レーヴァンテインの枝
『起きろ。ここを何処と心得る。地を這う虫けらめ』
頭を蹴りつけられた衝撃で目が覚めた。
辺りを見回すとミドガルズに負けないほどの大きな龍が、俺を親の仇でも見るように見下していた。
龍の人相の区別はつかないが、ミドガルズが俺たちに向ける感情ではないことが明らかに見て取れる。
顔に大きな傷痕があり、引きつるように顔を歪める。
『……マリアはどこだ?』
俺しかいない。
少し眠っていた隙にマリアがいなくなっていた。
『おお。本当に言葉が分かるのか。ミドガルズオルム様がヒツジに肩入れするあまり遂に発狂したと噂が立って心配していたが。薄汚れた丸太で爪龍に相対したと聞いたがまことか?』
傷痕が笑う。
こんな醜い笑顔は初めて見た。
『マリアはどこだって聞いてんだよ』
侮蔑の表情を俺に向けるその龍は、薄ら笑いを浮かべながら話す。
『マリア? ああ。あのヒツジか。あれなら籠に入れたところだ。心配せずとも勝手な処分なぞせんわ。まあ虫けらには分からんことかも知れんが』
『処分だと?』
『どこぞの地域で飼育するらしいが、ヒツジの管理などに興味は無い。……どこかの酔狂な龍王候補とは違ってな』
『何だと!?』
『そういきり立つな。ヒツジ臭くてかなわん。おお臭い臭い』
何なんだコイツは。
いきなり蹴りつけておいて、因縁吹っかけてくるなんて。
俺が口に出すのもはばかる悪口で応戦しようと思ったその時、背中に向けていた扉が開く気配がした。
ちっ。
『騒がしいぞ。何をしている?』
ミドガルズが扉を開けて、傷痕と俺を交互に見ながら尋ねた。
何かもうミドガルズは色々タイミングが悪いヤツだなあ。
『これは殿下。お久しぶりでございます』
傷痕はミドガルズに向かって、胸に手を当て平身低頭した。
芝居がかった胡散臭い仕草だ。
『ヴィゾーニブル将軍。久しいな。陛下たちに何か用であるか?』
『はい。珍しいヒツジが手に入ったと聞いたので、一つ見物に参りました。私めもこのヒツジをどのように取り扱うか興味がございまして』
『左様か。今しがた龍議会で意見交換をしておる。丁度良い。将軍も中に入れ』
傷痕将軍に文句をつけたりなかったが、ミドガルズに中に入るように促され、扉の中に入った。
こんなヤツと仲良いのかよミドガルズ、見損なったぞ。
マリアの安否も心配だったが、まずはやるべきことをやらなくてはならない。
――――――
――――
――
『陛下。これが龍言語を話す人間でございます』
『うむ。ミドの言う通り、確かに生命之書が無いな』
まさに龍の巣窟と言えよう王座の間には、何匹もの巨大な龍が綺麗に並んで頭を垂れていた。
その中で一匹だけが、顔をあげ、俺を見つめる。
ミドガルズが陛下と呼ぶ龍は、想像していた巨大な龍ではなかった。
法龍ニーズと同じくらいの小さな龍だった。
顔には皺が深く刻み込まれ、生きた年輪を思わせる。
だが、余裕のある佇まいと気品を四方八方に撒き散らしていて、瞳の輝きと声の力強さがそれらをうまく調和して王の片鱗を語っていた。
『ミドはお止めください陛下。他の者に示しがつきませんので』
『そちは相変わらず堅苦しいのう。オシメを替えてやっていた頃が懐かしい』
『陛下っ!』
『おお。怖い怖い』
このミドガルズを赤ん坊扱いとは、とんでもない爺さんだ。
オシメを替えてもらっていたらしい巨大な龍は顔を真っ赤にして抗議の声を上げているが、全く意に介した様子が無い。
爺さん龍は俺に向かって言う。
『色々と話を聞かせてもらった。中々面白い人間であるな。余に何ぞ物申したいとか』
一応、話しても良いかどうか、ミドガルズの方を見る。
ミドガルズはいたずらが見つかった悪ガキのようにばつの悪い顔をしていたが、俺の目線に気がつき肯き返す。
『はい。……陛下。まずは謁見の機会を設けさせていただき、感謝の意を申し上げます』
一歩前に進み出て、胸に手を置き頭を下げ、出来るだけ失礼にならないように気をつけたつもりだった。
おお、とその場にいた龍たちが感嘆の声を上げる。
あれ?
