あの子と私。あの子と彼女。最後に、私と彼女。
日が沈み、月も星も見えない夜。ネオンの光が眩しい繁華街では今日も仕事が盛況だ。呼び込みの声や酔っ払いの声が聞こえる。どこかで騒がしい音楽が流れ出し、油や酒、香水、煙草、色々混ざり合った甘ったるくて酸っぱくて香ばしい匂いが漂っている。
正直、この繁華街を歩くのは嫌だ。眩しい光が目に優しくない。音もうるさい。よく店の子から声をかけられて辟易する。私はこんなところで金を使うつもりは無い。
ただ、夜にここ以上に明るくて人気があるところは無い。昼だったらいいが、他の道は夜になると街灯も少ないのだ。そんなところを歩いて帰るのは怖い。それに比べて、ここは眩しく、人気もあり過ぎる。とりあえず身の危険は無い。変なことに巻き込まれなければ。
巻き込まれたら終わり。多分、あの子は巻き込まれて、おちていった。ここは危険な場所だ。女の子が去っていく映像が頭の中で再生される。染めすぎて痛めた髪に、薄汚い服。整った顔に浮かぶ表情は見えない。何度も何度も繰り返し思い出した最後の姿。冷たくて鋭くて強くて脆かったあの子も今は暗いところ。あの子は亡霊みたいに私に取り憑いたまま。
鼻にかかった声を出す人から、ティッシュを受け取る。可愛い子が高時給のバイトを紹介している広告付き。すぐ鞄に突っ込んだからよくわからないが、多分電話とかメールとかのお仕事だ。楽な仕事で高時給は嬉しいが、法律は守っているのかいないのか。とりあえず、ティッシュは有難い。
この繁華街を抜ければ、愛しの我が家が待っている。築二十年のアパート。狭いが、防犯は立派な独り身用だ。帰ったら先ず風呂に入る。これは優先事項だ。それから洗濯物をする……のはまたにしよう。風呂に入って、寝る。それがいい。だから、早く帰ろう。
忙しなく足を動かして、人を避けて、ふっと視線を動かしたとき。
ぱっと体が動いた。振り返って誰かの腕を掴んでいた。細さと柔らかさを感じる。掴んだ腕から視線を上げて、顔を捉えて息を飲んだ。
あの子だ。私の後悔。亡霊。
記憶の中の子と同じ顔をした女の子が、目の前にいた。
ああと声がもれた。あの子がいる。間違えるわけが無い。あの子だ。あの頃より少しふっくらとして健康的で、髪も染めておらず毛先まで手入れが行き届いているが、あの子だ。忘れられない子。
でも、と頭の中に声が響く。あの子がここにいるわけがない。あそこにいるはずだ。それに、何か違和感を感じる。じっと見つめていると、あの子もこちらを見ていた。
髪色は違うが、顔は同じ。全く同じ。整った顔をしている。涼しげな目元、すっと通った鼻筋、鮮やかに色づいた唇。可愛いよりも綺麗が似合う子だ。覚えているあの子そのもの。歳もあの子と同じくらいで、やっぱりあの子に違いない……。
はっとした。やっと気づいた。あの子と同じ歳だなんて、ありえない。この子は最後に見たあの子と同じくらい歳をしているだけだ。あれはもう何年も前の記憶で、十年は経っている。あの子は私と同級生だったのだから、今はもうとっくに成人しているだろう。でも、目の前の子は明らかに未成年。高校生くらいだ。
目眩がした。人違いをしてしまった。目の前の子、彼女からしたら、いきなり見知らぬ人に腕を掴まれている状況だ。しかも夜で、ここは繁華街の中でも怪しい店舗が並ぶ場所。怪しさは満点だ。
はっと周りを見渡すと、ちらちらとこちらを伺われていた。こういうところは無作法者を許さない。相手が社会人なら特に気にも止めないだろうが、この子は高校生だ。ここにいる時点で何かしら訳ありかもしれないが、最低限のものはある。今の図は、いたいけな少女を捕まえた悪い大人の図だ。大変危険な光景で、周りも放って置かない。ざあっと血の下がる音が聞こえた。
素早く掴んだ手を外すと、両手を挙げて言い訳を始めた。しどろもどろに人違いだの勘違いだの言うが、無反応だった。おそらく、恐怖で動けないのだろう。これはとても不味い状況だ。
私は今すぐこの場から、彼女の目の前から消えよう。それが一番最良の選択だ。彼女は私が怖い。私はこの状況から逃げたい。両者の望むことはほぼ一致している。私がこの場から逃げれば、どちらも幸せ。周りの人も安心する。混乱した頭のまま後ずさりして、彼女から距離を取った。いや、取ろうとした。
視界にさっと白い肌が映った。伸びてきた手は私の方へと近づいてくる。顔の方に来たので思わず目を閉じると、左手に何かを感じた。恐る恐る目を開けると、さっき見た手が左手首を掴んでいた。
目の前には、変わらず彼女がいた。私と目が合うと微笑み、形の良い唇を開けて宣った。
