ベニヒョウモンクレナイアカトカゲ
冷えた空気が頬を撫でた。
ぞくりと、見つめられたような寒気がして目を開ける。
ここは
どこだろう。
私は仰向けに大の字で寝ていた身体をゆっくりと起こして、辺りを見回す。頭が痛い。
目の前には緩やかにカーブを描く階段があって、そして他には何も無かった。
階段は上に向かっているけれど、左側にカーブしているから先が見えない。
「ここはどこだろう」
声に出して言ってみる。相変わらずわからない。
ふと、足元に自分の姿が写っていることに気がついた。
銀色の床は妙にギラギラとしていて、ナイフのようだ。
しゃがみ込んで、よく見てみる。
「ベニヒョウモンクレナイアカトカゲだ」
そこにははっきりと、しゃがみ込んでこちらを見つめるベニヒョウモンクレナイアカトカゲの姿が写っていた。
私はベニヒョウモンクレナイアカトカゲだったのだ。
また風が吹いた。階段の方からだ。
冷たくて、乾燥していて、痛い。
気分の良いものではないので、止めに行くことにした。
階段を昇る。ベニヒョウモンクレナイアカトカゲには2本の足があるから、簡単に階段を昇れるのだ。
カーブに沿ってぐるりと一周して、つまりさっきまでいた場所のちょうど真上に着いたことになる。
そこは踊り場になっていた。
あまり広くはないけれど、きっと狭くもない。居心地が良い。暖かい。
登ってきた階段のすぐ左にまた階段がある。やっぱり、左にカーブしている。きっとまだ、上へと続いているのだろう。
風が吹いた。前よりもっと冷たくなっていた。
まだここに居たいけれど、風に殺されそうなので階段を昇ることにした。
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲには2本の足があるから、簡単に階段を昇れるのだ。
カーブに沿ってぐるりと一周して、つまりさっきまでいた場所のちょうど真上に着いたことになる。
ここもやっぱり、踊り場になっていた。
そして、先客がいた。
「誰ですか」
声をかける。私から声をかけないと、向こうに質問されてしまうかもしれないので仕方がない。
もし質問されてしまったら、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲはベニヒョウモンクレナイアカトカゲだから、答えようがない。
「私は誰なんでしょうか」
そう言って振り返った姿はベニヒョウモンクレナイアカトカゲではなかった。少しほっとする。
「うーん」
考えてみる。誰なんだろうか。
とりあえず、よく見てみよう。
足が2本ある。でも2つの形が違うから、見ていて気持ち悪い。こんな足じゃあ階段は昇れないだろう。
うーん。誰だろう。
「よくわからないけど、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲではないと思います」
しばらく考えたけれどわからなかったので、そう言った。
「そうですか」
向こうはそれきり何も言わなかった。
1人じゃないのに沈黙が続くのは嫌だ。また階段を昇ることにした。風を止めなくてはいけない。
一応、聞いてみる。
「一緒に昇りませんか」
昇れないと思うけれど。
「私は昇れないんです。ホラ、違うでしょう」
足をぶらぶらして、見せてきた。
気持ち悪い。言わなきゃよかった。
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲには2本の足があるから、簡単に階段を昇ることが出来る。
踊り場にはたくさんの石ころが転がっていた。
こっちから声をかけないと何か質問されてしまうかもしれない。すぐに尋ねてみた。
「誰ですか」
たくさんの石ころはガチャガチャと音を立てながら近くに集まってきた。
「「「私たちはベニヒョウモンクレナイアカトカゲです」」」
声を揃えて石ころ達が言った。
石ころにしか見えない。でも、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲだと言うのなら、やっぱりベニヒョウモンクレナイアカトカゲなのだろう。
「私もベニヒョウモンクレナイアカトカゲなんだ」