何かまずった?
見よう見まねでやってみたんだけど。
爺さん龍は大声で笑いながら、返事を返した。
『驚きじゃ。本当に龍言語を喋りおる。しかしミドが連れて来た人間はやはり堅苦しいのう。そんなに畏まらなくて良い』
『では、お言葉に甘えさせてもらいます』
王様って割には結構フランクな爺さんだな。
そう思いながら言葉を続けた。
『文化交流をするために龍言語の啓蒙をすることはとても良いことだと思います。それらの話はミドガルズから聞きました。実際に彼らと接していて龍という種族がどういうものかも分かりました。知性と力を持つ強大な種族です』
ふむ、と言って爺さん龍とその取り巻きの龍たちは話を聞く姿勢になった。
よしよし。
掴みはオッケーらしい。
『ですが、そうであるため我々には誤解を与えています。たまたま俺が龍言語を理解出来るから、こういった感想を持ちましたが、実際には恐怖の対象として認識されています。これには大きな二つの理由があります』
『続けよ』
爺さん龍は他の龍たちが何か言おうとするのを押し留め、続きを催促する。
『まずは見た目です。我々のような生き物にとって巨大な龍は、恐ろしいものです。踏み潰されてしまうのではないか、その牙に噛み砕かれるのではないか、その爪で引き裂かれるのではないかという生物が持つ根源的な恐怖からです』
ふふん、といった荒い鼻息が聞こえた。
『もう一つは龍言語の誤解です。人間には龍言語は恐ろしい意味に聞こえています。その場にいた龍言語を理解できない俺の友人は、錯乱状態になりました。これは体ではなく、心を砕く恐怖です。知性を持つ生き物のみが持つ恐怖です』
なるほどそういうことだったのか、という驚きの声が半分。
弱い体を持つ生き物は心も弱いな、という嘲りの声が半分。
『この二つの理由が足かせになり、現在の方法、つまり、ヒトが龍言語を理解するのを自然に待つという受身一方である啓蒙方法は、全くといっていいほどその意味を理解されていません。龍にとっての二〇〇年はたいした時間ではないかもしれませんが、ヒトにとっては膨大な時間です。その時間が現在の方法が間違っていることを証明しています』
ヒツジ如きが何を偉そうに、という小声のヤジが後ろから聞こえた。
この声には聞き覚えがあった。
あの傷痕だ。
『ではその二つの理由とやらを踏まえて、どうすれば良いと思うのじゃ?』
龍王は俺が最も聞いて欲しい質問をした。
ふう、と一息つき、緊張しながら考え抜いた結論を言う。
『龍がヒトの言語を習得した方が早い、と思いました』
王座の間は、ヤジの声によって騒然となった。
ミドガルズと爺さん龍以外が、猛烈な抗議を見せたのだ。
『ヒツジの言葉なんぞを我らに話せと言うのか』
『ペラペラ喋るばかりが能の虫けらが』
『歴史と伝統の意味がまったくわかっとらん』
『誇りある龍がヒツジに合わせる必要など無い』
『お望みどおり噛み殺してくれよう』
ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ外野がうるせえ。
かちんと来た。
切れやすい若者代表として、盛大に釘を踏み抜いてしまった。
『では聞きます。あなた方がヒツジと蔑むヒトたち。龍はその言語を習得する自信がないと仰るんですか? 俺はそうは思いません。生き物を慮り、正義を行い、文化の潮流に乗り遅れることを恐れる優しき強い、賢者たる龍。そんな龍に出来ないわけがない』
ケンカ腰の俺に向かって、殺気じみたヤジがますます強くなる。
やべえ、油注いじまった。
後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
王座の間が割れんばかりのヤジに包まれた時、先ほど入ってきた扉が強い勢いで開いた。
