01 終わりと始まり
彼方此方に大小様々な傷みや崩壊が見られる街並み、その中に新しい建物が建ち始めているのが見える。無残に葉を枯らし、折れた枝が目立っていたはずの木々たちは、健気にも生命の息吹を取り戻し、青々とした葉を茂らせ始めていた。
そして辺りには王城の尖塔に取り付けられている黄金に輝く鐘が鳴り響き、割れんばかりの歓声が広場を包んでいた。
その歓声の中心にエステルは居た。まるで初めからそう決められていたかのように、歩くペースと同時に割れる人の波を縫って王城目指してゆっくりと歩みを進めている。エステルたちを囲む王都の人々の顔には喜びの表情が溢れていて、誰もが皆歓喜しているようだった。
『――これで勇者の物語は終わりだ』
けたたましいまでの音の中でも、はっきりと聞こえる凛とした声が響く。
いや、正確にはエステルの頭の中でのみ聞こえる声だ。低くも高くもない、その透き通った声はエステルにとっては明らかに聞き覚えがある声である。若い男性の声のようで、しかし人間のものだとはとても思えない神聖な響きを持つ声。
聞き覚えのあるその声は唐突にそんなことを話したかと思うと、それきり静かになってしまった。
この声の主はいつもそうだ。
エステルがその言葉を理解しようとしまいとお構い無しで、話をさっさと切ってしまうのである。もう少し、ほんの少しでも親切にする気は……今のところ見受けられない。
思わず心の中でため息を吐いて立ち止まっていると、一人の子供が両手で小さな花束を抱えて走り寄って来ていた。その顔には満面の笑みが浮かび、全身に喜びが溢れているかのような軽い足取りである。
「勇者さま!これ!」
「――私にくれるのですか?……あれ。……話せてる……?」
「勇者さま?どうしたの?」
「いいえ!何でもありません。このお花はあなたが摘んでくれたのですか?」
目の前に差し出されたささやかで可愛らしい小さな花束。それは鑑賞のために育てられたのではない、力強さと逞しさを兼ね備えた野花たちを集めたものである。
それを前にして、自らから出たその言葉にエステルは動揺を隠すことができなかった。そして、それと同時に先程の言葉の意味を理解する。
エステルの目の前には小さな女の子。変な態度を出していたら不思議に思われてしまう。そう思って、エステルは努めて笑みを作り、女の子の目線に合わせて屈む。小さくて愛くるしい女の子と目が合って、エステルは目を合わせたまま自然に笑顔を浮かべた。
そうしながらもエステルの頭の中は完全に混乱していて、それまで自分がどうやって話していたかをどうにか思い出そうとしていた。
なぜなら、この声は三年ぶりの自分の意思で出た肉声なのである。
そういえば前はこうやって話していたのだった。こうやって自分の考えていることが言葉に出るのは旅に出て以来のこと。思わず、そんな風に感慨深くなるくらいには懐かしかった。
「うん!このお花ね、町の外の花畑で採ってきたの。町の外に遊びに行けるようになったのも、勇者様のおかげよ!」
「そう、ですか」
「勇者さまは嬉しくないの?」
小さな女の子はそう言って、まだぎこちない喋りのエステルを不思議そうに首を傾げた。
今の平和を作ったのは紛れもないエステルなのである。しっかりしなければと自らに発破をかけた。
――例え、その平和がエステルの意志によるものではなかったとしても、だ。
「嬉しいですよ。もちろん」
「ふふ!勇者さま、ありがとう!」
そう言って女の子の頭を一撫でしてあげると、女の子は嬉しそうに笑って母親の元に走って行った。
優しそうな母と、穏やかそうな父。そして両親に愛されている子供、その姿は幸せの「カタチ」そのものだろう。エステルはそれを見て、これで良かったのだと自分に理由付けするには十分だと思っていた。
