第4話 婚約破棄 ― 奪われる未来
婚約破棄 ― 奪われる未来
学院の中庭。白い石畳が朝の光を反射してきらめいていた。
かつてはリース=グラスゴーも、ここを誇らしげに歩いていた。金の髪を風になびかせ、周囲の生徒たちに憧れの眼差しを向けられながら。だが今、その姿はない。粗末な灰色の下働きの服に身を包み、俯きながら箒を握る少女の姿しかなかった。
リースの蒼い瞳は、いつの間にか人目を避けるように伏せられていた。父の処刑、公爵家の取り潰し、そして学院での雑用。彼女に残されたのは屈辱と孤独だけ。
その静かな朝を、突然破る声があった。
「――リース=グラスゴー!」
鋭い声に、リースは顔を上げる。そこには紅い髪を後ろに撫でつけた少年、バーンズ=カーライルが立っていた。男爵令息で、リースと同学年。彼の口元にはいつもの嘲笑が浮かんでいる。
周囲の生徒たちが、面白がるように足を止めた。何かが起きると感じているのだ。
バーンズの後ろには、鮮やかなピンク色の髪を揺らす少女――クローリー=ジリンガムが寄り添っていた。薄紅色のドレスを纏い、勝ち誇ったようにリースを見下ろしている。その隣には、銀髪と緑の瞳を持つ青年、レスター=ブラッドフォードが立っていた。彼はリースのかつての婚約者。だが、その眼差しは冷たい。
リースの胸がぎゅっと締めつけられる。
嫌な予感が、確信に変わる。
「リース」
レスターが一歩前に出た。かつて優しく微笑みかけてくれた少年が、今は氷のような声で言葉を放つ。
「俺たちの婚約は、今日をもって破棄とする」
中庭がざわめいた。
リースは言葉を失い、蒼い瞳を見開いた。
「な……ぜ……?」
声が掠れる。心臓が早鐘を打つ。
レスターの唇が皮肉に歪んだ。
「理由は言うまでもないだろう。お前の家は反逆者として処刑され、爵位も財産も失った。そんな娘と結婚して、俺に何の得がある?」
鋭い言葉が、胸を突き刺す。リースの手から箒が落ち、石畳に乾いた音を立てた。
「お前のせいで、俺はまた婚約者を探さなくてはならなくなった」
レスターの瞳は軽蔑に満ちていた。
「だが――幸運なことに、クローリー嬢が俺に手を差し伸べてくださった」
隣のクローリーが、わざとらしくレスターの腕に手を絡めた。
「そうよ、リース。あなたなんてもう必要ないわ。伯爵家の娘である私の方が、レスター様にはふさわしいの」
リースの喉が痛む。叫びたいのに声が出ない。目の奥が熱くなる。
――レスター。あんなに未来を語り合ったのに。共に歩むと誓ったのに。
バーンズが嘲笑を浮かべて言葉を重ねた。
「ははっ、公爵令嬢様が、今や掃除女だもんな。そんな女にレスターが釣り合うわけないだろ」
カトリーヌ=ドンカスターも笑いながら続いた。
「ほんと、見苦しいわ。昔はあんなに偉そうにしていたのに。ねえ、クローリー?」
クローリーは甘ったるい笑みを浮かべた。
「落ちぶれた人間の末路を見るのって、楽しいものね」
リースの胸がずたずたに引き裂かれる。足元が崩れ落ちそうだった。
その時、小さな声が割り込んだ。
「やめてください!」
黒髪の少女、メアリー=ファーンバラが一歩踏み出していた。男爵令嬢でありながら、リースに同情して何かと声をかけてくれる数少ない存在。
「リース様は……もう十分苦しんでいるのです。これ以上、辱める必要はありません!」
だがバーンズは鼻で笑った。
「庶民じみたお前が口を出すなよ、メアリー。守ってやれる力もないくせに」
メアリーは悔しげに唇を噛んだ。リースを見つめる瞳が、どうしようもない無力感に揺れている。
レスターは冷淡に言い放った。
「俺はもう決めた。婚約は解消だ。二度と俺の前に姿を見せるな」
クローリーが勝ち誇った笑みを浮かべ、リースに囁く。
「これで分かったでしょ? あなたは捨てられたのよ。掃除女にふさわしい未来を、ずっとそこで送ればいいわ」
リースは何も言えなかった。
声を出せば、嗚咽になってしまう。足が震え、視界が滲む。
――どうして。
どうして父が、家が、そして婚約者まで奪われるの。
周囲の生徒たちは、面白がるようにその光景を眺めていた。誰一人、リースの味方をしようとはしなかった。
リースはただ、唇を噛みしめて立ち尽くした。
頬を伝う涙を拭うこともできず、ただ心の奥で叫んだ。
――絶対に、負けない。
――必ず、この屈辱を乗り越えてみせる。
その誓いだけが、砕けそうな心をかろうじて支えていた。