『乗ったわ! 面白いじゃない!』
体も爪も牙も角も小振りの龍が一匹、王座の中に駆け込んできた。
『ひ、姫様。今は会議中ですぞ。勝手なことを申されては困ります』
一番後ろにいた身体は大きいが、気の弱そうな龍が、弱弱しい抗議の声を上げる。
だが、姫と呼ばれた龍はその言葉を完全に無視して、玉座に座る龍に向かって言う。
『お父様……いえ、陛下。是非とも、その任を仰せつかって下さい』
『リント。お前は修行中の身だぞ。任務などまだまだ任せられん』
『そうだからでこそ、ですわ。言語を習得するには若い龍のほうが良いはずよ』
『嫁入り前のお前が何を抜かすか』
『文化交流の先人を切ることこそ王家の勤めだと思うわ。王とは上に立つこと以上に、民の先に立たねばならないってお父様も仰ってたじゃない。みんな。良く聞いて。今、ここで歴史が動くのよ』
歴史が動く、という大仰な言葉に今までヤジを投げつけていた多くの龍が唸った。
龍にとって誰もが成し得なかった文化の交流が出来る可能性が見えたからだろう。
姫龍の言葉によって、俺に対する悪感情が薄まって行くのがはっきり分かった。
『しかし、この者が言う様に、龍の姿では言語の習得が困難じゃ』
その通りなのだ。
龍の姿で、ヒトとの交流を図るのはほとんど不可能と言っていい。
怖すぎてマリアのような状態になってしまい、言語習得に不可欠なコミュニケーションが取れない。
『だからリントブルームは堕天します』
姫龍は、はっきりとそう言った。
『な、なんじゃと!?』
龍王の驚きだけではない。
室内がざわめき立つ。
『ヒトの姿になり、ヒトの交流を学んできます。どうか、その任務このリントブルームめに仰せつかって下さい』
『堕天するのは簡単じゃが、昇天するのはそう簡単なことではないのじゃぞ? 分かっておるのか?』
姫龍が姿勢を正し、厳かな口調で言う。
『……全て承知の上です。さあ。ご決断を。皆様方、歴史に名が刻まれる賢龍としてその賛意をお示しください。この一瞬が、永久の栄光として語り継がれるのです。幾星霜の命の中で、最も輝きを放つ瞬間が今なのです』
ヤジは既になりを潜めていた。
ざわざわとした囁きが、自分の立ち位置をどちらにしようという迷いに聞こえた。
誰もが分かっているのだ。
見下す者たちといずれ交流しなくてはならない必要性を。
誰かが一歩を踏み出さなければならない。
ここにいる者たちは賢い龍なのだろう。
一時の誇りによる停滞と、泥にまみれる進化。
どちらを選ぶべきなのか。
チャンスに乗り遅れる間抜けはいないはずだ。
俺みたいなどこぞの者の言葉ではなく、王族がそれを認めるのならばそれに従おうという葛藤が見えるようだった。
後一押しで、この場の半分以上がそれに賛意を示そうとしている。
だが、事態はそう簡単には運ばない。
『姫様……貴女はヒツジに惑わされております』
間抜けがいやがった。
苛立たしげに傷のある顔を歪めながら吐き出すように言った。
『黙って聞いておれば、ヒツジ如きが何を抜かすか。神聖なる御前で頭が高い』
俺を見下しながら、将軍と呼ばれる龍は続ける。
『ヒツジども虫けらの言葉を話すことなど、文字通り虫唾が走ります』
姫に向き直りそう語り、ことの成り行きを見守っていた龍たちに向かって話す。
『皆様方。誤解しておられるようだが、このヴィゾーニブルは全てお見通しです。この者は悪神の使いです。ミドガルズオルム殿下と姫様を惑わし、誇り高き龍を堕落させんとする、実に恐ろしい小ざかしい幽鬼だ。ほら、その証拠に生命之書が無いではないか。皆様方、ご覧あれ。この醜き亡者の浅ましきこと』
コイツ。
何考えてやがる
龍がこの先に生き残るには異文化交流が必要なことぐらい分かっているんだろう?
