04 神の加護
夜が明けて、辺りに小鳥たちの囀りが聞こえ始める頃、エステルたちは野営地を片付けて再び歩き始めた。そして歩き始めてすぐにエステルは自分の身体の変化に気付いていた。
村娘だった頃のエステルはほとんど丸一日を農作業に費やすこともあったり、近くまで大きな籠を担いで野草やきのこなどを採りに行くこともあった。そのために体力に自信があるほうではあったのだが、正直今のエステルは予想以上のレベルである。
昨日、あんなに歩き回ったというのに身体にはほとんど疲れが残っていない。普通に考えたらベッドの上でもない、あんなに硬い地面の上で布一枚敷いただけで些細な睡眠を取ったのみだというのに身体は初日とほとんど変わらないのだ。結局昨日はあまり眠ることが出来なかったというのに、思ってたよりも全く睡眠不足を感じない。
どうやらエステルには勇者としての技能そのものはなくても、体力の面では勇者である頃と全く遜色がないのかもしれない。
しかし、自分の身体のことであるというのに知らないことが多すぎることに不安が残る。
「今日はここで宿を取ろう」
「え?でも、まだ昼前ですよ?」
シルヴェルトがそう言ったのは、王都隣のリキュロスという名の町に入る門を抜けてすぐだった。まだ昼前であることもあり、町に入ってすぐの道はすでに賑わいと活気で溢れている。王都からすぐ隣の町ということもあって、中々の発展を遂げている町。流通の弁が良いこの町は商人が多いこともあり、復興のスピードも早い。道に面して立ち並ぶ商店は完全に元通りとはいかなくとも、それに近い状態で店先には明るい声が飛び交っていた。
しかし。
それはとても良いことだが、今のエステルたちは旅の途中だ。今の時間にここで足を止めるには少し早い気がする。まだ時間も早いので、乗り合い馬車などを見つけられれば次の町にも辿り着けるかもしれない時間だ。
「――エステル。今の旅の目的は何だ?」
「旅の目的?里帰りです」
「それは先へ先へと急ぐものか?それよりも今のお前には時間が必要であるように見えるが」
「……そう、かもしれません」
シルヴェストはエステルをまっすぐに見据えていた。確かに彼の言うことはその通りである。エステルには時間が必要なのだろう。毎日毎日エステルの身には知らないことばかり。久方ぶりの自分の身体はもはや自分の身体ではないかのように、知らないことばかりだった。
そしてエステルが頷くと、彼は宿屋に向かって歩き始めた。
この辺りでは店からせり出すように木製の看板が付けられていることが多いので、看板を見れば目的の場所が一目で分かる。食堂であればフォークを模ったモチーフ、酒場であれば酒の入った樽、武器屋であれば剣や盾などが描かれていることが多い。そしてエステルたちの目的である宿屋だけは少し変わっていて、描かれているモチーフは大抵どれも青い瞳だ。これは女神ロラが青い瞳であるとされていて、女神がエステルたち人間を夜の闇の中でも見守ってくれるという信仰からくるものである。
宿屋に入ると、扉に付いたベルが軽快な音を鳴らす。その音に気付いて、奥から一人の若い娘が笑顔でを出した。恐らくこの宿で働く娘であろう、愛嬌のある明るそうな人である。
「いらっしゃい!」
「――部屋は空いているか?」
「さっきちょうど二人部屋が空いたところですよ。夫婦で旅行だなんて本当良い時代になりましたね」
「ふ……っ!い、いや……!俺たちはそうではなく、その……!」
シルヴェストが彼女に向かって声を掛けると、彼女は何やら帳面を捲ってにこりと笑った。
確かにエステルたちは妙齢の男女二人。エステルも勇者をしている間に結婚適齢期に突入してしまったし、少し年上のシルヴェストも同じく適齢期の頃だろう。夫婦でもない男女二人が旅をするなんて普通では考えられることではないので、彼女がそう思ってしまうことは無理もないことだった。
