到着と両替、そして最悪な黒い朝
街道を進むと、ようやく町に着いた。
背の高い囲いが町をぐるっと守っている。
太い木と石を積み上げられて出来た柵は、この町の歴史と共に強固さを象徴していた。
初めて見るはずの光景は、俺に不思議な既視感を与えた。
ああ、ヒトの文明に間違いない。
木に金属が絡まり合った大きな扉が俺たちの前に立ちふさがる。
二人いる門番の年老いた方が俺たちに尋ねる。
「目的と積荷……は無いようだな……。何があったんだい? 見たところ武器はその背中に背負った長物だけのようだけど、そんな軽装でよくここまで来れたもんだねえ」
俺たちの格好とその荷物の少なさに驚いていたようだった。
俺はマリア以外の初めての異世界人に興奮していた。
ヒトだ。間違いなくヒトだ。いいや、ここは関門だ。テンパったらことだぞ。
そういった考えを出来るだけ抑えて、とっさに適当に作った嘘を言う。
「……助かりました。『学園』に行く道すがらなんですが、どうにも地図と馬と荷物を失って困っていたんです――」
門番はその言葉にかなり驚きながら、同情した声でその返答をした。
「それは災難だったね。いや、無事に辿り着いたのは幸運だったと言うべきか。ここから『学園』はまだまだ長いよ。日暮れ前にここに立ち寄れたのは幸いだったな。まだ収穫前の時期だから、恐らく宿は空いている。長旅ご苦労だったね……ここに、ひいふうみい、五人か。人数と代表者の名前だけで良い。書いてくれ」
事務的に門番が差し出す受付表のような物をうっかり受け取ってしまう。
しまった。文字は分からん。
「マリア、頼む」
俺はマリアに渡し、書いてもらった。
何やら不思議な模様をマリアはさらさらと書き、門番にそれを渡す。
「ルディスへようこそ。道中、さぞ大変だったろう。ゆっくりと休んでいってくれ。町長に代わり、貴君たちを歓迎する」
「ゴルドスタインさんが当番でよかったな、迷子の少年たち。この人はいつも検問が緩いんだ」
こらっと若い方の門番が頭をはたかれたが、当の門番であるゴルドスタインさんは怒ったような顔をしていない。たしなめた程度だ。
「ありがとうございます」
二人の優しき門番はにっこりと笑い、門を開けてくれた。
マニュアルか何かがあるのだろうが、俺はその歓迎の言葉に感謝した。
嘘をついたことに少し罪悪感があるが、本当のことを言ったところで、ますます混乱させるだけだ。そう、これは皆のため。
俺はそういう風に罪悪感をごまかし、恩着せがましい自己中な考えで塗りつぶした。
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町は中々盛況だった。繁華街といっても差し障りは無い。
大通りに面した店は、それぞれ趣きが違い、石造りの物もあれば木造の物もあった。一階から二階建ての背の低い建物が多かった。
だが大体が、食事処は木造で、それ以外は石造りであると言えよう。
それらが混在し、町は一種独特な雰囲気を漂わせていた。
予想していた中世ヨーロッパ風な光景ではなかった。
貿易の中継地点なのだろうか。カラフルで奇抜な商品が所々にその存在を主張する。紫や青や赤、黄色のスパイスが山盛りに盛られた店もあった。青果店らしき店では、見た事のない形の葡萄に似た果実が売っていた。
まるで統一感の無い、エスニックな雰囲気だ。
比較的穏やかで人の往来が激しい、のどかな喧騒は、どちらかと言うと中南米やインドやエジプトなどの国に似ていた。
夕飯前だということもあるのだろう。様々な往来が見て取れた。
その時の俺の興奮度はそれはもう大変だった。
なぜならば人間ではないヒト型の生き物がたくさんいたからだ。
耳が大きな尻尾がある獣人や肌がやけに青白い人種もいた。
どこからか食欲を刺激する旨そうな夕餉の匂いが漂ってくる。
お腹の虫がぐるぐると騒ぐ。
うおおおお。何だあの串焼きは!
