12 謎の男
結局、シルフに鍵を探してもらってその鍵でこの場所から脱出しようという結論となった。扉を壊して出て行くのは簡単であるが、どうしても音が出てしまう。この場を真空にして音を遮断するという方法もシルフによればできるのだそうだが、人間は漏れなく窒息してしまうのだそうである。そういうこともあって、大精霊を小間使い扱いするなんてと小言を漏らすシルフにエステルからお願いをして前述の結論に至ったのだ。それに至るまでにも、シルヴェストとシルフの言い合いで少しの時間が必要となったのだが、それは余談である。
そしてようやくシルフがこの堅牢な部屋を出て行って少しした頃、カチカチと石の床を叩く音が聞こえ始めた。その音のスピードからして、その金属のような音は杖ではなく靴によるものだと思われる。それは明らかにこの場所に向かって近づいて来ていて、エステルはじっと身構えてシルヴェストを見た。
「――エステル、俺の後ろに」
「はい」
シルヴェストはそれを警戒するように、エステルを自身の大きな背の後ろに隠して扉を見つめる。幸いにもこの部屋の窓は小さく、人が通れるようなものではないので、それを警戒しなくて良いのは不幸中の幸いなのかもしれない。
そしてやはりその音はこの部屋の前でぴたりと止まったかと思うと、ガチャリと鍵を回すような音がしてどうやっても開きそうにもなかった分厚い扉がゆっくりと開かれたのである。
「よく眠れましたかな?」
現れたのは一人の男、と思われる。なぜはっきり断言できないのかと言うと、その人間の顔を見ることができなかったからだ。
その男の頭部には表情のない鳥のような大きな口ばしのついた仮面をつけていて、顔は見ることが叶わない。それでも、背丈や話し方や雰囲気では子供ではなく、シルヴェストよりは上であるだろう年頃であることは何となく分かる。紺色の大きなマントはすっぽりと彼の服を隠していて、ぱっと見て分かるのは男であること、そして靴の色が黒であることくらいしか見た目では分からない。
「生憎、ベッドが合わなかったようでな」
「そうでしたか。それは失礼した。――貴女が勇者殿ですか。ふむ。話の通り、何とも可愛らしい方で」
シルヴェストの皮肉にも似た言葉に男は少し笑ったようで、声の調子が少し上がった。そしてシルヴェストの後ろにいたエステルに視線を遣ると、その仮面の奥からじっと観察しているのが分かる。思わず身構えて体を固くするエステルであったが、彼はそんなことも意にも介さないようで平然と見つめたままだ。
「それで?俺たちに何の用なんだ」
「そうピリピリしないでいただきたい。私はただ、あなた方にご忠告をと思いまして」
「忠告だと?」
大げさに肩を竦めて見せた、男の演技かかった仕草にシルヴェストが眉を顰めたのが顔を見なくても分かる。シルヴェストは苛立ちを隠そうともせず、男に聞き返した。
「はい。勇者殿、貴女がブランシャール公爵の子息と結婚なさるとの話を小耳に挟みましてね」
「……それが貴方に何の関係があるのですか?」
「エステル、耳を貸すな」
エステルが男に聞き返すと、シルヴェストが遮るように注意をした。シルヴェストはエステルのことを心配してくれていて、そのことはよく分かる。しかし、それでも彼の言葉が気になった。
確かにエステルにブランシャール公爵の子息、カミーユとの縁談が持ち込まれたが、それはまだ本当に内々の話であった。だからエステルも簡単に断わって、それで終わりにできたのである。いくらエステルが勇者であろうとも、あれが正式な話であったのであれば断わるのにも順序や色々な手続きみたいなものがあるはずだった。
そんな話を知っているとなると、この男はますます怪しいのである。
「おやおや、恐い騎士さんだ。――私はね、勇者殿に忠告をと言ったでしょう?貴女が表舞台に立たれると困る人がいる、そういうことです」
男はそう言うと、くすりと笑う。それは声の調子は確かに笑っているのに、どこか背筋が冷たくなるようなそんな温度を伴わない笑いだった。
「私は表舞台に立とうだなんて思っていません」
「それでも、貴女には利用価値がある。そして、貴女の意思を無視して貴女を操ることも簡単だ。貴女には弱点が沢山あるようですから」
「――黙れ!」
