08 意気地なし
昼間は賑やかで子供たちの明るい声に溢れていた温かい神殿もすっかり夜の色に染まり、今はひっそりと静寂に包まれている。人々の眠りを女神ロラが見守ってくれているという信仰が根強いが、神殿は確かな安らぎをエステルにも与えてくれていた。
決して柔らかいわけではない寝台も、がさりと肌に当たる掛け布も清潔感のある爽やかな香りに包まれている。春の野山に芽吹く、抗菌作用のあるハーブの一種である。思い返せば春先になると、母に連れられて野山に赴いてこのハーブを摘んで集めたものだった。そしてそのハーブを持ち帰ると、細かく刻んでエッセンスを搾り出す。それを綺麗な水で薄めて、香り付けに使う。余ったハーブはドライフラワーにして小さな巾着に入れてポプリにする。それを枕元に置いて置くだけで、夢の中まで良い香りがしたものだ。母が祖母に教わったというそれはエステルの家に伝わる春の慣わしだった。
そんな懐かしい香りに包まれながら、エステルも寝台で眠ろうとしたのだが、一向にエステルに眠りが訪れることはなかった。考え事をしていたせいもあるのかもしれないが、心はゆったりと安らいでいるのに眠気はなかなかやって来ない。
「……やっぱり、考えないようにしても考えちゃうなぁ」
ぽつりと漏れた言葉はしんと静まり返った夜の闇に消える。
神殿は広く門戸を開き、人々の心の支えになるというのがその信念だ。そのために、急に一晩泊まりたいと訪ねて来ても誰もがその屋根を借りることができる。だが、今日この神殿に止まっている旅人はエステルたちだけだ。そのために女性用の広い大部屋にはエステル一人。独り言も好きなだけ話し放題である。
正直、神殿という場所であることもあって、神からのコンタクトがあるのではと期待していたのは否めない。もしかしたら、神が何か説明でもしてくれるのではと思っていたのだ。
しかし、残念ながらそんなことはなかった。誰も訪れることもなく、エステルは部屋に一人きり。神が現れるどころか、その声も気配すらも感じられない。
やはり、神アベルはエステルの身体を離れ、遠くに行ってしまったのだろう。
「そういえば、神様からご神託をいただいたのも、別に神殿じゃなかったもんね。それにここはロラ様の神殿だし、イザベルならともかく、あたしと相性が良いわけじゃないもんなぁ」
その独り言はまるで自分に対する言い訳のようだった。自嘲めいた言葉に乾いた笑いを零す。
「……水貰いに行こうかな」
結局そのまま寝付けなくなってしまったエステルはそう漏らしてベッドから起き上がる。そして乾いた音のする冷たい石のタイルの床を、そろりそろりと音を立てないように気を付けて歩いて食堂へ向かう。
食事の時には子供たちの笑顔で明るかった食堂も、今はがらんと空っぽだ。その食堂を抜けて、水道のある調理場へと進む。そして近くにあったコップを取って、水を一口飲んだところで調理場の出入り口のところで人の気配がした。
「――眠れないのか?」
「シルヴェスト。起こしてしまいましたか?」
「いや。俺は外で素振りしていて、戻ってきたらお前がここに入るのが見えたから」
そう話すシルヴェストはいつもの襟詰めではなく動きやすそうなラフな服を着て、その腰には彼の愛用の剣が差してある。額に汗が光る彼は確かに外で素振りでもしていたのだろうと思い起こさせる姿だ。
「熱心ですね。あ、水飲みます?」
「ああ。もらえるか。……まぁ、習慣だからな。身体が鈍ったら急に動けないだろう」
「そうですか」
「そうだ」
そう言うと彼はコップを一気に傾けて、水をあっという間に飲み干してしまった。
「もう一杯飲みます?」
「いや、いい。……眠れそうか?」
「大丈夫ですよ。子供じゃないんですから」
心配そうにエステルを見るシルヴェストの瞳にくすりと笑みを零す。出会った時がまだエステルが少女だったせいなのか、シルヴェストは時々こんな風に心配そうにエステルを見るのだ。勇者としての勤めを果たせるようになってからはこんな風にエステルを見ることはなかったと思うのだが、最近はこうやってシルヴェストに心配されることが多い気がする。もしかするとエステルの雰囲気が変わったことを彼も何か感じているのかもしれない。