早く食べてみたい!
如何にも異世界らしき風景に、俺の興奮度ははち切れそうだった。
だがそういった誘惑に惑わされてはいけない。
俺たちが最初に向かわなくてはならないのは両替所だった。
先立つものが無くては何も出来ないのはどこの世界でも一緒だろう。
だが盛況なこの町では、どこに何があるのかということが、余所者である俺たちには判別が難しかった。
武器屋は剣のマークで何となく分かった、道具屋も薬ビンのようなマークで何となく分かった。
しかし、両替はどこでやっているのだろうか。この世界のお金の形など分からない。
武器の相場は分からないし、道具屋で金塊を出すような取引は怪しまれるだろう。
ふと、思いついた俺は、大通りの中で一番目立つ、高級そうな服屋に入った。
「いらっしゃいませ」
慇懃な挨拶を見せる若い女店員が、こちらを如才なく観察するのが分かった。
マリアはこういったお店に入った経験が無いのだろう。かなり緊張しているようだ。
三人の元龍は、見るもの全てが初めてだけあって、色々と世話しなく見ていたが、この店には体を包む布しかないと分かると途端に興味を失ったようだ。
「この三人の女の子に、適当な服をお願いしたいんだけど」
「お客様。当店は非常にお求め辛いお値段なのですが……」
こちらの懐具合を探るような目を向けて、俺にそう言う。
俺たちの格好はそれはもうあまり上品とは言えない格好であったのだから、釘を刺す気持ちも分かる。
マリアが小声で、ここ凄く高い店だよダメだよ、と俺の裾を引っ張りながら言うが、気にしない。
「ああ。しまった手持ちが無い。両替を忘れたんだった。おっと……コレでどうかな?」
空々しい小芝居をして、俺は小箱から小石サイズの金塊を出した。
それを疑わしそうに手に取りその重さから全てを悟った店員は、目を見開き今にも揉み手をしようとするぐらいに、格段に機嫌が良くなった。
「……お客様。ただいま別室の方をご用意させていただきます。少々お待ちを」
「ああ、よろしく。それと、聞きたいことがあるんだけど――」
三人に口を開かないように厳重に注意し、慌てふためきながら目を輝かせるマリアにその場所を任せ、俺はその女店員から聞いた両替所に向かった。
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「これを全部両替するんですか……」
「……まさか、そんなわけ無いでしょう。しばらくこの町にいるから、大半は預けるつもりなんだ」
看板も何も無い、全面が石造りでできた堅牢な建物だった。
これは服屋の店員に聞いて正解だったかもしれない。
銀行のようなものなのだろうか。
鉄格子のある物々しい受付で、現物を見せて金の両替を依頼したところ、担当者に代わりますので、と受付嬢は慌てて駆け出して行った。
その担当者である両替商の反応を見て、俺は早まった気持ちになり、慌てて取り繕う。
かなりの金額らしい。
「その方がよろしいかと。ただいま計算しますので、お待ち下さい」
パチパチと算盤のような計算機と秤で、金額を計算する両替担当者。
しまった。
言った後に気付いたが、預けるなら預け入れのサインなり何なりが必要だろう。
俺は文字が書けないのだ。
急がば回れとはこのことだ。
早いところ金の物理的な重さはまだしも、精神的な重さから解放されたいと思って焦ったのが裏目に出た。
「計算が終わりました。今日の金相場ですと、二五万飛んで四七四ライザになりますね」
「二五万か……うん、悪くないけど、もう少しいけそうだね」
ライザって言うのか、ここの流通貨幣は。
俺は落ち着き払って知ったかぶりをして、そういうふうに言ったが、何がもう少しなのか全く分かってなどいない。
「そうですね。ご存知の通り、もうしばらくしたら収穫なので、国や大規模商会がそれを取引予定にした流動化、つまり大型な現金化の動きが活発なようです。小規模商会や個人投資家も足並みそろえてその流れに乗っています。お客様の仰るとおり今は貯蓄性向の高い金相場はあまり加熱傾向ではないと思います」
うんうん。何かそういう感じ。今は金相場は良くないよね。知ってた。超知ってた。
知ったかぶりの権化と化した俺は調子に乗ってそれに応える。
「そうだろうね。じゃあ一万ちょうど分だけ現金化することにするよ。使いやすいように小額の貨幣もお願い。手数料は残りから引いてくれ」
「金貨はミノス金貨でよろしいですか? それともダマル金貨でしょうか?」
「使いやすさで考えると……」
おいおい、お金統一されてないのかよ。わからねえ。
さあ、やり手両替商の君なら俺の言いたいことをいい感じに読み取ってくれるよな?
