和解と記憶喪失
目を覚ますと、ベッドのような感触の台の上だった。
一つ一つの網目が大きいが硬くてしなる紐が緻密に編まれており、高級ベッドのスプリングらしき心地よい反発をかもし出していた。
異世界に来てからというもの、どうにも見知らぬ場所で起きることが多い。
この台にしたって、龍サイズであることは分かる。
プールくらいあるんじゃないか?
さらにその台の下に広がる空間はどデカい。
東京ドームくらいの大きさの部屋だ。
俺が寝ているベッドの横には等間隔で同じ物がずらりと並ぶ。
隣には、先ほど闘っていた龍がぐったりと体を伸ばし、唸っていた。
白で統一されたその空間の壁際には、何やら薬品らしきものが陳列収納している棚があり、存在感をアピールしていた。
しかし、何かこう既視感が……なるほど、医務室だと思えば良いのだろう。
今のところは俺とその龍以外はいないようだ。
『おい。ヴィゾ。まだ痛むのか?』
俺は隣でうんうん唸っている傷痕将軍に向かって話しかけた。
回復魔法があったとしても、もしかしたら治せない傷もあるのかもしれない。
生き物を傷つける経験など、この世界に来るまで皆無に近かった俺は、罪悪感が増してきたのだ。
ましてや、最初の時とは違い今回ははっきりと意思疎通が出来て、その上で攻撃したのだ。
要するに、ケンカをした後に感じるあの妙な罪悪感が俺を包んでいた。
『……だいじょうぶだよ……ママ……』
ママママ、ママ!?
何を言ってやがるんだコイツ?
ぴっちりと閉じられた目から寝言であると思うがママって……。
『……ボク頑張ったんだよ……お姫様のために……』
おい、大丈夫か、俺が聞いて良い類のうわ言なのか?
後で後悔するぞ。
絶対それをネタにいじくり倒すぞ?
『……でも悪いヒツジが……リント様を……』
『…………』
そうかもしれない。
俺はいきなり異世界に飛ばされて妙な力を持ってしまったが、龍たちからしてみれば単なる異分子の一つに過ぎない。
そんな異分子が急激に龍の生活に影響を与える何かを言い出し、それがこの国の王族にまで及ぶとなれば、俺が害をなす者かどうか慎重に検討するべきだ。
そんなもん疑って然るべきだろう。
この万年樹に建てられた国には、俺には想像もつかないような様々な事が幾千万もあり、それが編み込まれ歴史をつむぎ、さらにそれが積み重なって歴史になって行ったのだ。
もしかしたらそれらを壊す可能性だってあると恐れるのは、知性を持った龍ならなおさらだろう。
保守派の年老いた龍たちはそれを恐れたのだ。
まだ見ぬ子々孫々の代にまで及ぶ傾国の危機を、そうなる可能性が例え微細であっても。
どんな手を使ってでも阻止しようという思いがあったのだろう。
俺にはその配慮が欠けていた。
マリアを助けるため、ヒトを助けるためとはいえ、いきなりこの国の王の下へ行き、珍しがられたからといって調子に乗ったのだ。
性急過ぎたのかもしれない。
『……でも……負けちゃった……』
ぽろりとその大きな龍の目から涙がこぼれた。
色々大変なんだな龍の国も。
そういう風に考えた今になって見ると、将軍はそんなに怖い顔には見えなかった。
むしろ幼い印象すら覚える。
『なあ、ヴィゾ。アンタのこと誤解してたかもしれない』
俺は今なお苦痛で寝顔を歪める龍に向かって言った。
『俺も自分の意見ばっかり押し通そうとして、アンタたちのこと考えて無かったよ』
あまつさえ疑っていたのだ、この龍がミドガルズや姫に対して謀反を企んでいると。
汚い手を使ってまで勝とうとするその本意も知らず。
『アンタはこの国のことを考えていたんだよな』
『……当たり前だ。この虫けら。自分は常にこの国のことを考えている』
龍は目を見開き、俺に向かって牙を剥き、言った。
あ、起きるとやっぱりすげえ偉そう。
ムカつく。
『虫けら如きが陛下やミドガルズ殿下、ましてや、姫様をたぶらかすなどありえんことだ』
