09 水の祭り
水の都、デラン。その街は縦横無尽に巡る水路によって繋がれた、小さな島々によって構成されている。一番小さな島は屋敷がようやく入る程度の大きさで、どの島もそう大きなものではない。沢山の橋と細い路地のデランは大きな馬車が走ることもできない作りになっていて、馬車の代わりにたくさんの船が島と島とを繋いでいる。人を運ぶのにも、荷物を運ぶのにも生活の全てに船が利用されているのだ。
「シルヴェスト、見てください!あそこの船!花飾りが付いてます!」
「……分かった。分かったから、少し落ち着け」
移動用のゴンドラに乗っているエステルの目に飛び込んで来たのは、白い花のリースで飾られた船だ。思わずはしゃいで身を乗り出すようにして見るエステルに、隣に乗っているシルヴェストは呆れ顔を隠そうともしない。
そんな二人を微笑ましげに見ていたのはエステルたちの横の席に座っていた老婦人だった。
「お嬢さんは水祭りは初めて?」
「はい!違う時期には来たことがあったんですけど」
「ふふ。あの白い花飾りは大精霊オンディーヌ様が好きなラティのお花なの。オンディーヌ様のために街をラティでいっぱいにするのが、この祭りの慣わしなの」
そう言った老婦人の右耳には先ほどの船と同じ、ラティの花が挿されている。老婦人はふわりと微笑むと、持っていた籠からラティの花を一本抜いてエステルの右耳の上に差した。
「わぁ……!あ、ありがとうございます。あの、お礼を……」
「いいのよ。水祭り、楽しんでいってちょうだいね。それが何よりのお礼だわ。相手がいる人は右、いない人は左に挿すの。お嬢さんは素敵な方と一緒だから右ね」
「え!」
「それじゃあ。私はここで降りるから。オンディーヌ様の祝福がありますように」
老婦人はそう言って彼女の夫であろう隣の落ち着いた紳士を見て微笑むと、一緒に船を下りてしまった。
「……ええと、左に挿し変えた方が良いんでしょうかね」
「別にそのままでいいだろ。せっかく挿してもらったんだ」
「そ……そうです、ね」
残されたのはエステルとシルヴェストだ。エステルは老夫婦が歩いて行ったのを見送って、恐る恐るシルヴェストを見ると、彼は何てこともない顔で風景を見ていた。
彼には他意はないと分かっていても、その言葉に顔が熱を持って赤らむ。それに気付かれないように、シルヴェストに背を向けて風景を見ている風を装った。
「――テル、エステル?」
「は、はい!」
頬の熱に治まれ、と自身に向かって念じているうちに目的地に着いていたらしい。エステルの顔を覗き込んだシルヴェストと目が合って、せっかく治まった赤色が再び色付いてしまった。だが、シルヴェストはそんなエステルの様子を祭りに興奮しているせいだと思ってくれたらしい。気にした様子もなく、エステルに降りることを告げた。
「珍しいのは分かるが、降りるぞ。もうすぐ大神殿だ」
「はい!」
そしてシルヴェストに続いて慌てて降りたのはデランの中心部にある、比較的大きな島に堂々と建つ水の大神殿の前だった。大きな石の柱が特徴的で、とても人の力では建てることのできないだろうと思える。神の存在、精霊の存在を確かに感じさせる神殿は圧倒されるほどの荘厳な雰囲気で包まれていた。
だが、今日は祭りの真っ只中である。いつもは無駄話を一切許さないような厳かな雰囲気の大神殿も今日ばかりは明るい活気に溢れているのだ。
遠くに神殿が見えてはいるが、乗船場からは少し歩くことになるのでエステルとシルヴェストも他の観光客と同じように神殿までのまっすぐの道を歩く。他の道よりも開けているその道の両脇には祭りを彩る屋台や出店などが並んでいる。簡単な軽食などの食べ物を扱う店からは食欲をそそるおいしそうな香りがして、エステルは思わずそちらを見てしまう。
「……で?どれが食べたいんだ?」
「え?いいんですか?」