そう言うと、石ころ達は喜んだ様子で、一層大きくガチャガチャと音を立てた。
私も真似して、ガチャガチャと音を立ててみた。でも石ころじゃないからうまく音が出ない。
「「「うわぁ、下手くそ。私たちが教えてあげようか」」」
石ころ達が言った。
石ころのくせに何を言っているんだ。教えるだなんて。
「「「うわぁ、下手くそ」」」
石ころ達が何度もうるさいので、私は思い切り石ころを蹴飛ばしてやった。石ころは散り散りに飛んでいって、初めの場所に戻った。
やっぱり石ころは石ころで、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲじゃない。ベニヒョウモンクレナイアカトカゲはそんな音を出さないんだから。
馬鹿らしくなったので、また階段を昇ることにした。
一応、聞いてみる。
「一緒に昇りませんか」
昇らないと思うけれど。
「「「ベニヒョウモンクレナイアカトカゲと一緒なんて、嫌だい」」」
なんだい。さっきはベニヒョウモンクレナイアカトカゲだって言ってたくせに。
私はベニヒョウモンクレナイアカトカゲだから、簡単に階段を昇れるのだ。
階段を昇り終えて、次の踊り場に着いた途端、木の枝が飛んできた。痛い。
でも、質問じゃなくてよかった。私は飛んできた方に向かって、質問した。
「誰ですか」
「S極だ」
S極が答えた。確かに色が青いし、S極だろう。
踊り場にはS極が1人いるだけだった。
私はベニヒョウモンクレナイアカトカゲなので、S極と2人だと居心地が悪い。
「お前は誰だ」
S極が聞いてきた。
私がベニヒョウモンクレナイアカトカゲだと知ったら。
きっともっとたくさんの枝を投げてくるだろう。
痛いのは嫌なので、私は答えた。
「S極です」
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲはS極にけっこう似ているから、嘘じゃない。
嘘じゃない。
「お前もS極だったのか。じゃあ仲良くしようぜ」
反発するくせに、S極はS極同士で仲良くしたがる。気持ち悪い。
でもここにはS極しかいないので、2人で遊ぶことにした。
少し遊んでみたけれど、やっぱりS極と一緒だと気持ち悪い。
「階段を昇らないといけないから」
私はそう言って別れて、階段を昇ることにした。
「昇る意味なんてない」
S極が言った。
言った途端に、また風が吹いた。
ほら
気持ち悪いじゃないか。
「昇る意味なんてない」
また、S極が言った。S極には風が見えないんだろう。一応、聞いてみることにした。
「一緒に昇りませんか」
昇らないと思うけれど。
「昇る意味なんてない」
きっとS極だから昇る意味がないんだろう。
私はベニヒョウモンクレナイアカトカゲだから、風を止めなければいけないのだ。
踊り場に着いた。
べにいろの絵の具で塗られた太陽が置いてあった。それだけだった。
風が強くなってきたので、直ぐに次の階段を昇ることにした。
休まずに階段を昇ったので、2本の足があるベニヒョウモンクレナイアカトカゲとはいえ疲れてしまった。
踊り場の端へ行って休むことにした。
すると何処からか、天秤が出てきた。天秤は言った。
「誰ですか」
ついに質問されてしまった。疲れてるんだから、やめてほしい。
「ベニヒョウモンクレナイアカトカゲです」
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲなのでそう言った。
「じゃあ、君は自分がベニヒョウモンクレナイアカトカゲだと言うのですね」
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲなのだからベニヒョウモンクレナイアカトカゲだと言ったのだ。
疲れているので私は返事をしなかった。
天秤はそれでも言葉を続けた。
「これを見てください」
天秤が2つに分裂すると、右側の天秤が大きな鏡になった。
私は鏡を見る。ベニヒョウモンクレナイアカトカゲが写っている。
「誰ですか」
天秤が言った。
「ベニヒョウモンクレナイアカトカゲです」
