閑話8 クローリー編 苦難の始まり
クローリー=ジリンガムの修道院生活 ― 苦難の始まり
灰色の石造りの修道院。その重い門をくぐった瞬間、クローリーの胸にあったわずかな期待は打ち砕かれた。
ここでの生活は「心を清める」などという生易しいものではなかったのだ。
「まずは床を磨きなさい。ひざまずいて、一つ一つ丁寧に」
修道院長の冷たい声が響いた。
ふかふかの絨毯や光沢ある大理石の床しか知らなかったクローリーにとって、石床の冷たさと硬さは想像以上だった。
ブラシを持つ手がすぐに痛み出し、膝も赤く腫れる。
「こんなこと、わたしにさせるなんて……!」
心の中で叫ぶが、誰も彼女を特別扱いしてはくれない。
かつては「伯爵令嬢」と呼ばれ、ちやほやされた自分が、今や下女のように扱われているのだ。
次の日からは畑仕事が待っていた。
田舎の修道院では、食料を自分たちで育てねばならない。
クローリーは初めて土に触れ、鍬を振るった。だが――。
「きゃっ! 泥が……!」
爪の間に入り込む泥、背中に流れる汗。
日差しは容赦なく、絹のようだった肌はあっという間に赤く焼けただれた。
伯爵家の庭園で薔薇を愛でる生活しか知らなかった彼女にとって、畑は地獄そのものだった。
夜になると、祈りの時間がある。
鐘の音に合わせ、全員が膝をついて聖典を唱える。
声を合わせ、何度も同じ文を繰り返すことは、まるで自分を空っぽにするようで、クローリーには耐えられなかった。
(どうして……どうしてこんな場所に……! わたしは本来なら社交界の華で、ドレスに包まれていたはずなのに……)
心の叫びは、冷たい石壁に吸い込まれて消えていく。
隣に並ぶ修道女たちは一様に無表情で、ただ祈りに没頭していた。
食事もまた屈辱だった。
毎日同じような黒パンとスープ。塩気も薄く、肉などほとんどない。
豪華な晩餐に慣れた舌には苦痛でしかなく、最初の一週間で頬はこけ、かつての華やかさは跡形もなくなった。
「これじゃ……まるで囚人じゃない……!」
だが、それが彼女の新しい現実だった。
ある日、修道女のひとりが鼻で笑いながら言った。
「伯爵令嬢様でも、ここに来ればただの一人よ。掃除も畑仕事も、誰も代わってはくれないわ」
その言葉に、クローリーは返す言葉を失った。
プライドはすでに砕かれている。
ただ唇を噛み、目を伏せるしかなかった。
やがて夜、寝台に横たわったとき、不意に涙があふれた。
ふと頭に浮かぶのは、あのリースの顔。
自分を憐れむように見つめていた、公爵令嬢のあの目。
(どうして……どうしてあの子に、すべて負けてしまったの……)
答えは簡単だった。
リースは人を想い、助けようとする心を持っていた。
けれど自分は妬みと虚栄心に囚われ、すべてを失った。
それが真実だった。
次の日、修道院長から告げられた言葉が、彼女の心をさらに突き刺す。
「あなたは特に心が傲慢に満ちている。だからこそ、より厳しい鍛錬が必要です。畑と掃除、そして祈りを三倍こなしてもらいます」
「そ、そんな……!」
悲鳴を上げても無駄だった。
誰も彼女を助けない。
かつては「お嬢様」と呼ばれたクローリー=ジリンガムは、今や誰よりも重い務めを課せられる存在に成り下がったのだ。
月日が経つごとに、クローリーの手は荒れ、髪は艶を失い、かつての輝きは消えた。
村人たちが修道院を訪れると、かつての噂を知る者が指をさして囁く。
「あれが……あのジリンガム伯爵家の娘か。落ちぶれたもんだな」
その視線が、彼女には何よりの屈辱だった。
「ざまあ」という言葉が、背後から聞こえてくるようで――耳をふさいでも消えなかった。
夜の祈りのあと、蝋燭の灯りの下で一人、彼女は声を押し殺して泣いた。
「リース……あなたには……最後まで勝てなかった……」
涙は止まらなかった。
あのときの妬みさえなければ、自分は違う未来を歩んでいたのかもしれない。
だが、もう遅い。
こうして、クローリーの新しい生活――苦難に満ちた修道院でのざまあの日々が始まったのだった。




