イリオモテの猫 1話
とある高校の放送ログ――
「みなさん、こんにちは。お昼の時間です。いつのまにかもうすっかり秋ですね。ついこの間
までは夏だと思っていたのに、今朝外に出てみたら風の寒いこと寒いこと。危うくそのまま部
屋に戻って二度寝してしまうところでしたよ~。しましたけど。ほら、『春眠暁を覚えず』って
諺もあるくらいじゃないですか。え?今は春じゃないって?ちっさいことを~気にするな♪
それワカチ痛っ、委員長なにするんですか!私は放送委員という職務を忠実に全うしようとし
ているだけのかわいい放送委員だと痛っ!ちょ、委員長!角はやめて角は!角だけは勘弁して
下さい!どうせやるなら豆腐の角にギャー!助走をつけて台本の角を振りかぶるなんて何とい
うドS!!・・・・はい、分かりました。真面目に放送します。突然ですが皆さん、秋は好き
ですか?私は秋が嫌いです。なぜならみんなが食欲魔神になるから。学食のパンコーナーを御
覧なさい。飢えたみんなのせいで今日も私は幻のクリームメロンパンにありつけずあんパン一
つでこの放送時間を乗り切っているわけですよ。私だって一度はクリーミーなもちふわ食感に
ありついてみたいんで「ドゴォン!」・・・お騒がせしました。代わりまして私、放送委員長の
田辺がお送りしております。今日はペンネーム「メロンパン勝ち組」さんからのお便りで「こ
の学校にまつわる『伝説』があると聞いたのですが、それって何ですか?」についてお答えし
たいと思います。私の知る限りでは――」
◇ ◇ ◇
体育倉庫裏。
「伝説なのは放送委員だろ」
呆れつつ、宗政修二は空を見上げた。
悲しいくらい良い天気だ。正午を少し回った時刻に、秋の空がどこまでも広く晴れ渡っているように思える。よく言う秋晴れってやつだろうか。周囲に人の姿はない。まるで告白してくる女子を待ってるみたいだな、と修二はふいにそんなことを考えてしまう。違うと分かってはいたとしても。
事実、色恋沙汰で女子と約束しているということに間違いはないのだ。
「お待たせしました」
「おう」
「ごめんなさい、わざわざ昼休みに付き合ってもらって」
「いいよ別に。それより手紙にあった『しつこくて困ってる奴』ってのは?」
「これから来ます。話したいことがあるって、さっき電話で呼び出しておきましたから」
「そうか」
ただこの場合、色恋沙汰に巻き込まれたと言った方が正しい。
今朝、修二の下駄箱の中には一通の手紙が入っていた。送り主はここにいる後輩の女子で、少し開いた便箋から垣間見えていた「告白」の二文字に修二は一瞬心躍ったものの、そこには別の意味で思った通りの内容が記されていたのだった。そしていつも通り落胆した。今まで色んな女子から手紙自体は受け取ってきたのに、それらの中には何一つとして修二への好意を示すものはなく、代わりに
「告白『を断るのを手伝ってください』」
こんな一行の書かれた手紙が舞い込むばかりで、今日受け取ったのもまさにその数を一つ増やしただけに過ぎなかったのだから。
そして修二は、
「な、何かなゆきちゃん?き、急に呼び出したりして・・・って、げぇ!宗政」
「お前か、こちらのゆきちゃん?につきまとってる男子ってのは」
「ゆ、ゆきちゃんに一体何を!ま、まさかお前もゆきちゃんを狙って!?」
「駄目だろ、相手が困るようなことしちゃ。告白するにしたって、もう少し節度を」
「だ、だめだぞ!や、ヤンキーみたいな顔したお、お前にゆきちゃんを渡せるか!」
「なぁ!ひ、人の悩みの種を・・・」
「ひい!!に、睨んだって無駄なんだからな!お前、け、喧嘩しない主義なんだろ?所詮怖いのは顔だけだもんな!だったらべ、別に睨まれたところでお前なんか全然怖くも」
「あ、携帯が」
「わぁぁあぁあぁあぁああぁああごめんなさいいぃいぃいぃぃい!!!!!!」
こんなふうに怯えて走り去ってゆく人を見る度、自分のコンプレックスを否応なく意識させられるのだった。
「すごい!やっぱり西表高校が誇る『伊達政宗』は伊達じゃないですね!」
「いや、メルマガ届いただけで」
