17 麦の町
元魔王であるオルキスとのしばしの会話を楽しんだ後、エステルたちは花畑を後にした。花畑以外の場所は鬱蒼と茂っている森であったが、ラズエルと一緒に歩いている時はその木々たちが避けるかのように人が歩く道が出来る。何らかの力が働いていることは分かるが、魔法に詳しくないエステルとシルヴェストにはそれが何なのかはさっぱり分からない。重さを感じさせず、足取り軽く歩くラズエルに聞けば、彼はくすりと笑って答えた。
「ああ、それは木たちにも意思があるからね。彼らにお願いして通らせてもらってるんだよ」
「木に意思?」
ラズエルの平然と言い放つ言葉にシルヴェストが思わずといった様子で聞き返した。木に意思があるなんて考えたこともないからだ。少し年月を置いて見れば背が高く、幹は太くなり、木が成長しているのは分かる。だが、物言わぬ木が意思があるというのはどうしても考え付かない。
「当然だろ?考えたり、物思いに耽るのは人間だけじゃないよ。この森は最古の森の一つなんだ。この辺りにいる木々たちも古くから生きる生き物の一つ。人間が暮らす場所にいる若木たちとは少し違うのさ。だから彼らに分かるように頼めば、彼らは僕らのために道を開けてくれるんだ」
「あれ?僕らって?」
「本当は秘密の言葉なんだけど、君たちになら教えてあげる。父の不始末を君に背負わせてしまったお詫びにね。何か困ったことがあればまたこの森に来られるように。僕はまだエルフ族の中では年若いし、ハーフエルフだから力になれることは多くないかもしれないけれど、少しは助けになれると思うよ」
そう言ってラズエルが教えてくれたのはエステルたちにとっては初めて聞くことになる、古いエルフの言葉であった。聞いたことのない言葉ではあったが、まるで幼子に母が歌った子守唄のように心地良い音で風の囁きのように通り過ぎていく。目の前にいたラズエルやオルキスもエルフの言葉というのを話していなかったので分からなかったが、エルフの言葉にはそれ自体に力がある言葉でもあるのかもしれないと考えざるを得なかった。ただ、その言葉も音だけを知っていても意味はなく、その意味も知っていなければ言葉としての意味を成さないらしい。ラズエルに意味も一緒に教えてもらってようやくその音が木々たちにも通じる言葉に成るのである。
「――不思議なところでしたね」
森を抜けるとあっという間に道は元の鬱蒼とした森に戻る。そこには先ほど通った道など存在もしなかったかのように、平然と木々が生えているのだ。まるで魔法にでもかけられていたような気分で呆然と森を見てしまうのにも無理はないだろう。
「ああ。世界には俺たちの知らない場所がまだまだあるということだな」
「はい。世界は本当に広いです」
空は高く、どこまでも続く。魔王を倒す旅で二人は世界を歩き、普通の人が知らないこともたくさん知った。そんなエステルたちも知らないことがまだまだたくさんあるのである。そう思うと、この先の度が楽しみになって自然と笑みが浮かんだ。
「さて、次はどうする?ラズエルの話だと森の西に出たらしいから、ここからの最寄の町はフルーエだな。そろそろ傷薬を買い足したいところではある」
「それじゃあ、フルーエに行きましょう。そろそろ固パンも買い足さないといけないですし」
「ああ、そういえばそうだな」
固パンは普通に食べるパンよりも水分を少なく、そして油分なども少なくして保存性を高めたパンのことである。水分もないので軽くて保存性も高いのだが、それは水分無しで食べるには難しい程度には固い。エステルが野営をするに当たって一番苦労したのは実はこのパンを含む食事のことであった。今でこそ、このパンを食べるのにも慣れたものではあるが。
とりあえずの行き先を決めた二人は近くにあった街道沿いに歩く。前と比べて魔物も少ないので、警戒しないに越したことはないがそれでも幾分が気分は楽だ。
「今の所、王都から南に下ってきているがエステルの実家は国の南端にあるんだったか?」
「はい、そうです。南で一番大きなクイドという町からさらに南に行った場所にあります。クイドからは徒歩で三日ほどですかね」
「ふむ。となると、まだ大分かかりそうだな。こういう時にラウルが居てくれれば楽なんだが、ゆっくり行くか」
前の旅ではかなり助けてもらったのが、ラウルが使うことのできた倍速の魔法であった。それを使うと進む速さが倍以上になる。ラウルがその魔法を覚えてからは人の居ない道などでは普通では考えられないような早さで走り抜けることができたのだ。
「すみません。私に付き合っていただいてしまって」
「いや、そういうわけではない。ゆっくり景色を楽しむことができるということだ。ただ、エステルが速く家族に会いたいかと思ってな」
エステルが申し訳無く眉を下げて謝ると、シルヴェストがすぐにそれを首を振って制する。
「お気遣いありがとうございます。そうですね、家族にも会いたいです。いつまでもシルヴェストを付き合わせるのも申し訳ないですし。――あ。あれがフルーエでしょうか?」
「ああ、そうだな」
エステルが指し示す先に見えたのは麦の実る麦畑である。黄金色に輝く畑は遠くから見ても美しい。その少し先に赤い屋根が並ぶ小さな町が見えた。大きな町ではないが、金の絨毯の中に赤い屋根が並び、可愛らしい雰囲気の町である。
目的地が見えると自然と足が進む。森から出て街道を歩き、あっという間に麦畑の間の道までやって来ていた。麦畑やその側の畑では忙しそうに作業しているのが見える。作物の実りは豊かなようで、どれもたわわに実をつけているものばかりだ。これならば豊作と言っても良いくらいだろう。
「こんにちは。旅をしていて通りかかったんですが、よく実ってますね」
「……悪いけど、忙しいんでね」
近くにいた中年の女性に話しかけると、女性は面倒臭そうに眉を顰めてエステルを見てすぐに作業に戻ってしまった。
「す、すみません」
「――エステル、行こう」
シルヴェストがエステルを引っ張るように手を掴んでその場を離れる。周りには他にも作業をしている人がまばらに見られたが、誰も彼も旅人に目もくれず忙しそうに働いている。
「ここは少し様子がおかしい。フルーエと言えば、出来の良い麦が収穫できることで有名な場所なんだ。何年か前に俺も視察の護衛で来たことがある。その時はもう少し穏やかな雰囲気の町だった」
「魔王の影響でしょうか?」
「それも無くは無いだろうが……。それにしても他の町の住民と比べ、皆暗い目をしていると思わないか?」
「確かにそうかもしれません」
住民たちの目はまるで魔王の時代の頃のように暗い。未来に希望なんてないかのような、光の無い瞳である。少し前まではこういう目をしている人が多かった。人間では太刀打ちできない魔王の力に希望を持つことの方が難しかったのである。しかし、魔王が倒れた今はそういう人をほとんど見ることがなかった。
「とにかく、用心はした方が良い。この町は雰囲気が悪い。迂闊なことは話すな」
「分かりました」
エステルたちが勇者と騎士であると分かれば面倒なことが起こるのは前にも起こったことである。ただの面倒なことであればまだ良いが、それが身の危険に繋がらないという保証はない。エステルはシルヴェストの忠告に頷いて、町に入る門を見上げる。門には町を象徴するように麦の穂が装飾して彫られていた。