あなたの家に泊まらせて、と。
洗濯物を放り出して眠るという予定は消え去っていた。愛しの我が家は、もう安らぐ場所ではなかった。緊急事態により、私は安まることができそうにない。
興味深そうに部屋を見渡す彼女は、家出少女らしい。きっと一夜の宿を求めてあそこにいたのだろう。もし変な大人に連れて行かれたらどうするという言葉が浮かんだが、こうして家に連れ込んでいる私が言えることではないので黙っている。一応、私は良識ある大人であると主張しておく。
我が家には椅子が無いので、彼女は床に座っている。小さな折りたたみ式の机を彼女の前に置き、作り置きの麦茶を出す。粗茶ですがと言った方がいいのだろうかなどと考える私は未だに混乱していた。彼女は今の状況を楽しんでいるように見える。麦茶の礼を言って、警戒することもなく口をつけていた。何も入れていない、至って普通の麦茶だから良いのだが、彼女が心配になってくる。
自分の分の麦茶も置いて、彼女と机を挟んで向き合うように座る。目を合わせるのが何か気まずくて、麦茶を口に含んだ。ゆっくりと飲むと、段々落ち着いてきた。もう家に連れてきてしまったものは仕方ない。私自身は彼女に何かするつもりは無いが、彼女はわからない。彼女のことは常に視界に入れておこう。通帳や印鑑はすぐ見つかる場所には置いていない。金目の物は特に持っていない。後は私自身だが、今日は徹夜を覚悟するしかない。寝首を、なんてのは遠慮する。
それにもしかしたらこれから家に帰ると言うかもしれない。そうなれば、タクシーでも呼んで帰らせよう。タクシー代くらいは出す。きちんと断りきれなかった私も悪い。最後の一口を飲み干すと、心が完全に決まった。彼女と真正面から向き合った。
彼女は私の様子に気づくと、姿勢を正して丁寧な礼を述べた。背筋を伸ばし、真っ直ぐ頭を下げる。豊かで艶のある髪を眺めて、綺麗だと思った。育ちの良さがわかる姿だった。家出をするような子には見えない。厳し過ぎる親に縛り付けられて逃げ出したくなった可能性もあるが、私が想像する家出とは違う。複雑な家庭で親がその務めを果たさず、それを敏感に感じる同級生には距離をとられ、教師や親戚などの大人にも頼れず、外の世界で自分の居場所を求める子がするものではないだろうか。
そこまで考えて、私は目の前の彼女にあの子を重ねているのに気づいた。あの子は正しく、私の想像する家出少女だ。あの子と顔がそっくりな彼女もそうであると思い込んでいたのだ。しかし、彼女は見たところ、きちんと所作や礼儀などが身についている。そして身なりも汚くない。彼女の親は子供に対して関心があるのだろう。過干渉だったかもしれないが。
彼女は私の言葉を待つように、頭を下げたままの状態でいた。本当によく躾けられている。礼儀正しさに圧倒されるほど。静かに息を吐いて、頭を上げるように告げた。姿勢を戻した彼女は真剣な目をしていた。恐ろしいものに向き合うような決意を感じる。家に泊めさせる代わりに何かを要求されるのではないかと不安に感じているのだろうか。私は特に何も求めてはいないと口を開きかけて、彼女に遮られた。
「あなたは、わたしを知っているのですか?」
静かな声で、面識の有無を彼女は尋ねてきた。表情は笑顔だが、その目は何かを見透かそうとしている。一瞬何を言われたのかわからず、思わず首を傾げたが、どうやら繁華街でのことを聞いているようだ。確かに赤の他人に出会い頭に腕を掴まれたら、理由が気になるかもしれない。実際にそういうことがあれば私は怪しく感じて終わりだが、彼女は違ったようだ。だから彼女は私の家に来たのだろうか。わざわざそれを聞くために。礼儀正しい高校生なのに、家出をして繁華街、さらには怪しい人物の家にまで来るとは、怖いもの知らずなのか、それとも何も考えていない馬鹿なのか。
ただわかるのは、彼女は真剣だということだ。好奇心から聞いているのではなく、彼女なりに何かしらの理由があるようだ。目の前にいる彼女から異様な緊張を感じる。綺麗でこちらを圧倒するような微笑み、そして生気にあふれた目を見て、彼女はあの子とは本当に違うのだと思い知った。
あの子は私の高校の同級生だった。私は極々普通の生徒で、あの子は不良少女だった。
私とあの子の間には特に何も無かった。皆勤賞の私と違い、あの子は進級も怪しい出席日数だったから、同じ教室で過ごした学友とも言えない。友情なんて欠片も存在しない。接点は無かったが、あの子は気になる存在だった。顔の綺麗な子で、周りと明らかに異なる雰囲気を持った同級生。自然と目で追いかけてしまうが、直接的に関わろうと思わなかった。