「子供じゃない、か」
「そうですよ。さぁ、もう寝ないと!明日はデランへ向かおうと思うんです」
「デラン?」
「はい!ローランに聞いたんですけど、もうすぐ水祭りなんですって」
「ああ、そういえばそんな時期か」
昼間、ローランに聞いたデランの水祭り。デランは今いるリキュロスからほど近い水の町で、四精霊の一つ、水の大神殿が有名な町である。
前回の旅でもイザベルが水の精霊と契約するために立ち寄った場所であるのだが、その時は本当に神殿にしか立ち寄っていない。神官のイザベルが一緒だったということもあって、泊まった場所も町の宿屋ではなく、神殿の神官の部屋だったのである。そのために街の中はほとんど素通り状態だったのだ。
それでも、水の都と呼ばれるデランは水で溢れ、とても美しい町であったことは印象に残っている。路地の代わりに細やかな水路が張り巡らされ、町の中をゆったりと船が繋ぐ。心地よい水の音が耳を癒し、夏場ならきっと避暑にもぴったりだろう。
そんなデランで有名なのが水の精霊の祭り、水祭りだ。
名前の通り、水の大精霊オンディーヌのための祭りだ。オンディーヌは少女の様な姿をしていて、その性質もまさに女性そのものである。そのためにこの祭りは少し変わっていて、精霊オンディーヌを王国から遣わされた騎士が彼女をもてなすのだ。もてなすと言っても、選ばれた見目の良い騎士が祭りの間彼女の傍に仕えて、その心を慰めるというものである。
「前にデランに行った時は冬だったでしょう?一度、水祭りを見てみたいと思っていたんです。シルヴェストは見たことあります?」
「そういえば、俺も祭りを見たことはないな。精霊の祭りは手の空いた騎士も護衛やら何やらと借り出されるからな」
シルヴェストは顎に手を置いて、眉を顰めた。
普段は多くの騎士が王都に集められているのだが精霊の祭りの時だけは別なのである。王の遣いとして、国を守る者として精霊の祭りに参加する。祭りの運営のためということ以外にも、国を代表する騎士がそれに参加することによって国民に親近感や繋がりを感じさせる目的もあるのかもしれない。
「それじゃあ、シルヴェストも見るのは初めてなんですね」
「まぁな」
「ふふ。楽しみですね!」
「……もう寝ろ」
シルヴェストはそう言ってエステルの頭に手をぽんと置いて、さっさと調理場から出て行ってしまった。二人が使ったコップをさっと洗って、エステルも調理場を出る。
調理場の傍にある裏口が僅かに開いていて、何の気なしに顔を覗かせると夜空にはきらきらと星が煌めいていた。今日の昼間もよく晴れた快晴であったが、きっと明日も快晴であるのだろう。
「精霊、か」
きゅっと握ったエステルの手のひらには人の文字ではない、紋様のようなものが刻まれている。深緑色で書かれたそれは四大精霊の一つ、シルフとの契約の証だ。旅の仲間はそれぞれが旅の最中に四精霊の一つと契約をなしているが、エステルの場合は風の精霊シルフであった。
魔王と戦う際にもシルフの力を借りたし、エステルも何度となくその姿を見た。だが、彼はエステルがエステルでないと知ってもまた微笑んでくれるのだろうか。風の精霊シルフは優しく鋭い刃だ。仲間には優しく温かい風を纏うが、敵と見ればその風を鋭く尖らせその身体を刻む。そして轟音と供に跡形もなくその姿を消してしまうだろう。
だがエステルは彼に傷付けられるのが恐いのではない。彼の心を傷付けてしまうことが恐かったのだ。
「シルフは怒るだろうなぁ。だって、自分が契約した『人』が違うんだもんね」
それと思うとシルフを呼び出すことは未だできていないのだった。
本来であれば、徒歩で旅をするにしてもシルフの力を借りて走る方が楽だ。それが分かっているのに、シルヴェストにわざわざ「ゆっくり旅がしたい」だなんて言い訳をして付き合わせている。そんな意気地のない自分にため息を吐いた。