『何を言うヴィゾーニブル将軍。そなたも知っておるであろう。生命之書が無いことと、幽鬼は全く違うことを。生命と幽鬼は別物だ。それこそ誤解である。そなたともあろう者が一体どうしたというのだ?』
ミドガルズは猛然と抗議をするが、全く意にかえさないヴィゾーニブル。
『おーやおや。ひょっとして図星でございますか。歴史と伝統と格式を重んじる賢明なる方々は既に虫けらの正体など見破っておりますぞ。どうにも殿下はヒツジたちとお戯れにすぎたようですな。ヒツジなどに懸想しているご様子で』
ミドガルズに向かって、馬鹿にしたような引きつった笑みを浮かべて言う。
あっちを向いたりこっちを向いたり、くるくるくるくる忙しい野郎だ。
今度は爺さん龍に向かって言った。
『陛下。私めにこの幽鬼を滅ぼす機会をお与え下さい。たちどころに打ち倒して見せましょう』
年老いた龍王はしばらく逡巡した後、こう語った。
『……己が誇りをかけて決闘を申し込むと言うのじゃな? 歴戦の勇者であるお主のことだ。何か考えがあるのじゃろう。しかし、ここがどういう場か分かって言っておるじゃろうな? 撤回は出来ぬぞ』
『決闘? 駆除と言いたい所ですが、良いでしょう。伝統に則り、この虫けらに引導を渡してやりましょう。真に、心に、国の為を思えばこそ、誇りを重んじます故に。皆様方。どうかご決断を』
かちっと言う、歯を鳴らす音が聞こえた。
それを皮切りに、かちかちとそれに倣う龍が増えた。
およそ半分以上の龍が、歯を打ち鳴らす。
なるほど。
拍手みたいなものか。
これが賛成の意を示す儀式なのだな。
『ほとんどの方が賛成してくれたようですな。ずるがしこい幽鬼よ。その短い首を洗って待っておれ。成敗してくれるわ』
あ、この野郎、ちょっと盛りやがったな。
良いとこ半分越えぐらいじゃねえか。
だがまあ、確かにいきなりやってきた見慣れぬ虫けらと将軍なんて呼ばれる龍のどちらに信用があるかというと、俺の分は悪いだろう。
最低でも現状維持を図れるのならば、取りあえずそちらを選ぶ気持ちは分からんでもない。
だが、どう考えても話が飛躍しすぎだ。
まず、俺の意思の確認をしようよ。
自分で言うのもなんだが、俺はレアアイテムのはずだぞ?
龍言語とヒトの言葉が分かる者がこの先現れる保証はないはずだ。
ガチャガチャやったところで当たらないぐらい激レアなはずだぞ?
いいのか?
本当にいいのか?
誰か止めてやった方が良いんじゃないか。
ってか止めてっ!
『待って』
傷痕龍ヴィゾーニブル将軍の独演場と化していた王座の間に、反意を示す声が掛かる。
先ほどの姫龍だ。
正直オスかメスかの区別すらつかないが、愛してるぜ!
さあ止めてくれ!
『龍議会の決定は、例え王族でも覆すことは出来ませんぞ』
俺のあずかり知らぬところで決闘が決定したらしいため、ヴィゾーニブルは勝ち誇ったかのように姫にやんわりとした態度で伝える。
よーし姫様!
頑張って反対しろ!
俺はこんな恐ろしい龍なんかと闘いたくないぞ!
『……そうじゃないわ。このヒト、武器が無いじゃない。まさか爪龍で最も強い貴方が、ただのヒツジに丸腰で決闘を挑ませるというの?』
ぷっと吹き出したヴィゾーニブルが、大声で笑い出した。
その笑い声が伝染して他の龍もくすくす笑い出す。
何が可笑しいのか分からない。
ドラゴンジョークか?
『確かに虫けらには武器がありませんな。よろしい。認めます。そういうことで良いですかな。皆様方』
今度は、全員がかちかちと歯を打ち鳴らした。
龍王とミドガルズも、渋々とそれにならっていた。
せめてもの反意だろう。
『とは言っても、生まれながらに最強の武器を持つ我ら龍には、虫が使える小さい武器なんてご用意できかねますが。それともミドガルズオルム殿下のご報告どおりに、そこいらの丸太でも与えますかな』
口元に手を当てて笑いながら、明らかにおちょくっている様子でそう続ける。
……コイツ、間違いなく嫌なやつだ。
『あの『レーヴァンテインの枝』があるじゃない』
姫龍がそう言った。
何のことかさっぱり分からないけど、俺すっごい不服。
丸太じゃなくて枝かよ。
一瞬、ぎょっとした目を向けた視線が多数見て取れた。
しいんとした静寂が王座の間に下りる。
からん、という何かが倒れる音が響く。
まるで時間が止まったかのように誰も物音一つ立てない。
次の瞬間、大爆笑が起きた。
肩を叩き合いながら笑うなんていうのはまだマシだ。
後ろにいるヤツらなどひっくり返って笑ってやがる。
ここを何処と心得てんだ!
ドラゴンジョークはわかんねえっつってんだよ!
『よろしい! 認めます! 虫けらとガラクタを二つも処分できるこのような格好の機会などまたと無いでしょう。流石姫様だ。目の付け所が違いますな! 虫けらに『枝』を与えましょう。皆様方。よろしいですな』
最早、口元を隠すことなど無く、大口を開けて笑う龍が叫んだ。
龍王もミドガルズも、困り顔を固めたまま、事態の流れに逆らうことが出来ないようだった。
かちかちという歯の音が笑い声と共にその場にこだました。