そうやって周りの人々を眺めていると、傍にいた神官のイザベルがじっとエステルを見つめている目と合った。その瞳はまるで全てを見透かすようにじっと細められ、エステルのことを観察している。綺麗な彼女のその瞳と目が合うと思わず女であるエステルでもどきりとしてしまうのだから、彼女の美しさは罪作りだと言っても過言ではないはず。
イザベルは女神ロラの加護を受けた聖女だ。その祈りによる治癒の力は国でも随一どころか、世界でも癒しの乙女として名を知られている。
エステルの赤毛とは大違いのシルバーブロンドは絹糸のようにまっすぐで、それによく合ったアイスブルーの瞳が本当に綺麗だ。きっとそれらがさらに彼女を神懸かった雰囲気に仕上げているのだろう。だけど、そんな冷たい印象の美しさを持つ彼女も性格は明るく朗らかでとても気の良い女性だ。
そんな彼女も本来であれば神殿の奥に大事に守られているはずの存在であるのに、こうしてエステルの傍に居るのは彼女がエステル――勇者エステルのパーティの一人であることに他ならない。
そう。エステル、エステルは戦いの神アベルの加護を受けた勇者「だった」のだ。
「あれ?んー?勇者、何だか雰囲気変わった?」
「……そ、そうでしょうか?」
「――ばーか!当然だろ!エステルは今や世界を救った勇者様だ。雰囲気の一つくらい違って当然だろ」
「あはは。それもそっか」
びくりと肩を揺らして、誤魔化すように乾いた笑みを作っていると、後ろから魔王を倒す旅でついに賢者になったラウルが笑い飛ばすように笑い声を上げた。彼の強大な魔法には何度窮地を救ってもらったことか、数え切れないだろう。
そんな彼は賢者であると言うのにまるで成人前の少年のような容姿なのだ。魔法使いという人たちは魔力に応じて身体的加齢が遅延するらしいのだが、それにしても若すぎるくらいに若い。それなのに年齢はエステルよりもいくつも年上だと言うのだから、世の中にはエステルの知らない不思議な話はいくらでもあるものだと思う。
……まぁ、エステルは元々植物や生活の知恵には詳しくても、勉強という意味では学がある方じゃなかったのだが。
「エステル、どうした?何か問題か?」
立ち止まって話していたエステルたちに目の前を歩いていた騎士が声を掛けた。つい先日まで生えていた無精髭も、王都に入る前の宿屋で整えて来たのですっかり元の精悍な騎士の顔である。右の頬骨のところに走った細い傷は治癒魔法が遅れたがために治ることはないそうだが、その傷でさえもきっと彼の野性味ある男前度に貢献するのだろう。
出立した時には傷一つ付いていなかった光り輝く鎧も、今では細かな傷から大きな傷までのたくさんのものですっかり質感が変わって光を失っている。丁寧に手入れはされていても傷を直すことはできないので、その鎧を見ることで今までの戦いの熾烈さが分かるようだった。
見上げるほどの長身と、逞しい身体。アッシュグレーの髪は短く、清潔感がある。麗しい美青年というよりかは頼りがいのある男らしい風貌であるけれど、女子が人気を寄せるには十分なんじゃないかと思う。……彼自身はちょっと恐い雰囲気ではあるんだが、一応人気職の騎士であるからそこはそれだ。
「……いえ。何でもありません。行きましょう」
エステルは無表情にゆるく首を振って、そう答えると花を抱え直して彼の後を追うように歩き出す。ふわりと花の優しい香りが鼻腔をくすぐり、思わず頬が緩む。
魔王を倒す旅に出て三年。旅の途中にはたくさんの町や村に寄った。それは魔物を倒すためであったり、自分達のレベル上げ、魔王への痕跡を探すためなど様々な理由のためであったのだが、その道中はどれも悲惨なものだったと言えよう。
魔王が活発に動き出したことにより、世界には瘴気が溢れ出した。それは直接的にすぐさま現れるような人体への害は少ない。だが、それは少しずつ確実に動物を、人を、世界を狂わしていくのだ。
元は綺麗に咲き誇っていたはずの花々の姿は見られなくなり、動物の姿も減った。