「そんなに食べたそうな顔しておいて何言ってるんだ。別に向こうで待ち合わせをしているわけでもないし、それくらい良いだろう」
「……じゃあ!あの水袋っていうのが気になります!」
「確かに気になるな」
シルヴェストが立ち止まったのでそちらを見れば、シルヴェストは可笑しそうに小さく口元を緩ませエステルを見ていた。
エステルはシルヴェストの申し出に喜んで飛びつくと、右手に見えた水袋なるものの宣伝をしている出店を指した。名前を見ただけでは水筒か何かを連想してしまうそれであるが、どうやらそれは食べ物であるらしいのだ。
「すみません。水袋って何ですか?」
「それはアレだね、食べてみれば分かるよ!とりあえずは清涼感たっぷりの爽やかな食べ物ってところかね。どうする?買うかい?」
エステルはシルヴェストと笑みを浮かべて顔を見合わせると、出店の前まで進む。そして水袋について尋ねてみると、出店の主人は意味深にそうとだけ告げて、エステルたちに購入するかどうか尋ねてきた。
「では、それを二つ」
「はいよ!二つで200アトロだ――ちょうどだね。ありがとよ!」
シルヴェストが代金を渡すと、主人が二つ水袋を渡した。薄桃色の透明な袋状のそれは棒に刺さるようにして固定されていた。だが、それは固いものではなくシルヴェストが動くのと同時にふるふると揺れているのである。
「ほら」
「ありがとうございます。……不思議な形、ですね」
「おっと、お嬢さん!早く食べちまわないと水袋が破けて落ちちまうよ。一口で食べてしまうのがおすすめだ」
それを眺めていると、先ほどの出店の主人が慌ててアドバイスをくれた。シルヴェストを見ると、エステルよりも先に主人に言われた通りに一口でぱくりと食べている。それに続いてエステルもそれを口に含む。
すると水袋は口の中で溶けるように先ほどまでの形状を失い、水のように液体状になったのである。
「おいしい!確かにこれは水袋ですね」
「だろう?デランの名物さ」
そう言った出店の主人は得意げに笑う。シルヴェストも水袋には満足したらしく、心なしか楽しそうな顔をしている。
と、その時。元々賑わいのある通りではあったが、その騒ぎが一層大きくなる。何事かと思って声の方を見れば、ちょうど大精霊のパレードなるものが始まったらしかった。
「おや、オンディーヌ様のパレードが始まったようだね」
「パレード?まさか、大精霊様もお越しになるのですか?」
「ああ。そうだよ。大精霊様が人の前に姿を現してくださるのは誰かが召還した時と、この水祭りのパレードの時だけさ!」
出店の主人はそう言って、まるで自分のことのように自慢げに胸を張る。だが、確かに会うどころかそうそうお目にかかることすら出来ない存在だ。そんな大精霊を間近で見ることのできる機会を得意げに思う気持ちは分かる気がする。
「シルヴェスト、せっかくですし見ていきましょう」
「ああ」
シルヴェストも了承してくれたので、そのままそこで立ち見をすることにする。すると、少しして騎士が担いだ神輿に乗ったオンディーヌの姿が目に入った。人が多いこともあって、エステルにとっては見晴らしが良いとは言えないが、彼女の髪の色を見れば彼女が本物であると一目で分かる。
水のように透き通る、薄い水色の髪。そして白い肌とアイスブルーの瞳はまさに彼女が大精霊である証拠でもあるだろう。そしてその姿はまだ十二、三才ほどの少女のような姿なのである。とは言っても外見年齢は若くとも、その実年齢は人間には想像もできないほどであるのだが。
その姿を他の見物客と同じように眺めていると、彼女と目が合う。そして一瞬驚いたような顔を浮かべて、エステルたちに神殿の方を視線で示した。恐らくは、後で来るようにということだろう。それを察して、エステルが頷くと彼女も小さく頷いてまた先ほどと同じように前を向いてパレードに戻ったのであった。