「いいんです!あの変な男子さえ怯ませてもらえればそれで。あとは私が『今度言いよってきたらその度にあの人が動くから』とでも言っておきますね!」
「ちょ!?それは本気で困――」
「本当にありがとうございました!」
ぺこりとおじぎをして、手紙の女子が小走りでその場を去ってゆく。
後には、また新たに自らの心を抉られてしまった「伊達政宗」が残される。
「――るからやめてくれ・・・」
修二の青春は、とても険しい城塞の中にでも隠れてしまっているのだろうか。
◇ ◇ ◇
誰でも一回は自分の身体にコンプレックスを抱いたことがあると思う。
「どうして俺はこんななんだ・・・?」
旧校舎。体育倉庫に近いお手洗いの備え付け鏡で修二は自分の顔と対面していた。
切れ込みを入れたような鋭利な眼つきに、無駄に筋の通った高い鼻。彫りの深さも相まって、鏡にはどうしようもないほどの恐面が映り込んでいた。加えて身長は177cm。この顔が見上げる人間よりもこの顔に見下ろされる人間の方が世には多いという現実。
何より問題なのは傷だった。
右眼を縦に走っているこの細長い切り傷こそ、修二が「政宗」呼わばりされる最大の特徴。
猫を助けたのが原因だった。小学生の頃、修二は車道でうずくまり動けなくなっていた三毛猫を間一髪のところで救い出したことがある。突進してくる車に轢かれる寸前、修二は猫を引っ掴んで抱いたまま転がるようにして車道から抜け出し、そのまま脇の茂みへと突っ込んだのだった。
結果、猫は助かった。しかし野良猫だったせいで誰からも感謝されなかったどころか、修二は突っ込んだ茂みの枝で右眼をざっくり切ってしまった。かろうじて視力に別状はなかったものの、そのときの傷跡は今も修二の右眼に残っている。親にはこっぴどく叱られた。
「ままならんなぁ」
修二はそんな昔の出来事を思い出しながら、教室のある新校舎へと足を向けた。
旧校舎とを繋ぐ一階の連結廊下は紅一色。染まった落ち葉が裏庭から風に乗ってここまで運ばれてきているのだ。それにしてもあまり掃除されている様子はなかった。元々あまり使うあてのない旧校舎に向かうための廊下を真面目に掃除しようとする生徒はいないのだろう。
しかし裏庭に目をやると、一人の生徒が隅で何かをしているのが見えた。
(あれは)
さっきの男子生徒だ。「ゆきちゃん」と呼ばれた女子に付きまとって迷惑がられていたところ、修二の姿に怖気づいて逃げ出したはずだった。こんなところにいたとは。
(何やってんだ?)
植え込みの陰になっているせいで詳しくは分からないが、何かに苦戦しているように見える。側溝にはまって抜け出せなくなっているとしたら一大事だ。裏庭も廊下と同じく掃除がきちんと行き届いてるとは思えない。落ち葉の下に隠された溝に落とし穴の要領で足を突っ込んでしまう可能性は十分ある。
なので修二はとりあえず先程のことは水に流し親切で男子生徒に声をかけようとしたのだが、
「――ッ!」
男子生徒は急に立ち上がったかと思うと、またしても怯えるようにしてそこから走り去ってしまった。
「何だったんだ?」
再び修二も首をひねるしかない。
一応何事もなかったのならそれはそれで良いことだが、あんな裏庭の隅で何をしていたのかますます理解できなくなる。それに走ってゆくあの姿。特に植え込みでのリアクションはどう考えても普通ではなかった。
「あそこに何かあるのか?」
思い至ると、修二は廊下のフェンスを乗り越えて対角線上の裏庭の隅へと向かう。
相変わらず落ち葉だらけだった。でこぼこした地面に足を取られるせいでうまく走ることができない。運動神経は普通なつもりだが、さっきの男子生徒はよくこんな所を走っていったなと修二は少し感心した。しかし昼休みはまだ半分も過ぎていない。裏庭の隅まで行ってもう一度戻り、ゆっくり自分の教室へ戻ったとしても始業には全然間に合うはずだ。
そんなことを考えながら裏庭の落ち葉を踏み鳴らしていた修二の足は、
「え・・・」
植え込みへ着く前に突然止まった。
分かってしまったからだ。さっきの男子生徒が血相を変えて去って行った理由が。もっとも「それ」をやったのがさっきの男子生徒と決めつけるのは早計かもしれない。でも確かなのは、修二が隅へ至るより先にその「正体」が植え込みの陰から姿を現したということ。
