閑話5 レスター編 リースの返事
レスター編 リースの返事
桜の花びらが風に舞う午後、騎士団の寮前の石畳は買い物帰りの人々が通り過ぎてていた。
リース=グラスゴーは小さな布袋をぶら下げ、薄い羽織を肩にかけていた。
金色の髪が春の光にきらきらと反射し、彼女の横顔はどこか遠い空を見ているようだった。
「ロベルト、本当にありがとう。ふたりで来てくれて助かったわ」
ロベルトは照れくさそうに笑って、リースの傍らに立つ。
彼の肩にはまだ訓練で付いた小さな傷が残っていて、それが妙に男らしさを際立たせていた。
騎士見習いの装いだが、彼の視線はいつもリースを追っている――
それが、近くにいる者にははっきりとわかる。
そのとき、向こうから馬車の影が近づき、黒いコートを翻した青年の姿が見えた。
レスター=ブラッドフォードだった。
彼は人混みをかき分けるようにして歩き、リースの前で立ち止まる。
淡い銀の髪、整った顔立ち。
微笑みを浮かべているが、その瞳には何か計算めいた光が漂っていた。
「リース。偶然だな、散歩にでも出ていたのか」
レスターの声に、周囲の空気が少しだけ張りつめる。
リースは一瞬、顔を上げる。
表情には驚きと、どこか緊張が混ざっていた。
「レスターさま……」
言葉は小さく、しかし礼儀正しい。
ロベルトはピンと背筋を伸ばし、自然とリースの前に立つ。
防衛本能か、独占欲か――彼の顔に一瞬、険しさが走る。
レスターは軽く笑った。
鞄から封のされていない手紙を取り出し、さりげなく見せつけるようにひらひらさせる。
「手紙は読んだだろう。俺の言うことを受け入れるべきだ。リース、婚約破棄は取り消す。だが正妻は無理だが、愛妾ならなれる。そうなれば生活も安定するし、名誉も取り戻せるだろう?」
その言葉に、ロベルトの眉がきゅっと寄る。
リースの頬が少し紅くなるのを、レスターは見逃さなかった。
「愛妾だと?」
ロベルトの声は低く、鋭かった。
「そんな扱いを受けるほど、リースは安い女じゃない」
レスターの口元がぴくりと歪む。
「ふむ、騎士見習いの口からそんなことを言われる筋合いはない。お前のような立場の者に、リースが釣り合うと思うのか?」
ロベルトは体を前に出す。
「お前に決める権利はない。先に婚約を破棄したのはお前だ。見捨てたくせに、今さら手のひらを返して何がしたいんだ」
人混みのざわめきが少し静まる。
レスターの顔には怒りが滲む。
彼は低く笑い、ロベルトを見下ろすように言った。
「見捨てた? その通りだ。しかしそれが、貴族の世界というものだ。だがここで言っておく──お前のような下人に、リースは似合わない。忘れるな、俺の家は伯爵家だ。お前と次元が違う」
ロベルトの拳が震える。
彼はリースの方へと向き直り、声を震わせながら言った。
「リース、俺は――お前のことが好きだ。騎士として、男として、俺が守る。誰が何と言おうと、俺はお前を守る」
その告白は、周囲の空気を一瞬で固めた。
リースの目が驚きで大きく見開く。
金の髪がふわりと揺れ、彼女は言葉を探すように唇を噛んだ。
一方、レスターの顔は一瞬で石のように固まる。
自分の前で告白するとは予想外だ、とでも言いたげに。
だがすぐに彼は冷笑を返す。
「可愛らしい情熱だな、見習い。だが現実を見ろ。彼女は今、立場を失っている。安定を与えられるのは俺の側だけだ。名誉を与えられるのは俺の名――」
「誰があんたなんかの愛人になるもんですか!」
突然、リースが声を上げた。
言葉には怒りと呆れが混じっている。
普段の柔らかな口調は消え、鋭さが顔を出す。
「馬鹿じゃないの。あんたの“名誉”なんていらない。私が欲しいのは、安定でも名誉でもなく、自分の意思で選べる未来よ。今は色々あってすぐには決められないけれど――あんたの愛妾なんて絶対にお断り」
その一言に、ロベルトは胸を撫で下ろすように息を吐き、リースの手を取った。
リースの瞳にはどこか柔らかな光が戻っている。
照れ隠しのように、彼女は小さく笑って言う。
「ロベルトの告白は嬉しい。でも、ちょっと考えさせてね。今は本当に色々あるから」
レスターはその様子にキリリとした表情を崩し、抑えきれない怒りを露わにした。
「ふん、感情的な奴だな」
ロベルトの言葉の端から挑発がにじむ。
その挑発に耐えきれず、レスターは腕を振り上げてロベルトに殴りかかった。
だがロベルトはすばやくかわし、反撃に転じる。
短いやりとりの末、レスターは尻もちをつき、周囲の数人が驚きの声を上げた。
「覚えておけよ!」
悔しげにレスターは立ち上がる。
顔には傷もついており、その目には冷たい火が灯っている。
「俺の父は伯爵だ。お前など、家柄も身分も違う。俺はお前を許さない。今日のことは忘れるんじゃないぞ」
そう言い放つと、レスターは怒りに震える一歩を踏み出し、ひらりと人波の中へ消えていった。
馬車が彼を待っていた。
馬車の幌が閉じられるとき、彼の背中がほんの一瞬、震えて見えた――腹の底に沸き上がる屈辱と、どうにも拭えない敗北感が混ざった震えだった。
残されたリースとロベルトは、しばらく無言でその後ろ姿を見送った。
桜の花びらが二人の周りに静かに落ちる。
「リース、大丈夫か?」
ロベルトが尋ねる。
リースは深く息をつき、肩の力を抜いた。
「ええ、大丈夫。ロベルトがいてくれてよかった。本当に、ありがとう」
ロベルトはぎゅっとリースの手を握り返す。
「俺は――いつでもお前のそばにいる。騎士見習いでも、立場がどうであっても関係ない」
リースは少し微笑んで、目を閉じるようにして言った。
「今はまだ答えを出せない。でも、覚えておいて。私は私の選ぶ道を行く。他人に決められるものじゃないから」
二人はゆっくりと歩き出した。
石畳に落ちる影は長く、夕暮れが近づいている。
どこかでレスターの怒号がまだ尾を引いているようだったが、リースの歩幅は確かだった。
彼女の心は揺れている――だがその揺れは、自分自身の選択に向かっている。
――誰のものでもない、自分だけの未来へ。




