第30話 アトラス視点 ― 厨房の混乱と学院長の理不尽
アトラス視点 ― 厨房の混乱と学院長の理不尽
春の陽射しが差し込み、窓辺には梅の花が散りはじめていた。季節は冬を越えてようやく柔らかな色を取り戻しつつある。だが、学院の空気は少しも和らいではいなかった。むしろ、ここ数日の慌ただしさは、冬よりもずっと厳しいものだった。
――キャンベルが辞めた。
厨房を一手に支えていた料理番が、学院長室に辞表を叩きつけてそのまま出ていったという話は、瞬く間に学院中を駆け巡った。
あの無骨で頼りになる料理人の姿を、二度と厨房で見られないと思うと、正直胸の奥が重苦しい。彼がいたからこそ、百人近い生徒や教師たちの食事が滞りなく回っていたのに。
その翌日。俺は、またしても書類の山に埋もれながら、胃のあたりをきりきりと痛めていた。厨房から届く「材料の仕入れが遅れている」「調理人が足りない」といった報告が、ひとつ、ふたつと机の上に積み重なっていく。だが俺には、調理場に立つ腕もなければ、人員を集める権限もない。ただ報告を整理し、学院長に提出するだけ。それでも、現場の悲鳴がひしひしと伝わってくるから、胸が苦しかった。
「アトラス、学院長がお呼びです」
同僚の事務員に声をかけられ、重い足取りで学院長室へ向かう。扉を叩くと、いつもの冷ややかな声が返ってきた。
「入れ」
「失礼します」
中では、青髪をきっちり撫でつけたアーセナル学院長が、革張りの椅子に深々と腰掛けていた。机には山のような書類が広がっているが、その目は俺に冷たく向けられる。
「アトラス、厨房が混乱していると聞いた。キャンベルが辞めたせいだな」
「はい……。ですが、彼の代わりを立てないことには――」
「代わりなど要らん」
「えっ……?」
思わず言葉を失った。学院長は眉ひとつ動かさず、淡々と告げる。
「お前がどうにかしろ。厨房の仕入れも調理も、事務員なら工夫すればできるだろう。余計な経費はかけられん」
「で、ですが……私は料理の素人です! それに、人員も足りません。このままでは生徒たちに食事を出すことすら――」
「泣き言を言うな」
鋭い声が室内を切り裂いた。俺は反射的に背筋を伸ばす。
「お前は事務員だろう。学院のために働け。工夫が足りんのだ。――いいな?」
言い捨てると、学院長はもう俺を見ていなかった。机の書類を手に取り、勝手に話を打ち切る。その冷淡さに、背筋が凍る。
「……承知しました」
どうしようもなく小さな声で答えるしかなかった。だが、心の中は怒りと絶望でぐちゃぐちゃだ。書類の処理でさえ一人では手が足りないのに、今度は厨房まで? そんなの、到底無理に決まっている。
学院長室を出て、長い廊下を歩きながら、俺は深くため息をついた。
窓から吹き込む春の風が、やけに冷たく感じられる。
――学院長は何もわかっていない。
キャンベルがいなくなったことでどれほど現場が混乱しているか、想像すらしていない。いや、知ろうともしないのだ。
◇
案の定、その日の昼食は大惨事だった。
慣れない新人たちが必死に鍋を振るい、焦げついた匂いが食堂に充満する。配膳が間に合わず、廊下には生徒たちの長蛇の列。苛立ちを隠せない教師たちが、次々と厨房に怒鳴り込む。
俺は必死に帳簿を抱え、仕入れや経費の穴を塞ごうと奔走したが、とても追いつけない。これでは「学院の信用が地に落ちる」と思ったのも、時間の問題だった。
「アトラスさん! パンが足りません!」
「スープが焦げました!」
「このままじゃ食堂が開けません!」
次々と飛び込んでくる悲鳴に、頭を抱えるしかなかった。
◇
一方その頃、学院長アーセナルは――。
「さて、今日は彼女のところへ行くとしようか」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟くと、彼は書類を机に放り出した。冷たい青髪を指で整え、鏡の前で身なりを確認する。黒いマントを羽織り、足取り軽く執務室を出る。
向かう先は、街の外れにある屋敷。そこには学院の者は決して近づかない。
学院長の「愛人」が住む場所だった。
彼にとって学院の混乱など、どうでもよかったのだろう。
疲れ切った事務員や、空腹に不満を漏らす生徒たちの姿よりも、彼女と過ごす甘美な午後の方がずっと大切なのだ。
春の花びらが舞う石畳を、アーセナルは上機嫌に歩いていく。
その背中に、学院を支える人々の嘆きが届くことは、永遠にないのだった。




