03 Level.1
前回の旅でも大活躍した、地精霊の外套。色は暗い緑で女性が着るにしては、地味で落ち着きすぎているのが難点だ。しかし、この外套には他の外套には無い特殊な効果がある。
この外套は地精霊の加護によって、その土地の環境に合わせて外套の中を適温にしてくれるのだ。つまり、寒いところでも暑いところでも快適に過ごせるという効果がある。刀傷などに対する物理的な防御効果は布そのものの強度のみであるが、それでもこの効果はそれ以上にかなり便利であった。旅に出ると荷物が増えることが一番堪えるので、外套一枚でどうにでもなるところが便利なのである。
そんないつもの着慣れた外套を着て、エステルはパーティの仲間たちとの別れを惜しんでいた。
勇者の出立だと言うのに、ここにいるのは旅のパーティだったエステルを含めた四人だけ。城に出仕している下級侍従たちが使う小さくて目立たない場所にある出入り口にエステルたちはいた。
「……シルヴェスト、本当に来るんですね」
「当然だろう」
せっかくの出世の話を断って、彼はエステルの隣で当然のように立っている。見慣れた彼の姿であったが、その服装は見慣れた騎士服ではない。剣士用の旅装束を着て、彼は当然のようなすまし顔だ。
どうやら彼は騎士の職を辞して、ここにいる。せっかくの安定・高収入の仕事だと言うのに、エステルのせいで辞めさせてしまったようで心苦しい。そんなエステルの心情とは他所に彼の様子は平然そのもの。それどころか、むしろ晴れ晴れとしたようなそんな表情だった。
「エステル、気を付けて。魔物は大分いなくなったとは言え、まだ荒れているところも多いからさ」
「ありがとうございます。ラウルもこれから賢者の塔で研究があるんですよね。応援しています」
ラウルがエステルよりも少し小さな身体で別れを惜しむようにぎゅっと抱きついた。それをエステルも優しく力を入れて抱きしめ返す。
本当であればこんな風に年頃の娘であるエステルが婚約者でもない異性と抱き合うなんて、とてもじゃないけれど褒められた行動ではない。だが、ラウルは別である。エステルは彼が一緒に旅に参加してくれたからこそ、こうして今ここにいることができるのだ。一緒に過ごした時間は三年と長いようで短い時間ではあったけれど、エステルにとって彼は兄や弟のよう。そんな家族と同じような情を感じるには十分だった。
「うん。頑張るよ。とりあえずは旅で良いアイデアが浮かんだから、それを検証しようと思ってて。もう、今から楽しみなんだよね!次から次へとアイデアが沸いてくるんだもん。僕がもう一人居ればいいんだけど、そればっかりはどうしようもないからねー。……ん?いや、待てよ。僕を二人にすることはできなくても、土人形を寄り代にして……」
「ふふ。楽しそうで何よりですよ」
ラウルは心底楽しいというように恍惚とした表情を浮かべている。今でこそ賢者になった彼であるけれど、魔法使いとして初めて会ったその時から彼の研究心は変わらない。魔法使いという職業の彼らは基本的には研究熱心であるがために、研究施設である賢者の塔から出てこない。一般の人よりも寿命が長い人が多いとは言え、自分たちの命が限りあるものであると分かっているからこそ、その限りある時間を研究に費やすのである。
「騎士、勇者のことよろしくね」
「ああ。まかせろ」
イザベルがシルヴェストに向かって言って、シルヴェストは真剣な顔で頷いた。
彼女が夜会で着ていたものと同じ、白のワンピースを身に纏っている。色は同じ白であるのに、今日のワンピースはシンプルというよりも飾りが一切無く質素そのものだ。飾りだけでなく切り替えなどもなく、まさに聖女を思わせるような地味なものである。
「勇者も近くまで来たら大神殿に寄ってね。勇者だったら、神官たちも面会を許可してくれるから」
イザベルは聖女だ。神殿の総本山である大神殿の奥深くに彼女は居る。そして奥深くに囲われたまま、彼女が外に出ることは叶わない。
それは彼女の命を狙うものなど、様々な危険から彼女を守るための措置だ。そのために最小限の人にしか会うことなく、彼女は生活をしている。聖女と呼ばれるイザベルは彼女を加護する女神の信徒にとって唯一無二の存在。女神ロラが唯一加護を与えているのが彼女なのである。
「はい。必ず、会いに行きます。――そうだ、私のこと名前で呼んでくれませんか」
「え?」
「エステルです。私の名前、忘れちゃいました?」
