の客間をひとつひとつ覗いていった。すると大部屋の簡易ベッドのシーツを取り替えている金髪の少年を見つけた。ティキの幼馴染のエラルだ。
「エラル先生、お仕事ご苦労様です!」
ティキは悪戯っぽく前かがみになって敬礼の真似をし、旧友に挨拶をした。
「ティキ! 帰ってきたのか!」
短く刈った金髪に深い緑の瞳、ティキと同じ年ではあるが、エラルはやや幼い悪戯っ子の面影を残している。宿屋という仕事に似合わず鍛えこんでありそうな締まった体躯。簡素な生成りのエプロンをつけた宿屋の息子は仕事をほっぽりだしてティキに走り寄った。
「母さんが倒れたって聞いたから……、クレス様にお暇をいただいたの。」
「そうか、おばさん身体弱いからな。で、しばらくいるのか?」
「母さんが良くなるまでは傍にいようと思うの。」
「そうだな。そのほうがおばさんも安心するよ。」
エラルはティキの母のことを心配しつつも、ティキがしばらく町にいるということのうれしさの方が勝って足が地につかない風情だ。帰ってくる度に美しさを増していく幼馴染は、エラルの中でかけがえのない存在であった。
「ティキはいいよな。クレス様のお傍にいられてさ。
俺もいつか聖戦士になって、クレス様にお仕えしたいな!」
浮かれている自分を落ち着かせるかのようにエラルはティキの神殿の仕事に話題を変えた。
本来女神クレスの傍につけるのは巫女のみ、つまり女性だけである。
だが例外的に神殿の中に入ることのできる男性がいる。
それが〝聖戦士〟と呼ばれる者たちであった。彼らは普段、女神の神殿のある山のふもとで地上の守りを固めると同時に、地上の民との連絡係をも任じている。そのため、女神の神殿に入ることができるのだ。
「エラルならきっとなれるわよ。」
「なるさ。そうすりゃいつでもティキの傍にいられるし……。」
「えっ?」
エラルはしまったという顔を一瞬見せたがちょっとおどけてごまかした。カエラではないが、本当にまだまだだ。
「いや何でもない、こっちのこと!!」
そう言ってエラルはひとつ背伸びをするとエプロンの紐を締め直した。
「仕事が終わったら、おばさんのお見舞いに行くよ。
色々とティキの話も聞きたいしな。」
「うん、じゃあ家で待ってるね。」
ティキは手を振り、踵を返すと階段を軽やかに降り、カエラに一礼をして教会に帰っていった。