その声と同時に風を切る音がエステルの耳にも確かに届いた。そして、鳥頭の男の後ろにあった扉が真っ二つに裂けて、大きな音を立てて床に落ちた。
「シルフ!」
すっかり見通しの良くなった扉の向こうには体勢を低くして、牙を剥き出して唸っているシルフの姿が見えた。
当然ながら扉がそれだけ派手に壊されたとなれば、扉の傍に立っていた男も無事ではない。確かに男にもシルフの刃が届いていたはずだ。しかし、彼には怪我どころか傷一つ、マントが裂けたところすら見当たらなかったのである。
「大精霊様がもういらしてしまいましたか。どうやら時間もここまでのようです。それでは、また会う機会が無ければ良いのですが」
男は楽しげに笑って、そう言葉を掛けるとそのまま霞のように姿を消した。
「……消えた、のか?」
「あれは投影魔法の一種で、男は実際にはここにいない。この建物自体にも人一人いなかった。人の気配があると思えば、全て幻。全く面倒なことをするもんだよ」
シルフが部屋へ入って来ると、そうため息を吐いて座る。この建物内を隈なく探したらしい彼によると、建物にはエステルたちしかいないのだそうだ。
「投影魔法?」
「遠くの場所で対象の姿を映し出す魔法。人間が使う魔法でもかなり高度な部類だろうね。それにあれだけ精度が良いとすれば、使える人間もかなり限られているはずさ」
シルヴェストが聞き返すにも無理は無い。なぜならば二人にとって投影魔法はあまり聞いたことのない種類の魔法だった。戦いに身を置いていたエステルたちにとっては、どうしても攻撃魔法とか守護魔法、そういった戦いの最中に便利な魔法ばかりが身近になってしまいがちである。
今しがた見た投影魔法というものは初めて見たものであったが、シルフに指摘されなければ彼がそこに本当に存在したと思えるほどのものだった。
「……なるほど。では、一度ラウルに相談してみましょう」
「危険な目に遭うかもしれないぞ」
エステルの選択は男の忠告を聞かないというものだった。それに気付いたシルヴェストは難しい顔をして、エステルを見つめている。確かにただでさえ剣が使えなくなっているエステルには沢山の危険が待ち受けていることだろう。しかし。
「表舞台に立ちたいとか、政治とか、名誉とかそういうのはどうでも良いんです。でも、彼は私の弱点がたくさんあると言っていました。確かに私には弱点がたくさんあります。家族だけじゃないんです。シルヴェストやイザベル、ラウル。それに私に力を貸してくれたシルフや知り合いになった方々、全てが弱点です。みんなの存在があったからこそ、私は勇者の役目を受け入れることができました」
「エステル」
「私は私のことは平気です。でも、皆に害が及ぶ可能性があるなら、その敵を知っておきたいです」
以前、エステルは勇者だった。それはエステルにとって全てが自分の意思が伴わないことであった。平凡な娘にとっては辛いことが続き、心が折れそうになったり、目を逸らしたくなったことなんていくらでもあった。
しかしエステルが勇者の役目を負わされて、どんな過酷なことがあろうともエステル自身がすべてしっかり受け止めてきた。
エステルが勇者の役目を受け入れたのは、決して諦めたからではない。彼女がそうすることで自分の大事な人が守られるのだと信じていたからだ。だからこそ始めは嫌だと思っていた役目であったのに、目の前で「エステル」が繰り広げる戦いに目を背けることなく全てをこの目で見てきたのである。
「……分かった。エステルが決めたのであれば、俺はそれを助けよう」
「よし。じゃあ、出口はこっちだよ」
「シルフは反対しないの?」
「僕は何があってもエステルを守るだけだから」
シルフはそう言うと、尻尾を振ってエステルにその身を摺り寄せる。
「……ありがとうございます」
シルフのふかふかの毛並みに抱きついてそう言えば、彼は抱き返すように尻尾をエステルにくるりと巻いた。そしてエステルの頭をシルヴェストが優しく撫でる。
前も今もエステルは人に支えられていることをエステルはよく分かっていた。だからこそ、彼らの身を害しようと考える人が許せない。今は「勇者」ではなく、ただのエステルであるけれど、それに立ち向かう決心をしたのである。