「違うけど……」
イザベルはとまどいがちに視線を彷徨わせて、じっと上目遣いでエステルを見た。そんな彼女を安心させるようにエステルは大きく頷いた。
「私と友達になってくれませんか?」
「……うん!エステル、絶対絶対会いに来てね!」
イザベルは瞳に涙をいっぱいに溜めてエステルにぎゅっと抱きついた。その身体は細く、今にも折れてしまいそうなくらいである。そんな細い身体で彼女はたくさんのものを支えているのだ。
この世は安定していない。魔物に襲われ、農地から逃げ出す農民。子供を亡くし、心までを失くした親。毎日食べるものにも困る生活。そんな世の中で神に救いを求める者は多い。しかし、神に救いを求めても、その目に神を見ることが出来るものなどいない。そんな人々にとっては、聖女であるイザベルこそが救いそのものであるのだ。
「――さて、行こう。あまり遅くなると、日暮れ前に宿に着けない。初日から野宿は嫌だろう?」
別れを惜しむエステルに後ろからシルヴェストが声を掛ける。別れがたく、いくらでもこうしていたいのは山々であるが、そうもしていられないのは彼の言葉の通りだ。
「そう、ですね。……それでは、名残惜しいですがお二人共お元気で。必ず会いに行きますね」
「賢者の塔で待ってる。エステルだったら僕もいつでも大歓迎だから」
二人から離れると、シルヴェストが隣に立った。それを不思議な気持ちで眺める。
今までは四人でずっと一緒だったのだ。そのせいで二人でこれから旅立つというのが、何だか不思議に感じてしまうくらいである。
「やっぱり、エステル変わった。前よりも柔らかくなったよ。あたし今の方が好き!」
「イザベル、ありがとう」
最後にイザベルはそう言って柔らかく笑った。
確かに今までイザベルが知っていた「エステル」と今の「エステル」は違う。それでも彼女が今のエステルを好きだと言ってくれたことが、どれだけ嬉しかったのか彼女には分からなかっただろう。
エステルも彼女の笑みに泣き笑いで返して、結局大泣きの女二人とつられて泣く少年という光景が出来上がり、シルヴェストがエステルと王都を出たのは結構な時間が経ってからであった。
出発が遅れると到着も遅れる。そんな理由で、やはりエステルたちは当然のように日のあるうちに宿に辿り着くことは叶わなかった。
日はすでにほとんど沈み、夕闇に包まれる中でエステルとシルヴェストは手分けをして野宿の準備を始めていた。
「私、薪をもう少し探してきます」
「いや、それならお前はここに居て荷物を見ていてくれ」
「大丈夫ですよ。私も仮にも勇者ですよ?それに、シルヴェストは今テントを張ってるじゃないですか。ささっと行って来ますね」
エステルが腰に差していた剣を示して言えば、彼は渋々といった様子で頷いた。エステルはそれを見て、灯りを持ってその場を離れた。
パキパキと自分の足が細枝を踏み折る音がする。大体このくらいで足りるだろうか、と思うくらいには両手に枝を抱えている。ついでに食べられる野草を見つけたので採りながら歩いていたこともあって、いつの間にか結構な時間が経ってしまったようだ。そろそろシルヴェストのところに戻って、夕食の用意をしようかと思い立ったその時――。
――パキッと自分ではない誰かが枝を踏み折った音がした。
「……シルヴェスト、ですか?」
恐る恐るその音がした方に向かって声を掛ける。普通に考えたらありえない。もしシルヴェストだったら、こんなに暗い森でひっそりと気配を隠して忍び寄ることなんてしない。エステルの名を呼びながら近寄って来ることだろう。
エステルは持っていた薪を静かに地面に置いて、音がした方向を持っていた灯りで照らしながら腰に差していた剣の柄に手をかけた。
今にも口から飛び出しそうなほどにうるさく心臓が鳴り、まるで大きな太鼓を叩いているかのようである。
エステルが初めて触るその柄は、初めてだと言うのに不思議と手にしっくり馴染む。それは確かにエステルがその剣の主であることを示す感触だった。エステルの大きくない手にも、収まる適度に細くて長い。柄に施されている蔓模様の装飾はエステルが使い込んだ証のように少しだけ黒ずんでいる。そんなエステルの知らないエステルの痕跡に戸惑いを隠せない。
エステルは今までたくさんの敵と戦った。しかし、それはどれも全て見ているだけだったのである。たくさんの敵がエステルたちによって倒されていくのをエステルはただ見ていた。