「流通量を考えますとミノス金貨ですね。それでしたら銀貨はリュシアル銀貨の方がよろしいかと。かしこまりました。残りは預け入れで?」
よーしよし。それでいい。
ミノス金貨にはリュシアル銀貨が合うのね。
「こちらではどういう風にしているんだ?」
もちろんアバウトな質問をすれば意味を向こうで勝手に受け取ってくれるだろうと、期待しての質問だ。
「保管の場合は、金そのものを預かる代わりに、手数料を頂きます。引き換えに重さを記した手前どもの金の保管証を発行させていただきます。金を現金化されて預け入れる場合は、手数料は頂きませんが、今日の金相場で換算させていただきます。その際には通帳を作るためにご署名が必要です」
保管は手数料の代わりにサインいらず、預金は手数料は要らないがサインがいる。
よーし。それが聞きたかった!
「じゃあ保管で」
「かしこまりました。こちら合計一万ライザ分のミノス金貨九枚、リュシアル銀貨一七枚、銅貨一五枚になります。銅貨より小額な貨幣はこちらでは取り扱っていませんのでどうかご容赦を……こちらが手数料分を引いた保管証になります。私、担当のゴルドスタインと申します。何かお困りのことがあれば何なりと。今後ともお取引の程よろしくお願いします」
うーん、と、金貨が一枚一〇〇〇ライザで、銀貨が五〇ライザ、銅貨が一〇ライザかな。
うし、分かりやすい。
一緒に渡された保管証。分厚く上等そうな紙だった。ゴルドスタインさんの名前が署名されていた。
彼はご丁寧に金銀銅貨の三種類と他に三つのスペースが空いた六種類の貨幣を入れられる革製の袋をサービスしてくれた。
そのおかげで、あと三種類の通貨があるのだろうなと予想できる。
ふちを紐で縛れることが出来るそれは、大きな財布のようだった。
サービスだろうか。とてもありがたい。ゴルドスタインさんね。覚えておこう。
あれ?
「ありがとう。ゴルドスタインさん。……もしかして門番の方は、ご家族?」
「ご存知でしたか。はい。愚弟でございます」
「いやいや。彼はとても良く出来た方ですよ。感謝しています。これからもよろしく。弟さんにもよろしくね」
ふいい。何とか上手く取り繕うことが出来た。
手汗べとべとだぜ。
門番と両替商が家族とは思わなかったが、そう言えばどこと無く顔の造形が似ているな。
この両替商は信用しても良さそうだ。
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『ちょっと楽しみだったのよね、初めての人間の食事』
『リント姫、もし食べるならヒト言語でやりましょう』
「マリア。食べる時の決まり言葉はあるか?」
「え? 神への感謝? 私の村じゃあんまりやってなかったけど」
……誰があんな神どもへと感謝するものか。
「それじゃあ、俺に合わせてくれ」
『三人とも、ヒト言語では食べる時にこう言うんだ』
「イタダキマス」
俺たち五人は、宿の近くにある食事処で夕食をとることになった。
万年樹では、苦いサラダと果物と芋しか出されなかったため、俺は異世界料理に大いに期待していた。
その店は特に名のあるような有名店ではないらしいが、素朴な良い味だった。
リント、ニーズ、ヴィゾはそれぞれが違った感想を持っていた。
リントは食事にも興味津々だったが、ニーズは草食動物としての気持ちが抜けないのか果物ばかり俺にたのんでいた。ヴィゾは抵抗の度合いが強いようで、頑としてテーブルに並べられた食事に手をつけようとしなかった。
マリアに身振りで食器の使い方を教えてもらったリント姫は、スプーンでシチューを口に運び、驚きの表情を見せる。
『美味しい。……動物の肉がこんなに美味しいなんて』
『さっき言ったイタダキマスって言葉は、調理してくれた人たちへの感謝と、食材となった命への感謝の二種類の意味があるんだ』
