表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/29

「もう無理」と彼女は泣いた。

お久しぶりです。

「もう無理。もう無理」



 彼女はそう言って、その秀でた白い額に片手をあて、緩慢に首を振りながら、泣いた。

 菫色の瞳から零れつづける涙。

 先日戻ってきたばかりのメイドが結いあげたはちみつ色の前髪が、ひと房、額に落ちかかる。


 彼女の生まれからすれば、食事中に席を立つのも、相手が話しているうちに突然遮るのもとんでもなく無作法だと言うのは、十分分かっていたけれど。後一秒でもここにいれば、自分は本当に壊れてしまう。


 そう思って、席を立って、逃げ出した。


 豪奢な刺繍のほどこされた、皺やシミ一つないテーブルクロスの。

 顔が映るほどに磨かれた銀器がお行儀よくセットされた、食事の席から。


 その二人掛けのテーブルの向こうに座る。

 仕立ての良いスリーピースに身を包み、上質の絹で作られたクラヴァットで襟元を飾る美しい男から。


 友人で、恋人で夫だとも思っていた男から。




 ……彼はどんな表情を浮かべていただろう?

 欲しくて恋しくてやっと手に入れた彼女。

 その凛とした佇まいに惹かれつつ、ドロドロに甘やかして、はやく自分のところに堕ちてくれば良いのにと願っていたこの男は。


 そう。いつもならば彼女が眉をひそめ唇を震わせただけで、おろおろしていたこの男は。今夜は何故か憮然とした表情をその秀麗な顔に浮かべていた。

 彼には分らなかったから。

 食事の合間の会話をしていただけなのに、何故彼女が泣きだしたのか。



 だから、間に合わなかった。

 彼女が店を小走りに飛び出し、入ろうとした友人にぶつかりそうになるのを止めるには。




 店に入ろうとしたその女性は、最新流行のドレスを身にまとい。一人で、エスコートも待たずにさっさと歩いていた。

 背筋を伸ばして大股で歩くその姿はとても美しいものだったけれど。いまだ前世紀の「常識」が幅を利かせるこの界隈では、異質なもので。

 車寄せで従者を待つ老紳士淑女の中には、眉をひそめている者もいた。



 彼女は泣きながら店を後にしようとする彼女の友人であり、その後を追う男のことも、ある意味良く知っていた。

 泣く彼女がいまだ見ていない、夜の帳が下りた後の、男の事は。



 口元を、白いレースの手袋に包まれた繊手で覆い。小走りで俯き加減に出口から飛び出した彼女。

 自分にぶつかりかけ、小さな声で謝罪しながら、顔もあげずにまた走り去ろうとした彼女を、その女性は驚きながら引きとめた。


 ようやくこの頃少しはまるくなってきたけれど、まだ折れそうなほど細い彼女の肩にそっと手を置いて。

 どうしたの、と。貴女がこんなに人前で取り乱すなんて、と問おうとしたけれど。その足音に気付いて顔をあげた。


 力強く床を踏みしめる足音。躊躇いなくまっすぐな、男の足音。

 顔をあげる前からそれが誰のものか、その女性は分かっていた。

 そして、腕の中で嗚咽をこらえかねていた彼女も。




 ごめんなさい。

 かそけき声で呟いた彼女は、女性の手を振り払って駆けだした。

 ただこの場から逃げ出す為に。

 ただ男を、見ないで済むように。



 待てよ。

 立ち止まっていた彼女を認め、一瞬緩んだ男の表情が険しくなる。

 それにつられて、言葉づかいも生来の、荒いものになった。

 最近は、彼女の指導のおかげか、洗練された物言いがしっくりきていたのに。




 逃げようとする彼女と、捕まえようとする男の間に挟まれたその女性は。

 そっと溜息をついた。

 そんな言い方では、余計に彼女を怖がらせるだけなのに。

 ただでさえ大柄な身体、引きしまったその体躯を怖がる人もいるのに。


 そして、誰にも、特に二人には聞かれないように、口の中だけ呟いたのだ。

 ようやく、貴方が「真実の愛」を見つけたと思ったのに。




 *****



 このあたりでぼんやりと目が覚めた。

 覚めていくのをのを感じながら、ちょっと途方に暮れた。

 彼女の言う通り、こんな「ヒーロー」では、どうひねっても「大団円」には持っていけないなと。


 いっそのこと別の男を登場させようか。

 彼女は自分以外に優しく、特にあの男にはとんでもなく甘いから、結局受け入れて、許してしまうだろう。

 たとえ男が、自分の何が彼女を傷つけたのか解らない、愚鈍な表情を浮かべていたとしても。


 しかしそれでは読む者が、何よりも書く私が面白くない。というより納得いかない。


 美しい男は好きである。

 あくまで「男性的な」筋肉と躍動感を持ち、かつ年月と経験のみが作り上げる分厚さを持った男が。

 そんな身体に端正な渋い、少し影のある顔が乗っかっていれば申し分ないと思ってきたが、その内面も外見にあった鋭さと包容力を持ち合わせていなければ、愚鈍な男には我慢できないと、最近は思う様になった。

 贅沢になったものである。



 だからこの男が幸せになるのは、許せない。

 己の愚かさ鈍さゆえに女性を傷つけるような男は、さらにそれに気づいてすらいないような男は、滅してしまえば良いと思う。

 自分とはまったく違う性である生き物がいれば、人生はそれなりに彩りがあり、楽しいだろうが。それに苦しめられるくらいならいなくて結構。女だけで愉快にやれる。


 だから。

 まだこのお話は描けないな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