『それは俺がこの世界に来たばかりでまだ何も知らないから……』
起きたなら起きたって言えよ。
マザコンばらすぞこの野郎。
自分語り聞かれるとか恥ずかしいじゃねえか。
『なんだと? ……詳しく申せ』
だだっ広いベッドを跨いで会話をするのが煩わしかったため、ヴィゾのベッドまで移動した。
ヒツジ臭いと言われるのは若干嫌だったが、それでもヴィゾは他には特に文句を言わず枕元に俺が寝そべることを許した。
俺はこの世界に来て初めてこれまでの経緯を詳しく話した。
そんな説明をする余裕すらなかったのだ。
今は先ほどまで死闘を繰り広げた龍と二人で寝転びながら、それについて話している。
何てぶっ飛んだ状況だ。
『虫け……貴様、神に会ったと言うのか?』
突っ込むところが微妙な気がするが。
『あれが本当に神ならな。俺の世界ではクロノスとかホーラっていうのはギリシャっていう土地の神で、ミトラっていうのはインドっていう土地の神だから、その辺が混ざっているのは何か変だと思うけどね』
『だが、神は神なのだろう?』
比喩ではなく、ギラリと目が輝き、穴が開くほど俺を見つめる。
『自称だけどそう言ってた。俺を異世界に放り投げた神の名前は分からなかったけど、あの子は日本人っぽかったから、さらに訳が分からん。あ、日本っていうのは俺がいた土地の名前な』
ギラギラ輝く目はまだ俺を凝視している。
この話のどこにそんな興味を惹かれるところがあるというのだ。
『……信じられん。信じられんがその色を見ると本当のことらしいな。すると貴様は神の使いということになるが……ヒツジいやヒトがそんな馬鹿な……』
ギラギラが無くなり思案気に目を天井に向ける龍。
何か板につくなその仕草。
もしかしてコイツ龍の中ではイケメン属に分類されるわけ?
『色って何さ?』
この世界覚えること多いなと思いながらも、新しい単語に食いついた。
『……うん? ああ、ヒトにはそういう力はないのか。我々龍には生き物の嘘を見破る力がある』
『おお、さすが万能種』
さっきのぎらぎら光る目がそうだったのだろう。
『む……むう。まあそうだ。万能主である我々にはそれが色で見える。龍が高齢になるに従いその色の違いが分からなくなったりもするらしいが、自分は若いのではっきり見える』
『じゃあ、その色を龍議会の場で言えばよかっただろ。そうすればこんなことにならないで済んだし』
『貴様が嘘をついていたなんてあの場で誰も思っておらん。だからこそ龍議会は決闘を認めた。どちらの言い分にも一理があるから神聖な儀式を執り行ったまでだ。しかし――』
確かにあんな場所で嘘をつけるほど俺は肝が据わっていない。
『――建前上、龍議会では色の識別をしてはいけないという決まりがある。龍議会に上げられる議題は洗練された物であるはずだからということだ。だが、龍同士の真偽の判定は困難を極めるということと、高齢になるに従いその真偽色にあやふやなところが出てくるため、無用な混乱を避けるという意味もある。自分は後者が主な理由だと思っているが……このことは他言するなよ』
なるほど、老眼みたいなものか。
そりゃ老いているから本当のことが分かんないなんて認めたくないだろう。
確かに王座の間にいた龍議会のメンツは皆年取った龍ばっかりだったな。
意外に人間じみたところ気にするんだな龍って。
『それよりも自分は気になることがあるのだが――』
『貴様、名前は何と言うのだ?』
――――――
――――
――
名前?
今更アホなこと聞くなよ。
俺の名前は……名前は……何だ?
あれ?
何で自分の名前が分からないんだ?
『自分を倒した者の名前を知りたいと思うのは可笑しくないだろう。龍がヒトに向かって名前を聞くのは初めてだろうな。しかもそれがヒトを毛嫌いしていた自分となるととんだお笑い種だ……おい? どうした?』
ナマエ?
俺って誰だ?