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲなのでそう言った。
「君はべにいろでもヒョウモン柄でもくれないいろでもあかいろでもないし、トカゲですらありません」
そう言われて、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲの私はもう一度鏡を見る。
確かに。
私はべにいろでもヒョウモン柄でもくれないいろでもあかいろでもないし、ましてやトカゲでもなかったのだ。
「では私は誰なのですか」
天秤は返答に困っているようだった。
「うーん」
私も一緒に考えてみる。誰なんだろうか。
とりあえず、よく見てみよう。
足が2本ある。よく見ると2つの形が違うから、見ていて気持ち悪くなってくる。こんな足でどうやって階段を昇ってきたのだろう。
うーん。誰だろう。
「よくわからないけど、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲではないと思います」
しばらく考えたけれどわからなかったらしく、天秤はそう言った。
「そうですか」
私がそう返すと、お互いそれきり黙ってしまった。
沈黙が続くのは嫌だ。
また階段を昇ることにした。私はベニヒョウモンクレナイアカトカゲでなくても風を止めなくてはいけない。
けれど。
こんな足で昇れるのだろうか。
不安なので、誘ってみる。
「一緒に昇りませんか」
昇れると思うけれど。
今まで昇れてたんだから。
「ゆっくりで良いのだから、1人で昇りなさい」
心配なので足元を見ながらゆっくり昇ることにした。
気持ち悪い。足なんて見なきゃよかった。
時間はかかったけれど、次の踊り場に着いた。
ここはパーティの途中だったらしい。そう広くない踊り場にはたくさんのテーブルが並んでいて、皆で話し合ったり、何か食べたりしている。楽しそうだ。
孵化したばかりのウスバカゲロウがチキンを食べていたので、話しかけてみた。
「私は誰なんでしょうか」
「ベニヒョウモンクレナイアカトカゲではないのかなぁ」
ウスバカゲロウはちらとこちらに目を移すとそう言って、またすぐにチキンを食べ始めた。
「いえ、ベニヒョウモンクレナイアカトカゲではないんです。私は誰なんでしょう」
「ではわからないなぁ」
淡白な返事を適当にしただけで、ウスバカゲロウはまたチキンを貪り始めた。
孵化する前だったら。もう少し早くここに来ていれば。もっときちんと取り合ってくれただろうな。
それじゃあやっぱり、この足について考えてたせいじゃないか。
いびつな足を思い出して嫌な気持ちになったので、さっさと階段を昇ることにした。
一応、聞いておこうか。
「一緒に昇りませんか」
ウスバカゲロウは変わらずチキンを咀嚼している。返事すらない。
昇ろう。
そういえば、私は何で階段を昇っていたんだっけ。
あぁそうだ、風だ。
次の踊り場では、石ころみたいな宝石がたくさんいて、私の足を馬鹿にしてきた。
嫌な気分になったのですぐに階段を昇った。
風だ。
次の踊り場にも、石ころみたいな宝石がたくさんいて、私の足を馬鹿にしてきた。
嫌な気分になったのですぐに階段を昇った。
風を止めなくては。
次の踊り場には、風がいた。
やっと着いた。良かった。
私は風に言った。
「不快ですから止めてくれませんか」
殺されるかと思ったけれど、意外にも風は無言のまま消えた。風だって別に吹きたくて吹いていたわけじゃなかったのだろう。
さて。
これで目的は果たした。
帰ろうと思って階段を降りようとして、私は宝石達のことを思い出した。
また馬鹿にされる。
私はもうベニヒョウモンクレナイアカトカゲではないのだから。
私は階段を昇り続けることにした。
けれどもそのあとは一度も踊り場にたどり着かなかった。
あの踊り場を最後に、螺旋階段のように段差だけが続いていた。
私はふと石ころ達やS極、それに初めに出会った誰かのことを思い出した。
「風は止まったんだから、これ以上昇る必要はないよ」
カーブを描いている階段の中心に近づいて、螺旋階段の底を見下ろしてみる。
ベニヒョウモンクレナイアカトカゲが仰向けに大の字で寝ていた。