エステルがシルヴェストを見上げると、彼は慌てた様子で明らかに戸惑っている。
考えてみれば、騎士という職業はそのほとんどが男性で、女性に対して耐性があまりない人も多いのかもしれない。エステルやイザベルとは長い間一緒にいたために平気であっても、もしかしたら初対面の女性は苦手なのだろうか。
エステルは緊張した様子のシルヴェストに代わって、彼の前に出ると少女に向かって話し始めた。
「――すみません。私たち夫婦ではなくて、彼は私の兄なんです。できれば部屋は別々が良いんですが、二部屋あります?」
「そうなんですか!すみませんでした!……ええと、一人部屋が二部屋ですね?はい。空いてますね。一部屋2000アトロです。食事も付いてますよ」
一人部屋で一部屋2000アトロは少し高めの金額だ。やはり王都から近いことや、まだ復興の途中で物価が高めであることが原因なのだろう。エステルの村には宿屋は無かったが、一番近くの町の宿屋で1000アトロくらいだったはず。それを考えると、このリキュロスの宿屋はそれの倍にもなる。
300アトロで食堂で食事が一回取れるくらいの金額で、100アトロで小銅貨一枚、そして小銅貨十枚で大銅貨一枚。その大銅貨が十枚で小銀貨が一枚、そしてそれが十枚で大銀貨一枚だ。その上には金貨があり、銀貨100枚で一枚である。だが、この金貨に関しては普通はほとんど見ることもないものだ。金貨は貴族や豪商などのお金がたくさん持っている人たちが持っていることが多く、一般人がそんなものを持っていたら換金にも困るだろう。そもそも普通の市民は持ち得ないものであるので、窃盗を疑われてしまうような代物なのだ。
「じゃあ、それでお願いします」
「分かりました。では、こちらが鍵です」
「ありがとうございます。――兄さん。行きましょうか」
「あ……ああ」
兄さん、とあえて言ってシルヴェストを見れば彼は固まった表情のままで頷いた。やはり女性に対してはよほど耐性がないのだろう。
今までの旅の中でも宿との交渉などは彼がやっていたはずであったが、思い返してみればこうやって若い女性が出てくることは少なかったかもしれない。これまでは危険な情勢だったこともあり、若い女性が表に出てくることがあまり無かった。
どことなく漂う暗い雰囲気は町そのものを暗くする。そして暗くなった人の心には良くないものが集まりだす。人攫い、人殺し、強盗、そういうものが増えるのだ。だから女性や子供、老人などの力の無い者はほとんど外に出ることも無くなってしまう。
先ほど受け付けしてもらった場所の横にある階段から上って、その突き当たりがエステルたちに当てられた部屋だった。部屋は一番奥がエステルで、その隣がシルヴェストの部屋である。一番奥がエステルの部屋であるのは、前回の旅からの習慣だ。今はエステルの身が狙われるということもそうそうないだろうが、あの時はそうではなかったのである。いつもエステルとイザベルは一緒に角部屋か、両隣の部屋を男性二人が取るという形だった。
「シルヴェスト。話がしたいのですが、少しお時間良いですか?」
「……話?」
シルヴェストが部屋の鍵を差し込もうとしたところでエステルが声を掛けたので、彼はそのままの体勢でエステルを見た。
これから彼と旅を続けるにあたって、エステルには彼に話さなければならないことがある。
「はい。その、少し二人きりで話したいことがあって」
「ふ、二人きり……?わ、分かった。入れ」
「ありがとうございます」
彼が部屋に招き入れてくれたので、エステルもシルヴェストに続いて彼の部屋に入る。部屋にはベッドが一つだけのシンプルな部屋だ。
シルヴェストは部屋の窓の傍に寄りかかって、エステルにベッドに座るように促した。
「それで、その、話と言うのは……?」
やはり他人にベッドを譲っては落ち着かないのだろう、シルヴェストはどこか落ち着かない様子で窓の外に顔を向けている。