得体の知れない不安感を感じ、慌ててポケットを探り、入っていた物を散らばらせる。
スマホ、家の鍵、財布、時計。
スマホの電源を入れ、電話やメールの履歴を見る。
……何もない。初期状態だ。
いや、待て待て。
着信や発信を見ても俺の名前なんてあるわけがない。
またもや視野狭窄になってるぞ。
落ち込みかけた気を取り直して、連絡先やカレンダーやメモ、さらに写真やダウンロードした曲など様々な俺の名前や由来があるだろうアプリを開くが全て白紙状態だった。
そのスマホに唯一残っていた記録は、火口でミドガルズを撮った物だけだった。
そんな馬鹿な。
俺は確かに日本で生まれて、今ではボロボロになったこの制服を着て、高校生になったばかりだ。
いや、そのはずだ。
ネットやゲームばっかりしてるダメダメ高校生のはずだ……。
両親親戚の名前、友人の名前……分からない。
住んでいた所も思い出せない。
おかしい。
芸能人とか徳川家康みたいな歴史の偉人の名前は分かる。
なのに自分の名前とか俺に関係する名前が全く分からない。
そんな馬鹿なと再度思い、今度は財布を広げる。
二枚のお札といくつかの硬貨が出てきた。
二人が描かれたお札には折り目が着いてしまっていて歪んだ笑顔の肖像画になっていた。
これは野口英世。黄熱病の研究者だ。意外に女好きの偉人。ニューヨークのロックフェラー大学図書館にも胸像が置かれている。
これは樋口一葉。歌人で小説家。近眼で針仕事をしたくないために小説を書き始める。肺結核で二四歳と言う若さで死去。
これくらいなら中学生のときに知っていた。
ここにはいないが福沢諭吉だって知っている。
違う。
ここに俺の手がかりはない。
『何だ? そんなに取り乱して』
ヴィゾはそう俺に尋ねるが、それに応える心理的な余裕がない。
レシートを取り出す。
スーパージャンボという店名のレシートにはコーラと幕の内弁当を買った記録があったが、山口加奈子というレシートを打った名前の記録以外は人名らしき物はない。
様々な雑多なカードの中から会員カードを取り出す。
レンタルビデオショップ、図書館、キャッシュカード、マンガ喫茶のカードが見つかった。
ビデオショップのカードを手に取り、ああ良かった、と安心した。
全国展開するそのビデオショップは会員名を裏に書かせるからだ。
裏返してNAMEという印字の横をみると、空欄になっていた。
生年月日すら何も書かれていない。
こんなことありえるのか、と不安感が俺を押し潰そうとした。
全てのカードをひっくり返してみるが、全ての名前欄はやはり空欄だった。
――名前が分からない。
体がぶるぶると震えだす。
こんなことでと思うかもしれないが、自分がどういった者かが分からない恐怖は体験した者しか分からないだろう。
自己同一性なんて言葉がある。
まさに俺は今そのアイデンティティーが欠落していたことを身をもって知ったのだ。
『……自分の名前……分からない』
『何だと? そう言えば貴様は生命之書を消されたのだな。ならば仕方ない。あれは生き物全ての運命が記されている。それが消されたということは、当然、名前も消されてしまう』
『いや、知っているはずの人の名前も分からないんだ』
『だから、運命全てに関わったヒトの記憶が貴様から抹消されたのだろう。そう考えるのが筋だ。何か記録が残っていては意味がない』
『……うそだろ?』
幼稚園の時に七面鳥に親友と一緒に追い掛け回された思い出も、小学生の時にしたキャンプファイアーの思い出も、初恋の相手が親友と付き合った事実を二人に聞かされ陰で泣いた中学生の時の思い出も、高校で出来たアニメおたくのくせにやたらモてる友達との思い出も全部消えちまったってことか?
幼稚園の時からの親友の名前は?
初恋の相手の名前は?
高校で出来た友人の名前は?
――思い出せない。
『まあ、そう悲観するな。新しい名前を考えれば良いじゃないか』
おろおろしながらヴィゾは随分気を回してくれたが、やはり俺にはそれに応える余裕はなかった。