灯りを掲げると、その光に反射する二つの光がある。それは堂々とした雰囲気でゆっくりエステルに近づいてきていた。そしてその姿が露となる。
エステルの腰ほどまでの体高を持つ、黒い魔物だ。艶々と輝く短い毛並みは軽くうねり、口からは獰猛で鋭い大きな牙が見える。そして緑に光る瞳と目が合った。
その魔物は確実にエステルを獲物として認識していた。じっくりと襲い掛かる隙を探して、エステルの周りをゆっくり勿体つけるかのように歩き回っている。
そして、すぐにその時はやって来る。
何がきっかけだったのだろう。待つことにでも飽きたのか、その黒い魔物は大きな口をいっぱいに広げてエステルの首を目掛けて襲い掛かって来た。
「な……なんで抜けないのッ!」
エステルは持っていた剣で受け止めようとしたが何故か抜けない。エステルは咄嗟に横に転がり、魔物に灯りを投げつけた。そして魔物が少し怯んだ隙に剣を見たが、鞘と剣はガッチリと固められたかのようにビクともしなかった。
そして諦めたエステルは次の魔物の攻撃を擦れ擦れのところで、鞘でどうにか受け止めた。後ろ足で立ち上がってエステルに飛び掛っている魔物はしっかりと肉を付けているせいか、かなり重い。両手でそれを支えているというのに、エステルの腕はぷるぷると震え、今にも力負けしてしまいそうだった。
獣の牙は今にもエステルの肌を貫こうと迫っている。逞しい身体を持つ獣はエステルの肉を狙って、少しずつ確実にエステルの力を削いでいた。
「――ッ!」
どうにか力の限りで剣を振るって、獣を身体から引き離すことに成功した。獣はエステルの身体から離れて、また先ほどと同じように此方の様子を伺っている。
――しかし、勝てる気が全くしない。
確実に絶対絶命の状況だった。正直、剣を抜いたら何とかなると楽観視していた面は否めない。エステル自身に感覚は無かろうとも、この身体で魔王を倒すのをずっと見ていた。だから、剣を持てば同じように剣を振るえるはずだと思っていたのだ。
しかし、実際はどうか。
エステルのそれは明らかに初心者のそれで、どうにか柄を持っているだけ。それ自体の代物が良いので、今の所何とか振り回しているに過ぎない状態だった。
「――エステル!大丈夫か!」
その時現れたのは、正しくエステルの頼りになる騎士だった。
彼の声に驚いた魔物はエステルではなく、シルヴェストに狙いを変えた。エステルの時と同じように、彼の首筋目掛けて飛びついた。
だが、その後はエステルと同じではなかった。
シルヴェストは素早い動きでそれを避け、そして魔物の首筋に一太刀を浴びせた。今や英雄と呼ばれる彼の渾身の力によるそれは魔物を一息で絶命させるには十分なものであった。
「……助かりました」
「どうした。どこか怪我でもしたのか?」
「いえ。……怪我はありません」
シルヴェストが剣に付いた血を振るって拭っているのを呆然と眺めた。そんなエステルをシルヴェストは不思議そうな顔で見ている。
確かに彼の表情はもっともであった。こんな魔物なんて、今までのエステルであれば簡単に倒してしまっていたことだろう。それなのにこれだ。魔物を倒すどころか、雑魚であるはずのそれに殺されかけていたではないか。
「そうか。テントへ戻るぞ」
「はい。……あれ?」
「どうした?」
「あの。すみません。その、ちょっと歩けないみたいで」
いつまでもここに居ていても仕方がない。エステルは彼の言葉の通りに、テントの場所まで歩こうとした。
そう。エステルは立ち上がって歩こうとしたのだが、立ち上がることすらままならなかった。
「何?やはり怪我をしていたのか!」
「いや。そうではなくて……その、立てないんです」
深刻そうな彼の様子に大変言いにくいことではあったが、エステルがようやく決心をして言う。シルヴェストはたっぷりの間を置いて、そしてエステルに有難い申し出をしてくれた。
「……肩を貸そう」
「……ありがとうございます」
そうして彼に肩を貸してもらって、というか背の高い彼にほとんど抱き上げてもらうような形でエステルはテントまで帰還した。
その日はそのまま呆然と気が抜けてしまったエステルにシルヴェストが温かいスープを作ってくれた。温かくて優しい味のそれはエステルの心に染み渡る。
勇者として身体が覚えたはずの技能は今のエステルには使えない。それが今日のエステルが学んだことだった。