『なるほど。……そうね。「イタダキマス」か。いい言葉ね』
リントが旨そうに肉を食べるのを見て、ニーズもしぶしぶ口に運ぶ。
直後、顔中からビックリマークが飛び出さんばかりの興奮を見せた。
『何だこれ。おい、強き者。これ、何か、これ。オレ、すご』
目をぱちくりさせて、ニーズは一心不乱にビーフシチューらしき食べ物を口に運んだ。
スプーンの使い方を教えるが、中々言うことを聞かない。
皿を舐め回すように顔中でシチューをあっという間に食べきった。
買ったばかりの上品な服で口の周りについたシチューを拭き、あろうことか俺の分の串焼きにまで手を伸ばし始める。
初めて食べる肉はとても美味しかったようで何よりだ。
龍は草食動物だ。肉を食べるような器官は発達していないのだろう。そのため、恐らく肉を口に入れたとしても美味しいと感じることはない。
しかし堕天した今、雑食性のヒトになったおかげでその舌は肉の旨さが分かるようになっているようだ。
『なあ、ヴィゾも食べろよ。これから野菜だけだと栄養が偏るぞ』
『うるさい。自分はそんな野蛮な食い物など食べたくない』
『じゃあこれ。これは肉じゃない。小麦を練って焼いた物だ』
『む、本当か。それなら、よいか。では……な……なんだ……これは』
不満気に口に運ぶヴィゾは、それを口に入れた瞬間に顔つきが変わった。
『それはパンって食べ物だ。美味しいだろう?』
『ヒツジめ……こんな物をモグ隠し持ってモグいたとはモグモグけしからんモグ』
誰も隠してねえよ。
フランスパンのような硬いパンを口に押し込むようにして食べるヴィゾ。
お前元将軍だろ。何とかならないのかその食べ方。喋るか食べるかどっちかにしろ。ああ、喉に詰まったんだな。ほらモグモグこのジュース飲め。
モグモグはパンを食べたことで、ヒトの料理への偏見が薄れたのか様々な料理を俺に頼ませ、一々俺に文句を言いながら体格に見合う大量の料理を平らげた。
『「自家製パン」と「ルディスシチュー」は良い物だった。いや「テール焼き」も捨てがたい。自分はヒトを見直したぞ。この店は何という名だ。さぞ名のある名店に違いない。素晴らしい』
店員が皿を運んでくる時に料理名を聞き取ったのだろう。耳ざといヤツだ。
ヴィゾは感心しながら褒めちぎる。そんなに気に入ってくれると俺まで嬉しくなってくるよ。
「今、自家製パンとルディスシチューとテール焼きって言った?」
マリアは驚きながら、ヴィゾの言葉を捕まえ、そう言う。
「あれ? 分かった? 美味しいってさ。気に入ったみたいだよ」
「ヴィゾ君スゴイよ。一番上達が早いかも!」
好きこそ物の上手なれ。いやちょっと意味が違うか。
でも好きな物の名前を覚えたい気持ちは分かる。俺も面白くてくだらない物の名前は山ほど知っている。
「うるせえんだよ! さっきから意味分からねえことゴチャゴチャ騒ぎやがって!」
皿が割れる音とイスを盛大に倒す音が聞こえた。
隣の席の客が俺たちに詰め寄って来る。ゴツゴツした手にはワインのビンが握られていた。目が充血していて、顔が真っ赤になり、火がつきそうなくらいアルコール臭い。明らかに泥酔状態だ。
同席していた連れの男たちが止めに入るが、その手を振り払い俺たちを威嚇した。
ニーズとヴィゾは軍務経験者だけあって、瞬時に警戒態勢に入る。
俺はそれを手で押し留めて、件の客に頭を下げた。
「すみません。騒がしくしてしまって」
「すみませんですんだら領主様はいらねえんだよ! おい表出ろや」
「……本当に申し訳ない。静かにさせますから」
「女連れだからってカッコつけてんじゃねーぞ小僧。その長い剣はお飾りか? いいから着いて来い」
目が据わったその男は、しきりに俺を表に誘う。
三人の言葉が気に触ったのだろうか。龍言語は特殊に聞こえちゃうからな。
それとも、もしかしてケンカ売りたいだけなのか?
