第31話 ポーツマス学院アトラス リースに出会う
春の陽ざしがやわらかく差し込む窓辺で、俺は机に積まれた書類の山を前に頭を抱えていた。ほんの一週間前、厨房の責任者だったキャンベルが辞めたと聞いた。その瞬間は「まさか」と思ったが、今はその意味を骨身に染みて理解している。
しわ寄せは、すべて事務室に回ってきたのだ。
キャンベルがいなくなったことで、食材の発注や厨房との連絡まで俺に回されるようになった。もともとリースがやっていた仕事が俺一人に集中している上に、さらに雑務まで増えたのだから当然だ。気づけば机の上は紙の山、床にまで伝票が散らばる始末だった。
「これじゃ……絶対に回らないだろ……」
呟いても、答えてくれる者はいない。事務室には俺しかいないのだ。
請求書、発注書、寮費の管理、生徒の退学届け……頭の中がごちゃごちゃになり、目が回る。胃の奥がじくじくと痛み出し、手が震えて書き字も乱れていく。無理に机に向かっても、意識が霞んで集中できない。
このままでは本当に倒れる。俺は決意し、再び学院長の部屋を訪れた。
「学院長、お願いです。このままでは仕事が回りません。人員の増員を……」
だが返ってきた答えは冷たい。
「お前が怠けているからだろう。工夫が足りんのだ」
胸がきゅっと締めつけられた。怠けている? 一日三時間しか眠れず、文字通り必死で机にかじりついている俺に? 俺は必死に食い下がったが、学院長の瞳は凍りついたままだった。
「以上だ。下がれ」
――これ以上は無駄だ。
俺は拳を握りしめ、黙って部屋を出た。その瞬間、胸の奥に広がったのは怒りよりも深い虚しさだった。
◇
それから数日後。書類を処理している最中、急に視界がぐにゃりと揺れた。手元の紙が二重にぶれて、意識が遠のいていく。
「あ……やば……」
そこまで呟いたのを最後に、俺は机に突っ伏した。
次に目を開けたとき、そこは保健室の白い天井だった。薬草の香りが鼻をかすめる。額には濡れ布巾がのせられ、誰かが世話をしてくれたのだと知れた。
だが、その安らぎは一瞬で打ち砕かれた。
「仮病を使って休んでいるとは……情けないやつだ」
鋭い声に顔を向けると、青い長髪をきっちり撫でつけた学院長――ポーツマス=アーセナルが仁王立ちしていた。冷徹なその瞳は、倒れた俺を心配するどころか、軽蔑する光で射抜いてくる。
「ち、違います……過労で……」
「言い訳をするな。仕事もろくに回せん無能が、休んでいる余裕などあるか!」
その言葉に、頭の奥でぷつんと何かが切れた。
「……もう無理です」
「なに?」
「俺、やめます。こんな学院の仕事は、もう続けられません」
学院長の目が見開かれる。だが、俺の心はもう決まっていた。怒りと悔しさと、そして何よりも自分の命を守るために。俺は制服の胸元を掴みながら、ふらつく足で立ち上がった。
学院長の声が背後から響く。
「勝手にしろ!」
その冷たい一言を聞きながら、俺は保健室を後にした。
◇
外に出ると、春の風が頬を撫でた。桜の花びらがはらはらと舞い、青空に淡い色を散らしている。長い冬が終わり、世界は明るさを取り戻していた。
だが俺の胸の奥は、まだ重たかった。行くあてもなく、ただふらふらと街を歩く。桜並木の下をのんびり散策しながら、自分の将来を考えていた。
「俺は……これからどうすればいいんだろうな」
そんな独り言を漏らした時、不意に懐かしい声が耳に届いた。
「――アトラスさん?」
振り向くと、そこに立っていたのは銀の髪を結い上げた少女。どこか大人びた落ち着きを漂わせながらも、まだ幼さを残した面差し。忘れもしない、リース=グラスゴーだった。
「リース……? 本当にお前か!」
胸の奥に、懐かしさと驚きが一気に込み上げた。彼女は小さく微笑み、軽く会釈をする。
「はい。元気してましたか?」
「お、お前こそ! あの後……大変だったんじゃないか?」
「まあ、いろいろと。でも今は大丈夫です。今は騎士団の寮で働いているんですよ」
「もう仕事を……? はやかったな」
俺が感心していると、リースは逆に問い返してきた。
「アトラスさんは……学院の仕事は?」
少し気まずさを覚えつつも、正直に答えた。
「やめたんだ。過労で倒れたのに、学院長に仮病だと叱られてな。もう無理だと思って」
リースは小さく頷き、そしてふっと微笑んだ。
「それなら……ちょうどいいかもしれません」
「え?」
「騎士団の事務所でも、人手が足りなくて困ってるんです。もしよかったら、アトラスさんもどうですか?」
思いがけない言葉に、俺は目を瞬かせた。だが、すぐに現実的な疑問が浮かぶ。
「でも、俺なんかが……」
「大丈夫です。ただし……条件があります」
リースの瞳が少し真剣さを帯びた。
「実は、私はまだ十六歳なんです。でも十八歳と偽って働いているんです。募集条件が十八歳以上なので……。だから、そこは内緒にしてください。それと、学院を追放されたことも秘密に。元公爵令嬢だということも」
「なるほど……」
俺はしばし考え、そして力強く頷いた。
「わかった。秘密は守る。お前があれだけ頑張ってたのを、俺は知ってるからな」
リースの表情がぱっと明るくなった。その笑顔を見て、俺の胸にも久々に温かいものが灯る。
「じゃあ、一緒に行きましょう。騎士団の事務所に」
桜の花びらが舞い落ちる中、俺たちは並んで歩き出した。学院に捨てられた二人が、今度は新しい場所で力を合わせるために。