世界は確実に滅びに近づいていたのだ。
「――花、綺麗だな」
「はい、本当に」
いつの間にか前ではなく隣を歩いていたシルヴェストが少しだけ目元を緩めて呟くように言う。彼もこの旅で世界が滅びかけている様子を一緒に見た。その言葉は女っ気とは無縁の彼に似合いそうにない言葉だったが、それはまさに彼の心からの言葉だろう。
「エステル、お前は勇者として本当によくやったと思う。だから胸を張れ」
「……はい」
彼の珍しく優しさの込められた言葉にエステルはどう答えたら良いのか分からなくて、どうにかやっと頷くことしかできなかった。
初めてシルヴェストに会った時は勇者と名乗ったエステルを鋭い目で見て、顔を見て三秒で腰に刺さった剣を抜いたのだ。その彼がまさかこんなことを言うなんて。
全く調子が狂って困るじゃないか。
エステルは神の加護を受けた勇者なんかじゃない。
ただの、――神に操られた勇者なのだから。
エステルが勇者になったのは三年前。みんなと一緒に旅に出るよりも少しだけ前のことだった。それまでは田舎にある小さな村で平凡に細々と暮らしていた。男勝りで男の子と喧嘩しながら育った――なんてタイプではなかったので、当然ながら剣なんて持ったこともなければ、魔法の類すらも使うどころか見たこともないような生活。畑を耕して、作物が採れない時期は内職をして、家族で力を合わせて暮らしていた。
そんなエステルが勇者になったのは本当に突然のことである。突然、神からの啓示と言う名の勇者役の指名が降りたのだ。
『――今日から汝は勇者エステル。魔王を倒すのだ』
外で畑作業をしていたエステルに降ってきた言葉。そして、その言葉と同時にエステルの身体にはエステルの自由が無くなった。指先一本から、発する言葉の一つに至るまでの全てが「誰か」に操られているようだった。エステルに自由を与えられたのは心、そして視界だけだったのである。
そしてそれからエステルは神に操られるまま旅に出た。仲間を集め、魔王を倒す旅に出るために。その険しい道中もエステルに出来ることはただ世界の変革を見つめることだけ。
――しかし。
エステルは勇者になんてなりたかったわけでは断じてなかった。
なぜなら、考えてみても欲しい。普通の村娘Aであったエステルは剣なんて物騒なものを振るったことは当然無い。手馴れた刃物と言えば包丁、もしくは裁縫用の大きな裁ちばさみ。それか、たまに薪割りを手伝う時に使う小振りな斧。あとは刃物と言っていいのか分からないが、畑で使う鍬とかならば慣れたものだ。
父や弟が捕まえた兎や飼っていた鶏などの動物を母と一緒に捌くことはあった。しかし、そういうものを食べるのは本当に滅多にない、たまにの出来事。誰かが結婚したとか、家族が増えたとか、収穫祭だとかお祝い事の時にしか出ないイベント料理である。
そもそも絞めて血抜きなんかの作業は穢れを招くという理由で、男である父の仕事だったので実際にその作業を目にする機会も無かった。子供の頃、軽い好奇心で父が作業をしている時に弟と盗み見をしに行ったことがあったのだが、父に見つかってトラウマもののそれはそれは大きな雷を落とされた。それっきり、見てみたいなんて考えたこともないくらいである。
そして家の近場の森で山菜や野草を取ったりすることはあったが、魔物が出るのは森の深い場所だ。一日では辿り着けないような、暗い鬱蒼とした場所にそれは居る。そんな魔物を目にするような深い森の中に入っていくことも、当然ながらまた無かった。
毎日は同じことの繰り返し。それでも、それが嫌だとか冒険に出かけたいだとか、そんな大れたことを思ったことなんてない。毎日おなかいっぱいに食べられる生活ではなかったが、それでも飢えることもなく、平凡に家族で寄り添って生きる。それがエステルの生き方だった。
そのくらい平凡に普通の村娘をしていたエステルが勇者になりたいなんてことがあるのだろうか。