後ろ脚から血を流し、弱々しい足取りでこちらに向かってくる三毛猫が。
◇ ◇ ◇
「大丈夫よ。歩きにくそうにはしてるけど、きちんと消毒して包帯を巻いておけば一週間くらいで良くなるわ」
新校舎一階の保健室。
独特の薬品臭が漂う白を基調としたこの部屋に、二人は向かい合って座っていた。
一人は保健の先生だ。白衣を着ていかにもそれっぽい出で立ちをしてはいるが、騙されてはいけない。こいつは職務中だというのに生徒の前で堂々とタバコをふかしている。
しかし一方も負けてはいない。こっちはこっちで、高校の制服を着ているくせにこんなところでヤクザのようなオーラを存分に醸し出している。
「先生、タバコ吸っていいんですか?」
「何で怪我したのかしら?『あの娘』からそんな話は聞いてないし」
「俺の話も聞いてないですよね」
「宗政くんだっけ?他に何か知ってることない?」
「ないですよ。さっき旧校舎から帰ってくるときにその猫が怪我してるのを見つけたのでここまで運んできたんです」
ゆきちゃん云々の男子生徒がいたことは伏せておくことにした。何か罪を着せてるみたいで嫌な感じがしたし、自分から話をややこしくする必要もないと思ったのだ。
修二は改めて目の前のエセ白衣を見た。修二と同じく丸椅子に座った彼女の膝の上には、さっきの三毛猫が気持ちよさそうに丸くなって眠っている。少し遠目でも分かるほどの出血を目の当たりにしたときはどうなることかと思ったが、眠れるなら本当に大した怪我ではなかったのだろう。
修二はひとまずほっと息をつくと、眠る三毛猫へと手を伸ばし頭をそっと撫でてやった。
そして再びエセ白衣へと話しかけようとしたところで
「にしてもまた何で旧校舎なんかに?『あの娘』と同じ美術部というわけでもないしょう。かつあげ?」
「違いますよ!てか曲がりなりにも教員のくせにさっきから何すか俺に対するその扱い!」
「そうよね。『かつあげ』じゃ三下のやることだから『けじめ』の方が良かったかしら?」
「そういうことでなくてぇぇぇぇぇ!頼むから俺の話を聞いてくれ!」
白衣の女はなかなかの兵らしかった。
「ごめんなさい。ちょっとあまりにも退屈すぎて冗談を言ってみたかったのよ。ここしばらく『あの娘』とも話してないからちょっとつまんないわぁ」
「退屈ってのも公務員が言っちゃいけない台詞ですけどね。『あの娘』って誰ですか?」
「一応秘密ということにはなっているのよ。でもあの様子だともうすぐ来るだろうしそしたらどのみちバレちゃうと思うから」
「持病持ちだとか?」
「いいえ至って健康よ。ただ健康すぎて今日は殴り殺されてたわね」
「殴殺!?どういうことですか!?先生は一体何を目撃したんですか!?」
「あんまり騒ぐとシンバちゃんが起きちゃうわよ。というか同じクラスだって私は『あの娘』から聞いてたけど」
「同じクラスって?ああ!まさか!」
修二がそう言ったのと、扉が開くのはほぼ同時。
サイドテールにまとめた髪と大きい猫目が印象的な女子生徒が、額を押さえ泣きながら保健室へと入ってきた。
「先生ぇ~委員長が殺人未遂です、ってわぁ!?殺人犯!」
「神崎!?」
修二は眼を見張っていた。
神崎このみ。
修二のクラスメイトどころか隣の席の生徒だった。自分の席にいることがほとんどないため話したことこそなかったが、その名前と容貌だけは修二もよく知っていた。小顔で、目鼻立ちもよくて、口も花弁のように鮮やかな桃色をした絶世の美少女。しかしその性格は支離滅裂で予測不可。話した者を必ず混沌の渦へと叩き落とす謎の魔女。
ちなみに修二はさっきの「殺人犯!」で地獄の底に叩き落とされた気分だった。
「・・・・・」
「なんだ、まさむねくんか。ん?まさおかくん?どっちだっけ?」
「どっちも違う!そして後者のは本当に誰だ!?」
「ま、分かんないから『むねまさ』でいいよね?」
「奇跡的な正しい着陸!」
「あ、合ってる?やた!0%の確率から奇跡を引き起こした!」
「こーちゃん、相変わらず奇跡的な娘ね」