ただ少しだけ、二人で話したことがある。数分のことだったが、その記憶は私に染み付いて離れず、何年も経った今でも映画のように再生できる。あの子は私と話し終わった後、背を向けて去っていった。またねという私の言葉に、手を振ってくれた。それが最後に見たあの子の姿だ。
あの子は私と会う前に、人としてしてはいけないことをしたのだ。今はその罪を償っている最中で、また会うことは多分二度と無い。
同情や偽善だと言われればそれまでなのだが、私はあの子に対して何かできたのではないかと考えることがある。罪を犯す前に話ができていたら、もしかしたら、と。しかし、あの子との会話は全くの偶然で、自発的に話しかけたわけではないから結局は同じことだ。私にあの子の罪を止めることはできない。私はこうして後悔ばかりして、あの子は暗いところにいる。
きっと、あの子は私のことなんて覚えてもいないだろう。会話をしたという事実は記憶していても、私のように繰り返し思い出すこともないだろう。あの時のあの子は諦めきった目をしていて、何も求めていなかった。私のこの後悔や感傷は全て独り善がりでしかないのだ。
あの子に似ているからだと、そう言えば彼女を嫌な気持ちにさせることはわかっている。どんなに事情があろうと罪を犯したあの子は加害者で犯罪者だ。そのような人間とそっくりだと言われて喜ぶ人はいない。そして、犯罪者と知り合いなのだと思われるのも嫌だ。私はあの子を知っているだけで、犯罪者を知っているわけではない。あの子はあの子でしかない。あの会話のことはひっそりと胸にしまいこんで生きてきた。後悔に苦しめられても、誰にも明かせなかった。
「あなたはわたしのこの顔に見覚えがあるのでしょう?」
黙り込んだ私に痺れを切らしたのか、彼女がまた口を開いた。目は真っ直ぐ私を見据えている。笑顔を消し、真剣な表情をしている彼女は、何度見てもあの子とは違っていた。同じなのは顔の造りだけ。その顔に宿るものは何もかも異なっている。そして、そのことを彼女もきっと知っている。
彼女はあの子のことを知っているのだ。
そう考えると色々辻褄が合う。育ちの良さそうな彼女が夜の繁華街にいたのも、彼女の顔を見て取り乱した私についてきたのも、全てはあの子が理由だ。彼女はあの子と何かしら関わりがある。そっくりな顔をしているから、血縁関係があるのかもしれない。経緯はわからないが、彼女はあの子のことを調べているのだ。自分の顔を使って、あの子の過去の断片を探している。
「わたしはあの人について、知りたいだけです。どのような方だったのか、教えていただけませんか」
今の世の中、調べればあの子のことはすぐ出てくる。あの子がどのような家庭に生まれたか、そこで何があったのか、あの子が道を踏み外して何をしたのか、今どうしているか。何でも出てくる。情報として一度載ったものは消えることは無い。あの子の断片は電子の世界にも存在している。
きっと彼女が求めているのは、そこで調べても手に入らないものだ。文字で平面のあの子ではなく、現実の、生身のあの子。私が見てきた、あの子自身のことを知ろうとしている。私の願望かもしれないが、それでもいい。彼女はあの子をただの犯罪者とは扱っていない、そう信じたい。
彼女になら、私はあの子のことを話すことができるのかもしれない。きっと彼女は否定しない。軽蔑もしない。あの子をあの子として話を聞いて、受け止めてくれる。それは私が求めていたものだ。彼女にならば、私の後悔を打ち明けられる。懺悔ができるのだ。
心臓の鼓動が身体中に響くのを感じる。呼吸が浅くなりそうで、意識して深く息を吸う。目の前の彼女は相変わらず私を真っ直ぐ見つめている。この彼女になら、私は明かせるのだ。
はくりと口が動き、こぼれ落ちた言葉は掠れていて囁くようで、すぐに空気に消えていった。彼女は戸惑ったように私を見て、少し体を乗り出してきた。心の中を覗き込むような目に、勢いよく頭を下げた。彼女が驚いているのがわかったが、唾を飲み込んで私は口を開いた。
走り去るタクシーを見送って、体から力が抜けるのを感じた。やっと今日が終わる。湯船に浸かるのは諦めて、シャワーだけ浴びよう。そして寝る、ことができるかはわからないが、とりあえず横になろう。明日も仕事だ。たとえ彼女のことが頭から離れなくても、変わらずに時間は進む。
彼女は、家に帰った。私との話が終わり、彼女はここに残る必要もない。帰るかと尋ねると、あっさり頷いて電話をかけていた。特に家庭内に問題があるわけではなさそうで、彼女はやはり家出少女ではなかったようだ。こうして嵐のような出来事は終わりを迎えた。