やめといた方がいいぜ?
暴力反対だぜ?
いいのか? 俺はガンジー真っ青の平和主義者だぞ。
鶏真っ青のチキン野郎だぜ?
「ここは俺が持ちますから、どうか勘弁してください」
お金で解決できるなら、そっちの方が良い。龍言語のことを考えなかった俺が悪いんだし。
店の代金をおごると聞いたその男は、振り上げた拳の落とし所を見つけたのだろう。
顔を歪めたまま、器用ににやけた。
「ああ? ま、そういう態度なら許してやらんことも無い」
そう息巻いて、あっさりと席に戻って行った。
男の連れの一人が俺に話しかける。
「すまんね、君。アイツも悪いヤツじゃないんだ。でもノルマが少し足らなくてカリカリしててさ。勘弁してやってくれ」
その男は酔ってはいたようだが、言動はかなりしっかりしていた。
おごってくれる相手へのお愛想くらいは出来るようだ。
「ノルマ、ですか? 今は収穫前だと思いますけど……」
年貢か何かだと思った俺はその男に尋ねた。
「ああ、もしかして旅のヒト? 違うよ。収穫税の話じゃない。この町には領主様直々のノルマが町民に課せられているんだ」
「はあ」
何にせよ八つ当たりかよ。
「知ってるかな? この辺には結構いっぱいいるんだけど、ムシハミオオネズミっていう大きなネズミ。それを一定数殺処分しなくちゃいけないんだ」
おごりのお礼のつもりなのか、レイナルドというその男は詳しく話してくれた。
病魔を運ぶ悪しきネズミを駆逐することは、この領地に住む者の義務であり、また奉仕である。全ては町を思う心優しき領主様のお考えである。
一昨年から、町長直々にそう言った前置きと共に、法律が施行された。
①町民はムシハミオオネズミを収穫前に一人につき一〇〇匹捕獲または首を用意する。
②一〇〇匹以上を超えた場合、一匹につき一〇ライザか一銅貨が報奨として与えられる。③捕獲された個体または首は保健所にて焼却処分。
④一〇〇匹を捕獲または首を用意できなかった者は、罰金として足りなかった頭数分に一〇〇ライザを乗じた金額を支払う。
「アイツのうちは五人家族でそのノルマも多いんだ。まだ子供が小さいから奥さんもネズミ捕りにあんまり手をさけないし、五〇〇匹を一人で集めなくちゃいけないのは大変だろう。しかも、運が悪いことに、今日の夕方に罠を見に行ったら壊されてたんだ。悪酔いするのも分かるだろ? な。それに免じて許してやってくれよ」
ネズミ。罠。やばい、それやったの俺だ。
全然八つ当たりじゃねえ。喜んでおごらせてもらいます。
でも、あのネズミは茶色くて綺麗な毛皮だったはず。
そんな不潔なネズミには見えなかったが。俺、触っちゃったぞあのネズミ。
まさか、感染したら不思議なブツブツが出来てお腹が痛くなるとか無いよな。
「病魔を運ぶって、そんなに危険なネズミなんですか?」
ビビリながらもそう尋ねずにはいられない。
「ああ、うそうそ。ホントのところは、わがまま領主の意趣返しさ。オオネズミがわざわざ海外から手に入れた領主様の貴重なカブトムシを食べちゃったんだよ。みんな知ってるよ。……でも、法律だからしょうがないんだ。昔ね、ネズミのせいで大きな病気が起きたことがあって誰も反対しないんだよ。ハイイロネズミとムシハミオオネズミは違う種類なんだけど、法律を作る人たちはその違いなんて知らないんだ。ムシハミオオネズミは害虫を食べてくれる、大人しくて良い益獣なんだけどねえ。農家の僕なんかから言わせると」