白衣の兵が苦笑している。まずい。何かとんでもない巣窟に首を突っ込んでしまった気がする。修二が迫り来るダブルボケの予感に戦々恐々としていると、このみはそんな修二の様子も気にしてない様子で
「むねまさくんはどうしてここにいるの?」
保健室の奥から丸椅子を引っぱり出してくるとその隣へと腰掛けた。
「この三毛猫が怪我してて」
「シンバ!その脚どうしたの!?誰にやられた!?そしてむねまさくんは何でここにいる!?そして先生久しぶり!二人とも何か知っているなら今すぐ私に情報提供を!」
「こーちゃん、手がかりは『男子生徒』よ」
やられた。事情が事情なだけに修二はうまく否定することができない。
「い、いや違う!俺が来た時にはもう既に怪我してたんだ!」
「!ま、まさかむねまさくんがこの子のことを?」
「保健室へと連れてきただけだぞ!」
「うん、そうか。そんなに必死にならなくてもいいよ。もう全部わかってるから」
「何を分かったんだ!?だから絶対誤解してるって!」
「誤解なんてしてないよ。だってむねまさくんがこの子を――」
言いかけて、彼女はキッと唇を噛んだ。
修二はもう泣きそうだった。いつもそうだ。自分が善意でやったことはほとんど誰からも感謝されない。感謝されるのは嫌がっている女子から男子を振り払ってやったときだけ。それだって、自分のコンプレックスを利用された修二にとってはただ心苦しいだけなのに。
見てくれる人は、誰もいない。修二はそんな虚脱感を心の中で噛みしめながら、それでも必死に言葉を探して彼女の誤解を解くべく口を開こうとしたところで
「むねまさくんが助けてくれたんだよね!」
パッと輝いたその笑顔に。
へ・・・と修二は間抜けな声とともに固まってしまった。
「あれ、違う?私シンバを裏庭で飼ってたはずなんだけど、あ、シンバっていうのはここで今ぐーすか寝てるこの子のことね。放送委員長に殴られて頭痛いから保健室に来てみたら裏庭にいるはずのシンバがここにいてびっくり!脚に包帯巻いてるもんだからどうしようかと思ったけど、とりあえず気持ちよさそうに寝てるから怪我は大丈夫だと判断。そしてむねまさくんの『俺が来たときには既に怪我してたんだ!』・・・わたしゃ君がシンバをここまで連れてきてくれたのだと直感したよ、違うかい?むねソン君」
違わなかった。最後のむねソンとかいうのはいよいよ本格的に分からないが、彼女は修二の言葉にしっかり耳を傾けた上で自分を信じてくれていた。
誤解していたのは修二の方だったのだ。
「こーちゃんそうとも限らないわよ。犯人が第一発見者を騙ってるっていうケースも」
「先生、俺今ホントに感傷に浸ってるんでちょっと黙っててもらえますか」
「大丈夫だむねソン君!君が虐待犯でないという証拠は他にもあるのだよ、ふっはっは!」
そう言って、このみは修二の手を指差しさらにこう続けたのだった。
「わざとならそんなふうに撫でないよ」
「あ――」
それは本当に何気ない動作。ただ何となく手を置いただけで、無意識のうちに修二はシンバを労わるように撫でてしまっていたのだ。
痛々しく巻かれた包帯を優しく包み込むようにしながら。
まるで、自分が怪我したときにさする仕草そのもののように。
「ね、二人で飼えばいいじゃない」
白衣の兵がそう提案してくる。修二は思わずドキッとした。密かに思ってたことだったから。勿論シンバの経過が気になるのも本当だ。それにゆきちゃん云々の男子生徒のこともある。少なくとも事情を話して飼っている場所は変える必要があるだろう。それ以外だって、挙げようと思えば理由なんていくらでも挙がるように思えた。
でも修二にとって一番大切だったのは。
「おお、いいね!実は内緒で飼ってたんだけど、バレちゃったもんはしょうがないし、何よりこれから心配だから見守ってくれる人が増えるってのは心強い!でもこれからはシンバのこと誰にも言っちゃいけないぞ?」
「おう、わかった。俺と神崎、エセ白衣、もとい峰先生の三人だけの秘密な」
「宗政くん、心の中では私のことをそんな風に呼んでたのね」
この天真爛漫な少女と共有できる秘密ができたということ。
そしてそれは。
「よろしくね、むねまさくん」
笑ってしまうくらい良い天気な、とある昼休みの出来事だった。