閑話1 学院長アーセナル編 消えた事務員アトラス
学院長アーセナル視点 ― 消えた事務員アトラス
春の陽ざしが差し込む学院長室。窓から見える桜並木は満開を迎え、学生たちの声がにぎやかに響いている。
だが、俺――学院長ポーツマス=アーセナルの心中は、まるで冬の吹雪のように荒れ狂っていた。
「……どういうことだ」
机の上には、処理されず積み上がった伝票と申請書の山。誰も手をつけず放置されている。
普段なら、ここにいたはずの男が黙々と片付けてくれるのに。
そう、アトラスだ。
彼は少々要領が悪く、文句を言えばすぐ顔を青ざめさせる弱気な男だったが、それでも一応は働いていた。少なくとも、机をこのような惨状にすることはなかった。
「学院長!」
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、初老の教師グレンだった。白い髭を揺らしながら、大げさな手振りで訴えてくる。
「どういうことです!? 事務所に誰もおらんのです! 教材の発注の連絡ができず、授業の予定まで狂い始めております!」
「なに?」
俺は眉をひそめ、立ち上がった。事務所に人がいないだと?
そんなはずはない。アトラスが――。
いや、待て。あいつは……。
数日前、保健室で倒れたあとに俺を睨みつけて、確かに言ったのだ。
『もう無理です。やめます』と。
その時、俺は「勝手にしろ」と突き放した。
だが、まさか本当に辞めるとは……!
慌てて事務室に向かう。
だが、そこには教師の言葉どおり、誰もいなかった。机の上には整理されていない書類の山、棚からはみ出す未処理の伝票。床には紙が散乱している。
耳元でグレンが喚き立てる。
「これはどういうことなのですか!? 誰が責任を取るのですか!? このままでは学院の運営に支障が――」
「うるさい!」
俺は思わず怒鳴った。
くそっ、アトラスめ! なんということをしてくれたのだ!
事務員一人が消えるだけで、ここまで学院が混乱するとは……。
まさか、あの男がこんなにも重要な存在だったとは。
教師たちからの苦情は止まらない。
授業に使う魔導書が届かない。
寮の食材が足りない。
退学届の処理が滞っている。
俺の机には次から次へと文句が飛び込み、頭が痛くなる。
その上、今夜は可愛いセリーヌのところへ遊びに行く予定だったのだ。
それなのに! この書類の山を片付けなければ城下町へ出ることもできない!
まったく……! なぜ俺がこんな下らぬ雑務に追われねばならんのだ!
俺は学院長だぞ!? 権威ある立場にある俺が、請求書の計算などしていられるか!
だが、このままでは確かに大変なことになる。
教師たちの怒りは日に日に高まり、もし王家や貴族に知られれば学院の評判に傷がつく。
「アトラス……」
俺は拳を握りしめた。
あいつのせいで、すべてが狂ったのだ。
なぜもっと辛抱できなかった!?
なぜ勝手に消えた!?
全てはあいつの無責任さのせいだ!
このままでは学院も、俺の夜の楽しみも、すべて台無しではないか!
「……早く、連れ戻さねば」
そう呟いた時、背後でグレンが訝しげに問いかけた。
「学院長。アトラスはどこに?」
「……体調が悪くて、今日は休んでいる。明日には来るだろう」
俺は苦し紛れにそう答えた。教師たちは一応納得した様子で引き下がったが、内心は不安で仕方ない。
このままでは本当に、取り返しのつかない事態になる。
――アトラスを見つけ出し、学院へ連れ戻さなければ。
俺は焦燥に駆られていた。
春の桜が風に舞う校庭を眺めながら、俺はひとり困惑する。
花びらは美しい。だが、俺にとってはただの皮肉だ。
なぜなら、アトラスという一人の無能(と、思っていた男)がいなくなっただけで、学院の基盤がぐらぐらと揺れ始めているのだから。
まったくもって信じられない。
「アトラス……! お前はなんということをしてくれたんだ……!」
俺は呻くように呟いた。
書類の山を睨みつけながら、頭を抱える。
どうすればいいのだ。
学院の混乱。教師たちの怒り。セリーヌへの約束。
すべてが俺の肩にのしかかってくる。
――これも、あいつがいなくなったせいだ。
怒りと困惑を抱えたまま、俺は苦々しく唇を噛んだ。