「意趣返しって、そんな適当な……」
「何言ってんだよ。そんなもんだよ法律なんて。領主様のご機嫌一つで僕たちの首は簡単にすっぱりやられちゃうんだ。」
首元にちょんちょんと手刀を当てて、おおこわ、と言いながら顔をしかめる。じゃあごちそうさま、と言い、グラスを持ちながらレイナルドさんは友人の待つ席へと戻って行った。
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――――
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宿に着き、チェックインをした後も大変だった。
トイレの仕方。体の拭き方。服の管理。男女の構造の違いについて。
異世界だろうが何だろうが関係ない、ヒト社会の最低限のマナー講座だ。
元々ヒトに興味のあったリント姫は何となくその違いを理解したようだが、元軍人のニーズとヴィゾは、その違いについて一々説明を求めた。……が、その違いについて細かく答えることは、マリアはおろか俺にも出来なかった。
思春期は色々と羞恥心が邪魔をするのだ。
しどろもどろになった結果、伝家の宝刀『ダメなものはダメ』と言うお母さんの暴論を振りかざし彼らを何とか大人しくさせた。
たまりかねたリント姫が何らかの具体例を挙げて説明したところ、二人は顔を真っ赤にしながら納得したようだった。今度は俺がいやらしい顔を浮かべてその説明を求めたが、顔を真っ赤にしたニーズはもごもごと口を濁すだけに終わった。
一般道徳から部屋の中にある小物にまで話が及び、説明できる物は俺が説明し、分からない物はマリアを介して説明した。
深夜はとうに過ぎて、うっすらと空が白み始めた朝方にやっと眠ることが出来た。
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「――――っ!!! ――――っ!!」
バンバンと扉を乱暴に叩く音で目が覚めた。
ほとんど睡眠らしい睡眠をとっていない。
あと、じゅっぷん――
「黒角笛が出たあっ!!! 持てる荷物だけ持って逃げろおおおっ!!!」
扉を叩く以上の声が、耳をつんざく。
窓を開けると、外は真っ暗だった。……まだ夜じゃねえかよ。
何だってんだこんな夜中に。明日にしてくれ。眠いんだよ。
中々覚醒しない俺の脳みそとは裏腹に、昨日とは全く違う喧騒が耳を揺らした。
その光景は異様だった。
窓から見える穏やかだったエスニックな町中は、パニック状態を引き起こしていた。
皆が右往左往し、そこかしこで何かが壊れる音や割れる音が聞こえた。
叫び声を上げる人々、逃げ惑う人々、物を引きずる人々、子供を抱き上げ走る姿、泣き声を上げる子供たち、途方にくれる老人。町の出口へと長蛇の列が出来ていた。
老若男女、皆が皆、恐慌状態に陥っていた。
共通するのは一つだけ。
その目線が真っ黒な上空へと向けられているのだ。
真っ黒? そんな馬鹿な。
寝る前は朝日が出ていたのに?
アバドンってなんだ?
もちろん心中の疑問に答える者なんて皆無だ。
段々と覚醒してきた頭は、爆音を上げた大きな黒雲がゆらりと揺らめいていくのを目の端で捉えた。
それはまるで、舌なめずりのように見えた。