彼も疲れているだろうし、早く話を終わらせて部屋を出て行かなければ。そう自分に言い聞かせて、エステルは意を決して口を開いた。
「実は私……剣が使えないんです」
「……何?」
彼は壁にもたれ掛かっていた身体を起こし、エステルを見た。そしてエステルの言葉の真意を探るように、眉を顰めて言葉の意味を考えている。
シルヴェストがエステルの言葉を理解できないことにも無理はない。エステルは先日まで、確かに彼の目の前でこの腰に差した剣を自らの手で扱っていたのだから。
「元々、ただの村娘だった私が剣を扱えること不思議に思ったことはありませんか?」
「……まぁ、それは。でも、それはエステルが勇者だからそういうものなのかと」
「私に戦いの神、アベルの加護があったことは知っていますよね?」
「ああ。それは、イザベルがそう言っていたからな。……それは、まさか」
「そうなんです。私が剣を扱うことができたのは、神の加護があったからこそ。魔王を倒し、彼のその加護はこの身から離れたようです」
――というのが、エステルが考え出したストーリーである。
これからシルヴェストと旅を続けていくにあたって、エステルに全く剣が使えないことが明るみに出るのは明日か明後日か、くらいの話だ。勇者だった頃のエステルはエステルであってエステルではないなんて、人に話しても信じてもらえるような話ではない。それどころか、むしろ偽者だと疑われて処罰されてしまう可能性もある話だ。今や勇者は救国の英雄。その名を騙るなんて、大罪であろう。
そしてエステルが考えたのは、今まで剣を扱うことができたのは神の加護であったというストーリーである。神のその加護によってただの娘であったエステルが急に剣を扱うことができたというのは、非現実的ながらも神の奇跡であるならばありえない話ではない。そもそも、これはほとんど嘘ではないのであるし。
「そうだったのか。他に何か困ったことはないか?」
「今の所はそれだけです。というか、私も昨日そのことに気付いたばかりで」
「……大丈夫か?」
彼の顔には心配と書かれているかのように、エステルを心配そうに見遣っている。シルヴェストのそれは旅の仲間を心配する、心からのものだろう。
しかし、それがエステルには心苦しかった。シルヴェストが知っているのは「エステル」ではない。彼が見ているのは、今彼の目の前にいるエステルではないのだから。
「大丈夫です。……でも、私がこれを扱えないとなると、シルヴェストにはこれから先、迷惑をかけることになるでしょう。やはり、ここでお別れしませんか?今だったらまだ騎士に戻れるかもしれません。そうだ!何でしたら、私から掛け合いますよ!」
「何を言う。騎士に二言はない。最後まで供しよう。そう誓ったはずだ」
そう言うシルヴェストの意思は固いようだ。瞳はまっすぐにエステルを見つめ、揺らがない。まるで己の意思が揺らがないことの証であるかのように。
「……やっぱり、貴方は私が思っていた通りの人なんですね」
「何?」
「いえ、何でもありません。……そうだ。せっかくですし、少し町に出ませんか?まだ昼ですし、昼食も食べていないでしょう?」
「ああ。そうだな」
「では、荷物を置いたらまた来ますね」
シルヴェストが怪訝そうな顔で聞き返したのをエステルは首を振って流した。そして彼が頷いたのを見て、エステルは部屋を出た。
彼はエステルが思っていた通りの人だった。エステルに意思はなくとも、数年という決して短くはない時間、彼を見ていた。シルヴェストは誰よりも真面目で責任感があって、少し強面だけれど優しい人だ。実際にエステルが話してみても、彼はエステルが思っていた通りの人だった。
「……やっぱり、優しい人だなぁ」
自分の部屋で荷物を下ろしながら呟いた言葉はエステルにしか届かない。今まで見つめるだけだった彼がすぐ傍に居る。それは嬉しいようで、何故か苦しいことだった。