シャワーを浴びたときも、歯を磨いているときも、髪を乾かしている今も、考えるのはさっきのことだ。同じ顔なのに、浮かぶ表情が異なる二人が頭から離れない。
私は、彼女にあの子のことを何も話せなかった。同級生だったということすら、言えなかった。今まで話すことを避けてきたのは、あの子と私を否定されたり軽蔑されたりすることが怖かったからだと思っていた。傷つきたくない、誰も私の思いをわかってくれるわけはないと、言葉にすることはなかった。
そこに彼女が現れた。否定も軽蔑もせず、ただ受け止めてくれるだろう存在が目の前に出てきて、思いを吐き出すことができるとわかったとき、気づいてしまった。
私はあの子のことを自分一人の中にしまっておきたいのだ。
話せるものなら話して、この後悔を吐き出してしまいたいと、懺悔したいと、これまでは思っていた。でも打ち明けられる人はいないからと黙っていた。それは全くの嘘ではないが、本当のことでもなかった。
私は、ただ話したくなかったのだ。あの子のことを誰にも話すつもりはなかった。打ち明けてしまいたいと確かに思っていたのに、実際にそうなると打ち明けるなんて無理だった。
あの子のことは、私だけが抱えていればいいのだ。ほんの少しの関わりしかないから、あの子のことを全て知っているわけではないが、少なくとも私が知っているあの子は私だけのものだ。
誰にも、彼女にも教えてあげない。
後悔しているのは本当のことで、懺悔したいと思う気持ちも確かに私の中にある。それを実行するつもりがないだけ。
彼女にはこの薄暗い気持ちだけを話した。あの子のことを話したくない、独り占めしていたいのだと。
彼女はただ聞いてくれた。いきなりこんな話をされて戸惑っただろうに、静かに受け止めてくれた。一体どういう人なのか全く知らないが、彼女は本当に知りたいだけだったのだろう。私の話の後で、彼女は満足そうに笑っていた。
「あの人は、あなたにそこまで思われる人だったんですね」
それがわかっただけで充分です。
あの子のことが知りたいのだと、彼女は鬼気迫る表情をしていた。でも私の話の後、憑き物が落ちたように穏やかに笑っていた。なにか彼女の中で変化があったのだろう。晴れやかな笑顔なのに、儚さも感じられた。
彼女はお礼を述べて去っていった。
電気を消して、布団に潜り込む。全然眠気は来ず、気がつけばあの子のことをぼんやりと考えていた。
冷たくて鋭くて脆くて弱かったあの子。何もかも諦めきっていたあの子。私との会話は気まぐれで、あの子にとってはもう覚えていないことかもしれない。だけど、私に根付いている。あの子の存在は私の中にある。
あの子のことを、私はこれからもずっと抱えて生きていく。それは辛くて苦しいことだが、それでいい。それを選んだのは自分で、その選択に満足している。
それに、いつか話したいと心の底から思うとき、私には打ち明けられる人がいるのだ。あの子は彼女を連れてきてくれた。そして、縁を繋いでくれた。
だから、これで充分。
自分が満たされていることを実感したところで、私の意識は眠りの世界へ消えた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この話について少しだけ。
私にはいくつか書きたいと思っている話があるのですが、これもその一つです。
厳密に言うと、書きたい話のエピローグ部分なのですが。
この話に出てくる「彼女」についての話をずっと書きたいと思っていて、設定やプロットなど作ったのですが、肉付け作業が遅々として進まず、書けるところだけ書き上げようということでこちらの話が出来上がりました。
そういう過程で出来上がった話なので、実のところ「私」と「あの子」について、作者は「彼女」と同じことしか知りません。
「あの子」について、「彼女」しか知らないこともあるし、「私」しか知らないこともある、という感じですので、疑問に思うことはたくさんあると思うのですが、作者もわからないことだらけです。
あともう少しだけ。
この話はかなり書きなぐったままです。ですので、読みにくかったり、意味がわからなかったりすると思います。
それでもこうして投稿したのは、吐き出したかったです。少し楽になりました。
いつか「彼女」の話を最初から最後まで全て書けたらいいなと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました!




